長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年3月31日日曜日
主の復活の朝です。ニンゲンにチカラと希望がわく朝です
主の復活の日です。ミサとお祈りが終わって、朝の食卓に、外部から、復活のタマゴと、お菓子の差し入れがあった。タマゴは、カラを破って、イノチが誕生する。「主は復活された。アレルヤ」。喜ばしい朝ですね。司祭は、ミサのお説教で、「信じて、つながる、今」を強調していました。弟子たちが、主イエスの復活を信じた。それが、つながって来たから、今の私たちの信仰がある。広い意味での信仰を認める。確かに、そうでしょう。主が、寄り添ってくださる。どんなに孤独であっても、主が、ソバに居てくださる。それを信じ、受け継いできたのが、信仰です。それだけで、いいじゃ、ありませんか。主イエスが十字架の上で亡くなったままで、それで終わりなら、こんなに惨めな結末はない。実際、主の復活の体験で、弟子たちの心はバクハツし、キリスト教は成立しました。ミサのとき思いました。「よくぞ、まあ、このミサが、2000年も、代々つづいて来ました。ニンゲンの仕業では、考えられないよ」。自分の信仰は、小さい。受け継いで、流れてきた信仰は、絶大です。ニンゲンに希望が湧いてくる。惨めなニンゲンに、生きるチカラが燃えてくる。「今どきのニンゲンは、誰も彼も、多弁になり、しゃべり過ぎている。主張すぎる。カッコよく、見せたいんですね。少しは黙って、人の話を、聞こうじゃないか。自然の声を、神の声を聞こうじゃないか。復活の朝は、姿を追い求めるのでなくて、黙って、寄り添い、息づかいを感じる時だと思います」
2013年3月30日土曜日
ボケない、5つの方策。声を出して、祈るのが最適です
ボケないで、脳を活性化させる方法が、5つ、あると、テレビが言った。まず①よく、噛むこと。噛むことによって、脳の中が刺激される。噛むといえば、自分の歯は、天然で、入れ歯じゃないよ。これが自慢です。しっかり、噛むように、心がけよう。これは割りと難しい。早食いだからね。次は②本や新聞を、声を出して、読むこと。これは朝夕、聖務日課を、大きな声を出して、しっかり称えているから大丈夫でしょう。全くこれが功を奏している。それに、毎日のロザリオ。声を出して唱える。これも、ボケ防止には、よいでしょう。自然に、うまく、やっているわけです。次が③歌、カラオケを大声で歌うこと。カラオケといえば、今は、やっていないね。一時期は、よく流行った。カラオケの器械もちゃんと持っている。器械を出して、唄ってみるか、そう思います。抵抗もある。レパトリが少なく、あまり上手でないからね。声をリズムに乗せられない難点がある。④翌日の予定を立てること。翌日の予定というか、パソコン日記を毎日、書いているから、これがタメになる。ボケ防止になっているでしょう。原稿も書くし、幸いになっている。⑤最後は、料理をする、がある。これは出来ないね。炊事場に立てないのです。修道院という公の場所だからね。勝手に炊事場に入ることは、以前は許されなかった。今は入ることは出来るが、腕が無い。料理は出来ない、習慣がついている。料理の変わりに、水墨画だね。色紙を描いている。これに没頭すれば、料理の代役になるでしょう。それに最もいいのが、聖コルベ館に見学に来る人との、出逢いです。話しが出来て、楽しい。これが唯一の、ボケ防止の、脳の活性化ではないでしょうか。とにかく、出来ることを、希望をもって実行しよう。
2013年3月29日金曜日
入浴の日が楽しみです。感染症に罹るなよ。キレイにしよう
ヘルパーのイマムラさん。入浴しながら、彼が言った。「日記を読みました。いろいろな人が来るんですね。いい出逢いですね。私も、長崎という町に住んでいて、恵が丘にいて、そこに居るから、いろんな人と出会えます。恵まれていますよ」。ゲンキな彼の発言に共鳴した。確かに、そうだね。人の生き方は、限られている。その中でも、この町、この場所に居るから、沢山の出逢いができる。有り難いことでは、ないですか。歳は取っても、聖コルベ館に居るだけで、向こうの方から見学に来てくれる。出逢いができる。定められた席じゃないですか。イマムラさんは、熱心に、丹念に、入浴の手伝いをしてくれた。「写真を撮らせてください」。彼が携帯で、パチリ。「デジカメじゃ、ないの?」「今頃の携帯は、性能がいいのです」「今度は、ボクに撮らせてね」。カッコよく、ポーズしたのが、この出来栄えです。ちょうど、1時間、がんばってくれた。「最近の体調は、どうですか」「おかげで、いいよ。定期的に、カラダもキレイにしてくれるので、清潔になって、カゼも今年は引かなかった。ありがたいね」「気をつけて、ください」「今年が、山だね。老人は急にカラダの調子が急転するからね」。入浴の日が、とても楽しみです。
2013年3月28日木曜日
サクラの開花。今年は10日ほど早い。ルルドに桜一杯
もう、ルルドへも登れなくなった。以前は、走って登っていたのにね。体力の変化ですね。ルルドの清掃をしてくださる白浜さんに、「ルルドのサクラ、どうです?」「いまが満開です」「写真を撮って来てください」。ルルドへの坂道。いま、サクラが花盛りです。気持ちで、登りますよ。アタマのなかに、妙な、勝手な、歌が浮かんでくる。「参ろうや、参ろうや。サンタ・クララのカネがなる。与野は、ヨカ、ヨカ、よいところ」。こんな歌だったか、知らないが、アタマにこびり付いている。与野、とは、浦上の一部で、サンタ・クララ教会の跡が今でも碑が立って、残っている。この教会のすぐ近くで、母親は生まれた。その母親が、この聖母の騎士の、コルベ神父のルルドに連れて来たのだった。「その導きが、ありがたい。修道士に導くお恵みになった。今になってみれば、感謝しかない。ルルドといえば、母の思い出につながる。清らかな思い出は残して生きたいと思います。
2013年3月27日水曜日
長崎のキッテ。ルーマニアの2家族へ。韓国から。幸一君
長崎で出しているキッテです。大浦天主堂あり、浦上天主堂あり、めがね橋、グラバー邸もある。平和祈念像や、アカいお寺、じゃ踊り、ランタン祭り、長崎ミナトの明かり、などなど、いいですねえ。ルーマニアの2つの家族に、色紙で得たおカネ、200ユーロ、200ユーロ、2組を送りました。きっと喜んでくれるでしょう。送金のとき、中央郵便局で買ったのが、この長崎のキッテです。★韓国のテーグの李大司教さまから、3度目のご招待のお手紙が届いた。5月4日に、永井隆博士の如己(にょこ)の会があるので、来てくれませんか。ありがたい、お誘いです。行きたいのは、山々ですが、さて、行けるかなあ。悩んでおります。★田川幸一君のお母さんから、お礼の手紙がきました。「長崎までの乗り物、自分のチカラを試したい、冒険をしてみたい、電車やバスの長旅になった。修道生活や、他の聖職者の方との触れ合いも、楽しかった。心地よいものを受け止めた。(志願院に)顔見知りの人やギターをしている人がいて、自分と同じような事をしている神学生の高校生が長崎にいた、と言っている。土曜、日曜と、長崎の教会では、やっぱり、みんなよく祈っていて、いいなあと改めて感じた。ペンギン館やハウステンボスは一緒に行っていただき、とってもお元気で楽しかった。すし屋で大トロを食べて、あの味と感触は説明できないわあ、と自慢していた。大きな自信と安らぎとお恵みを受けて、成長の糧になったと思います」★幸一よ、大学出たら、神学生になって、神父さんになって、オレの跡を継ぎなさい。期待しているぞ。
2013年3月26日火曜日
長崎港に着いた観光船から、1人の外国人が聖コルベ館へ
長崎港に、3万トンの大きな客船が入港した。(写真は実際に、この船です)。この船に乗って、アジア各地のクルーズに参加しているオーストラリア人の二ール・ペグリーさん(80歳)が、長崎へ上陸すると、早速、聖コルベ館を訪れた。普通のお客さんたちは、「サクラを見に行きたいです」「おいしい日本料理を食べたいです」とテレビで言っていたのに、ペグリーさんは、聖コルベ館へこられたわけだ。案内したのは、知り合いの長崎・被爆者たちだった。「どうして来ましたか?」。ペグリーさんによると、子どもの頃、宣教師の両親と中国にいた。すると戦争が始まり、日本軍から抑留されて、苦労された。その影響もあって、戦後は、強制収容所や、外国人捕虜の研究をしている。それで紹介されて訪ねてきた。聖母の騎士は、もと敵国人の収容所になっていた。敵国とは、アメリカ、イギリス、オランダなどの国に属する人たちだった。シスターもいたし、宣教師や、普通の民間人も居た。一方、聖母の騎士のポーランド人たちは、敵国ではなく、彼ら修道士たちは熊本県・阿蘇の温泉へ抑留されている。小崎修道士は、ペグリーさんに、収容所のことや、コルベ神父の宣教と、生活、強制収容所での犠牲などを語った。いずれにしても悲しい戦争の出来事だった。写真の右が、ぺグリーさん。左が、奥さん。「平和を願いましょうね」と固い握手をして別れた。この後、原爆資料館へ回ったそうだ。
2013年3月25日月曜日
大山教会のサクラのマリアさま。今年も、来ましたよ
今年も出かける。長崎市内の大山教会のマリアさまのサクラ花見。いいお天気ですよ。午前中に、出発する。途中で、コンビニでワゴン車をとめて、昼食を、思い思いに、買った。大山教会に着くと、主任司祭の三村神父さまが庭で、待っておられた。「やあ、お世話になります」。シスターも、大山の女性信徒も、いる。今年のサクラは、花が少ないようですね」「花が、少ない年になっている」と三村神父さん。今年は司祭になって、50周年の金祝を迎える。「昼から、そのお祝いに招待されているので、出かけます。ごめんね」「いいですよ。おめでとうございます」。ゴザを広げて、昼食を始める。シスターさんがお茶の接待をする。信者さんが、大山特産の、タケノコを、おいしく味つけして、振舞った。時間まで、三村神父さんも、ごいっしょに、座って、語らった。楽しかったよ。12時になると、シスターが、お告げのカネを、手で打ち鳴らした。カネの音が、山々にコダマしていく。ああ、のんびりだなあ。祈りがあって、マリアさまがいて、神父さんがいて、メジロがピイチク、鳴いていて、「これぞ、長崎の信仰」と心から思いました。教会に入って、ロザリオを1本、唱えた。平和を祈る、幸福を祈る、信仰年の伝達を祈る。満足した、半日でした。これで、4年になるかな。教会のサイン帳に記録して、山をおりた。大山町、70戸、全員がカトリック信者です。その7割が、大山の姓です。こんな珍しい町はない。山道で、そりゃ、大変なところですよ。午後2時に、聖コルベ館へ戻った。
2013年3月24日日曜日
将棋の名人、加藤一二三さんは、聖コルベを慕う人です
いつぞや、将棋の加藤一二三さんを知っている男性が、聖コルベ館にやってきた。「洗礼の代父になって、いただいた」と加藤さんのことを言う。加藤さんなら、聖コルベが聖人になったとき、いっしょにバチカンへ巡礼したので、よく知っている。拙著「ドキュメント・キリスト信者」にも、加藤さんの信仰を取り上げた。聖コルベを慕っておられる。それから、しばらくして、また別の男性がやって来て、言った。「仕事の関係で、加藤さんにお世話になっている、四谷のイグナチオ教会でも、加藤さんは活躍されている」。それを聞いて、即刻、色紙を預けて、「もし、よかったら、加藤さんに差し上げてください」と、1枚の手描きの色紙を渡した。すると、その男性から手紙と、写真と、加藤さんの本が送られてきた。「加藤さんは、喜んで、受けてくださった」。写真は、将棋会館の会議室で、嬉しそうにして、おられる。加藤さんは、本に書いている。「コルベ神父さまの生き方を尊敬しています。チェスが大変強かったそうで、そういう意味で、棋士としても、とてもシンパシーを感じています」「よかったですね」
2013年3月23日土曜日
田川幸一君の軍艦島行き。ヘルパーさんが、話のきっかけ
2013年3月22日金曜日
ゲンキな、助っ人。入浴、掃除のヘルパーさん。助かる
毎週、来てくれる助っ人、男子ヘルパーさん、いい男でしょう。親切だよ。午後の時間、定刻になると、「トン、トン」と、ドアーをノックする。「待っていたよ」。手順が決まっている。風呂を洗い、湯をためる。部屋の掃除。フトン、マットを陽に向けて、ゲンキに揺さぶる。写真の如く、眺めも、いいよ。これは余分かなあ。いいカオ、している。要・支援1だからね。入浴する。掃除機で、部屋の掃除。ていねいに。「イマムラさーん」。大きな声で呼ぶと、「ハイ」。ゲンキに返事。カラダを洗ってくれる。ゼイタクだよ。2年ほど前は、不具合で、1人で入浴も、ままならなかった。倒れるやも、知れぬ。介護士の免許がある修道士さんに、介護を頼んで、入浴していた。その延長です。洗いが終わると、ゆっくり仕上げの湯につかる。カラダに、クリームを塗って、終わり。ちょうど50分。おかげで、この冬はカゼも引かない。カラダを清潔にしないと、感染症にかかる。★定期の診察日。泌尿器科へ。お医者さんとの会話は、1言、2言。幸いに、「かわりありません」「それは、いいですね」「ボウコウの方は、どうですか」「ステント入れ替えのとき、よく見ておきました。大丈夫です」。安心しています。もう何年前になるかな。苦しみました。しかしお恵みですよね。助けられた。ガンは克服した。よかった、よ。
2013年3月21日木曜日
ある日の、3時間の心の動き。思いは総て消えていく
1人の若者が、祭壇の前に進み出て、神に奉仕するとの「誓願」を立てた。参加者の皆さんは、彼を祝福し、祈り、聖歌を唄い、喜びをあらわした。記念の撮影がおこなわれ、その後で、祝賀会がお祝いされた。1人の修道士はそれらの式に与りながら、胸のうち、思いは色々と交差していた。①奉献の誓いの姿を眺めながら、ニンゲンは自分を無にしても、純粋な心情に生きる時もあると感じた。②思いは、12世紀の師父聖フランシスコに馳せていた。現実に、貧しさに生き、平和と喜びに生きた人がいた。その心に強く引かれる。③お祝いの席には、お偉い方々が、多数、参加されていた。修道士は、1歩下がって、小さくなっていた。しかも老人でもある。出番は無かった。④しかしジメジメした気持ちはない。「記念写真を撮りますよ」と言われれば、率先して皆さんと同調して、並んで待った。⑤祝賀会が始まった。興味は、「カンパイの音頭の口上」だった。指名された司祭は、上手に、笑わせながら、手短にやって、のけた。「さすが、だな」と感心した。⑥料理は豪華だった。上等のブドウ酒もあったが、飲まず、お茶を飲んだ。白身のサカナの握りずし、4個を食べ、ビーフ・シチューを食べ、それだけで終わった。⑦会話は、人の中を泳いで、話しかける積極性は、遠慮した。窓際のイスに腰掛け、寄ってきた数人と語った。これが午前11時から、午後2時までの、3時間の心の動きだった。誰にも、打ち明けない心の揺れだった。★⑧散会した後、パソコンで、フェース・ブックを教えるという。この日、開いた。
2013年3月20日水曜日
ゲンキな中学生たちに囲まれて、こちらもゲンキになる
「おお、来たか。待っていたよ」。関東からの中学生たち、70人あまりが修学旅行でやってきた。毎年、今どきに来ている学校だ。20年来、来ているだろう。例によって、教会で、話を聞かせる。30分、皆さん、目を輝かせて、聞いてくれるんですね。話し甲斐があるよ。心は純粋だからね。こちらが真剣に話すと、ちゃんと通じる。この若者たちに、何を伝えるべきか。話す度に、迷いが残ります。自分自身がイヤになる思いもある。それらに打ち勝って、「よし、また、やるぞ」。気持ちを盛り上げる。聖コルベ館の資料室には、写真アルバムが、20冊ほど、並べてある。中学生たちは、先輩たちの写真を見ていた。写真屋さんも同行しているので、後から写真を送ってくる。残しているのです。やっぱり、ためになりますよ。中学生たちは、3泊4日で、阿蘇から、天草、島原、長崎と回ってきた。思い出もイッパイ作っただろう。
2013年3月19日火曜日
聖ヨゼフの祭日。願いを必ず取り次いでくださる。祈ろう
教会では、聖ヨゼフの祭日をお祝いしました。聖家族といえば、養父、聖ヨゼフと、聖母マリア、幼子イエスのイメージがあります。聖ヨゼフは守り手です。マリアさまを守り、イエスを養い、育て、大きな役割を果たしました。しかし隠れた聖人でした。隠れて、善い行ないをする人を、神さまは、ごらんになっておられる。それが強みです。「ヒトは、目で、見る。神さまは、心で、見る」。これは私たちの生活でも大切なところでしょう。隠れた所を、じっと支える貴重な人材も居ます。それでも、意義はあります。見ている方が居られるからです。聖ヨゼフは良き臨終の保護者とも言われます。聖ヨゼフに日ごろから祈っていると、幸いな死に方が与えられる。導かれる。強められ、慰められる、そう信じられてきました。実際、よき死の恵みを与えられたカシアノ修道士や、親友の小神学生の例を知っています。ある聖女は「聖ヨゼフにお取次ぎのお願いして、聞き入れられなかったことはない」とまで言い切っています。聖ヨゼフのお姿を、時々見詰め、お願いの取次ぎを祈りましょう。きっと希望が湧いてくるでしょう。
2013年3月18日月曜日
ハウステンボスから夜行のバスで、大阪へ戻った。2泊3日の旅
幸一君は、夜行・高速バスで、長崎を出発する。バスが出るのは、ハウステンボスです。それで、午後から、白浜さんの軽・運転で、現地へ行った。これも思い出つくりです。着いたのは、午後3時半過ぎで、バスの発車時刻は、午後8時15分です。時間があるので、ハウステンボスを散策する。あまりの広さに、また足も痛いので、どこを見たらいいのか、迷った。4人乗りの自転車を借りて、幸一君と白浜さんが車をこいで、園内を回る。夕方になって、きれいな電灯がつきはじめた。レストランで、野菜スープと、スパゲッティを食べる。すっかり夜になった。こうして、田川幸一君の、ナガサキ旅行は、終わった。実質は、2日間だったが、充実した日程だったと思う。「お母さんが、色紙を4枚買ってきなさい」。選んだ色紙は、コルベ神父の愛、カニの絵、それに「生かされて、今日も、祈る」。これは幸一が選んだ。「小崎さん、らしい」と言って。おみゃげも、長崎駅のおみやげ・センターで、沢山買った。幸一は、誰とでも、気安く会話が出来る。とは言うものの、本人は「人みしりする」と言っている。そうではないだろう。考えてみれば、ふしぎな縁だよ。幸一の名前は時々見るが、田川幸一、いっしょなんて、めずらしいよ。洗礼名は何だ?「十字架のヨハネです」。カルメル会じゃあないか。名前を付けたのが「神父さんなら、多分、カルメル会の神父さんだろう。「姓も、ちゃんと覚えていなさい」
2013年3月17日日曜日
幸一2世は、心の優しい高校生だった。「ナガサキが、好き」
幸一君を連れて、ペンギン水族館へ遊びに行った。入館料は大人が、500円。「60歳以上は、無料と書いてありますよ」と幸一君が看板を見て教えた。「ああ、そうか」。受付で、係りの女性が、「証拠を見せてください」という。顔を見れば、老人と分かるのにね、と思いつつ、免許証を出して見せた。「田川幸一」と明記してある。幸一を振り返って、幸一がほほ笑んだ。そんな、こんなで、入館する。大小のペンギンが大勢いた。かなり有名な、実績がある水族館だった。2歳、3歳の、若い夫妻の子ども連れが多い。ペンギンは幼い子どもたちと、背丈が同じだ。それで人気があるんだな。疲れない。「いまから、エサやりの体験ができます」とアナウンス。幸一君が挑戦した。幸一君は、気安いところがあるよ。みんなから、好かれるようだな。ペンギンからも、好かれているよ。「さあ、こい、こい、おいしい、ごちそう、やるよ」。ペンギンたちが、寄ってくる。上から、デジカメで写真を撮った。記念になるからね。幸一2世は、心の優しい子だった。挨拶も、きちんと、するしね。評判は良かったから、当方のカオもいい。幸一2世、がんばれよ。神父さんが言った。「フランシスコ会に入りたいと思ったら、いつでも来なさいよ。前途、有望だ」。本人は言った。「ナガサキが、好きです」
2013年3月16日土曜日
大阪の田川幸一君が、来る。「大きくなったな」。大歓迎だ
大阪に、田川幸一という少年がいた。お母さんが、ネットで、この名前の人物を検索していると、聖母の騎士の「田川」修道士が分かった。早速、電話をして、家族で訪ねて来たのが、2006年の春休み、幸一少年が、小学4年のときだった。(写真・上)。あれから7年の歳月が流れている。幸一少年は、高校生になり、カラダも背が伸びた。「春休みに、来ます」という。「おお、待っているぞ」。費用をかけずに旅行を計画し、来る時は、青春キップ、大阪から長崎まで、ドン行で、乗り継いで、やってきた。朝、6時30分に大阪を出て、夜の11時4分に長崎に着いた。赤尾院長・神父さんと出迎えに出る。列車が着くと、真っ先に、ニコニコしながら姿をあらわした。ヒトなつこい、誰にでも親しく話しが出来る高校生になっていた。(写真・下)。「久しぶりだな」。その夜は、修道院の暖かい部屋に宿泊した。★次の日、院内の食堂で、修道者たちと朝食をとる。皆さんから大いに歓迎される。午前中、小崎修道士と、東長崎の教会を見学、信者さんたちがロザリオを唱えていた。次に、ペンギン水族館へ行く。かわいいペンギンが沢山いる。幸一君も、アジの魚のエサを、ペンギンに直接に渡して、満足していた。心の優しい幸一だった。次に、回転寿司に入り、昼食をすませる。長崎のサカナは新鮮で、ネタがいい。ハマチ、アジ、タイ、ヒラス、ヒラメ、それに、大トロを食べた。満足して帰る。午後は、大水神父さんが、3人の志願院生(高校生)と共に、船で、軍艦島見物へ出かけた。廃墟になった炭鉱で、見学者は、100人ほど大勢がいた。普通には見られない光景だった。夜は、院内で、修道者と一緒に夕食をとった。1997年3月の生まれ。その2年前の1995年は、阪神・淡路大震災が起こり、サリン事件も起こった。結局、少年にとっては、戦争も、原爆も、歴史でしかない。小崎修道士は、実際に原爆を体験しているから、ナマの声で聞いたほうがいい、そういう談義になった。夕食の後で、幸一は、志願院へ遊びにいって、高校生たちと語らったという。そういう積極性が、小崎修道士には嬉しく思えた。ふしぎだと思うよ。同姓同名の少年が訪ねて来て、仲良しになった。孫のような少年だ。小崎修道士は「田川幸一・本名」を使うことは殆ど無いが、少年に言い聞かせた。「田川幸一は、いい名前だよ。オレは好きだな。真ん中から折れば、きれいに重なるからね。すっきりした、いい名前さ」「ハイ、ハイ」と少年はホホエミ、うなずいていた。
2013年3月15日金曜日
出会いは喜びに変わった。広島の夫妻が吹いた音色。樹音
広島から見学に来た夫妻の物語。歳は50代の後半であろうか。熱心に、資料を見ていた。ダンナさんが「小崎さんですか?」と聞く。「そうです、どうして?」「長崎へ来る前に、この本を勧められた」と、『長崎オラショの旅』を見せた。ピンときたので、黒いソファーに招いた。女性が話し始めた。「若い頃、悩みがあって、傷心の胸を抱いて、長崎へきて、五島へ渡った。堂崎天主堂を見学して、1泊する。翌朝、ジェット便で、上五島へ向かおうと、船の乗場へ着いた。ギリギリの時間で、待合室は満席で、1つだけ席があいていた。そこへ座った。隣に、シスターがいた。女性は問うた。「シスターになるには、年令に制限があるのですか?」。答える間もなく、乗船となった。シスターが直ぐに、船内の席の番号を教えて、「よかったら、ここへ」と言った。女性はシスターの傍に行った。そのとき、ロザリオを下さったという。「ロザリオは今でも大切に持っています」。女性は道を求めて、キリスト信者になった。隣の男性もキリスト信者であった。教会は違うという。お互いに知り合って、結婚した。旅行で、長野県・信州・蓼科(たてしな)へ行った時、観光地の売店で、「いつくしみ・ふかき・友なる・イエスは」の音楽が流れていた。「あの音楽は、何ですか?」。それが、樹音(じゅ・ね)だった。クルミや、カリンの木を、手のひら程の大きさで、中をくりぬいて、前に4つ、後ろに2つの穴をあけている。上の細くした部分から吹くと、音が出る。これは5、6年前に、長野の原村に住まわれる安川誠さんが考案したもので、その音色に魅せられた。以来、夫妻で吹いている。「聞かせてください」とお願いすると、ごらんのように吹き始めた。聖歌や、唱歌を吹くという。音色を聞きつつ、落ち着いた、幸せな夫妻を感じた。「長崎へ来た理由は、シスターにお礼を言うためです」。シスターは今、長崎市内にいて、年賀状に、春には五島へ移ると書いてあったので、訪ねて来た。「会いました?」「ハイ」「ロザリオ、見せました?」「見せました」「よかったですね」。そして次に言った言葉が修道士の胸に、イッシュン、ヒラメキを与えた。「大切なものを、わからない者にくださった」と。そーだよ。神さまは、大切なものを、わからない私たちに、おろかな私たちに、くださった。これこそが信仰の基本ではないか、と。「いま、心に浮かぶ、大切な言葉は何ですか」「夢の中で聞いた言葉、神を第1に、神の国とその義を求めよ」。夫妻はシスターからもらったという新聞紙に包んだ大きな十字架を抱いて、去った。
2013年3月14日木曜日
朝から、横浜の母親さんたち来る。新・教皇さまが決まった日
早朝から、女性の一団がくる。先に、ルルドへ登り、しばらくの後、聖コルベ館の開館の頃合いを見て、入ってきた。横浜・聖光学院の母親会の皆さんです。毎年、やってくる。平戸から、外海を回って長崎へ来た。案内者は、教師の古川先生。巡礼の世話をしながら、説明もして、ベテランになっている。熱心な案内には、感心する。この度は、小崎修道士を見るなり、言った。「前より、ゲンキそうですね」。コルベ神父の身代わりの愛を話した。「ガヨビニチェックさんは、イノチを助けられたとき、ジンクーエン(ありがとう)と言わなかった。一番ザンネンだった。しかしコルベ神父も何も言わない。大丈夫だよ。それだけで別れた」と言えば、古川先生が耳元で、「聖書に、イエスが憐れみの目で見た、と書いてある。それと同じだね」。いいヒントだった。皆さんが売店へ行った後、修道士は思った。お話しは、母親さんたちの心に伝わったか。満足のいく出来栄えではなかった。★新・教皇さま決まる。フランチェスコ1世。76歳。
2013年3月13日水曜日
ブログや、騎士誌を楽しみに。ハッと心が覚める時がある
3月の、のどかな日、大浦天主堂の庭で写した。「あら、かわいいネコだよ」と、修学旅行の女子学生。「ナガサキのネコも、おんなじだね」「そりゃ、そうだ」「のんびり、しているわ」「陽ざしが、温かい」「ヘイワだね」。今年は、まだ、朝方、寒さが残る。★「毎日、ブログを拝見しています」と、みふみさんから手紙がきた。ブログは生きる証です。なかでも最近、2つの言葉に心を打たれた。①1月25日の「この道しかなかった。これでよかったのです。この道で幸せになりなさい」。みふみさんは、脳の出血になって、「あの時、もし・・」と倒れる前の人生を思い返す、と書いてあった。これも神さまからの授かりもの、しっかり生きていこう、と。②は、2月9日の、亡くなった修道士さんが、過去を話さず、自らの務めを果たされたお姿です。(葬儀のとき、お医者さんの実兄が来られて、びっくりした。生涯、家族のことは何も語らなかった)。「そのお姿に、『長崎のコルベ神父』の著書の、カシアノ修道士さま、マチア修道士さま、ゲラルド修道士さまのお姿が重なった、と記してあった。「宝石のように、貴いお姿です」と。何が、人を感動させるか。神さまの御心を引くか。表面だけでは、分かりませんね。みふみさん、あなたのお手紙で、心が癒されました。春の陽のように、胸が温かくなりました。ネコじゃないけど、幸せな気持ちになりました。
2013年3月12日火曜日
騎士誌の4月号を読んでください。いい記事ですよ。おススメ
騎士誌、4月号に、1つの記事を書いた。事の起こりが、昨年の元日に、東京から、母親と娘さんが来た。その後も、母親は、小崎修道士の日記に、時々コメントを入れてくれた。そこで「元日のエリザベット」と呼んでいた。2度ほど、長崎に、訪ねて来たこともある。1年が経って、今年の正月、新年になって、最初に聖コルベ館に来たのは、また、あの娘さんだった。こんなに、うまーく出会うのが、おもしろい、と思う。その時は、お母さん抜きに、1対1で、話を聞くことが出来た。内容は、18歳というのに、余りにも、奇抜な体験をしている。とても修道士が、まともに書ける体験ではなかった。それでも、ジクソー・パズルの絵が、うまーく収まるように、整っていく、フシギさを感じた。それを、うまく、まとめたのが、この記事になった。だから、自分でも満足のいく文章になった。「これだから、書くのが楽しい。記事を書くのが、やめられないのです」。文の最後に、次のように書いた。「よい人生とは、苦しみがないことではなく、苦しみがあったればこそ、神さまに出会えた。発見した。このように苦しみに、意味を見い出した時に、あなたのジンセイは素晴らしいものになる」
2013年3月11日月曜日
生かされているから、意味がある。小さな決断をする日々
ミサの始まる前に、司祭が言いました。「東日本大震災の日です。2年前の出来事です。多くの亡くなった方がた、今なお苦しんでいる人のために祈り、神さまのご計画の実現を願いましょう」。それを聞いて、「神さまのご計画」という言葉が、グ、グッーと、胸に迫ってきました。そうです、わたしにも確かに、神さまのご計画がある、と言えます。生きている限りは、ね。原爆で、廃墟になったとき、よくぞ行きた、と思いますよ。母が亡くなって悲しい。ボウーゼンとする。17歳の決断ですよ。どう、生きるか。生きて、行かなければ、ならぬ。そのとき信仰を見つけたのは、よかったと思います。今朝は、こんな事も考えた。人間のカラダの細胞は、何万、何億と有る。1個の細胞は、小さいかも知れないが、この1つがガンに罹ると、カラダ全体の健康がそこなわれる。小さな1つでも、見逃せない。意味がある。神さまは、沢山のニンゲンが居ても、自分は小さな細胞でも、分かってくださる、目をとめてくださる、ご計画で導いてくださる。そのように信じます、これも小さな生活の信仰でしょう。「さあ、きょうも、明るく、大きな声を出して、深呼吸をして、手足を動かすぞ」。そう誓いました。
2013年3月10日日曜日
原爆・平和の女の子。9年後、見事、長崎大学合格する
昨夜、めでたい知らせの電話があった。北九州の女の子。「合格しました」「おめでとう」。話は、9年前に、さかのぼる。北九州から、小学6年生、150人が長崎へ修学旅行へ来た。原爆資料館で、被爆者の語り部だった小崎が、原爆と、人の痛みを知る大切さを語った。それを聞いて、感動した女の子がいた。それが晶子さんだった。4年たった、ある日、初めて手紙がきた。「小崎サンのお話、忘れない。自分も平和のために働く人になりたい」。晶子さんとの文通はつづいた。晶子さんは、高校生になり、高校を卒業した。「北九州にも大学はあるが、長崎大学で学んで、地元の被爆者と交流し、2度と、原爆がない、平和な世界のために働きたい」。国立大学の入学は、そう簡単ではない。くじけながらも、あきらめず、時々は、聖コルベ館にも来て、意気を燃やした。そして、昨日、昼間に電話。「いま、休んでいる」。夕方に電話。「いま、祈りの時間です」。夜に電話。食事ちゅうだった。「合格です」「え、ああ、よかった」「歯学部に入りました」「発表は、いつ?」「昨日です」「おめでとう。夢がかなったね」。こんなに嬉しい事があろうか。小学生のとき、話を聞いて、忘れられず、平和のために働きたい、長崎で学びたい、女の子が頑張って、夢を実現させた。まだまだ道は遠いが、希望がある。「また聖コルベ館へいらっしゃい」「ハイ、おじゃまします」。どのように道が開けるか。楽しみイッパイの若者である。
2013年3月9日土曜日
苦労の多い、マル1日の体験でした。まだ生きております
「ステントを交換しなければ、生きていけない。そういうカラダになってしまった」「受け入れよう。現実を。他人を、うらやまない。他人のセイにしない。失望も、しない。与えられている『生』だから、前向きに、生きよう。それだけ、です」。ステント交換は大変でした。正式に、手術室に入る。十字架に付けられたように、両手を広げて、おお向けになる。「始めますよ。麻酔のゼリーを入れます」。4分後、「カメラを入れます。細い箇所を通ります。ガマンしてね」「ムー、ウーん」「ハイ、終わりました」「カメラを入れて、何分でした?」「7分です」。すると、麻酔から、11分の処置。早かった。「ステント入れて、何回ですか?」「7回ですね」「ありがとうございました」。車イスで病室へ帰る。1段らくした。注意すべきは、発熱。7度1分あった。幸い、すぐ、平熱になった。ステント交換で、ジンゾウが、ダメージを受けたのか。尿が、ドンドン、出る。ビックリだよ。7時間かけて、500mlの点滴。その後、もう1本、小さい点滴。長い、夜が来た。カラダは疲れているが、その夜は残念ながら眠れない。2人部屋は、いろいろ難問がある。ぼんやり、アタマで朝を迎えた。疲労は解決しなかった。「もう、退院して、いいですよ」。午前中に、聖コルベ館へ戻った。足元がフラフラする。「こりゃ、ヤバイばい」。午後、自室で、ゆっくり休む。ゲンキが快復して、夕方、聖コルベ館へ。長ーい、1日は終わった。手はむくみ、顔も、ハレッポイ。「トマさんは、十字架が多いね」。見舞い客の感想でした。
2013年3月8日金曜日
腎臓のクダを入れ替える。クダにつながれ、生をつなぐ
痛い、ガマの1日。泌尿器科へ出かけます。入院して、午後から、腎臓のクダ(ステント)を入れ替えます。「これを、しないと、いけませんか」。お医者さんの答え。「入れていた方が、安心です。3ヶ月に、1度、入れ替えましょう」。痛いのを、ガマンだね。下から、器具や、カメラを入れるからね。覚悟の上です。生きることは、痛みだよ。しかめツラは、やめよう。リラックスしていた方が、後が楽になる。きょう、1晩の辛抱だね。生かしてもらって、ありがたいよ。あしたは、帰れるでしょう。「生まれてきて、よかったと、1度は、思いたい。そう言えぬ人生なんて、ツマランたい。生かされている、喜びがある。悪に負けない、勇気もある。お礼を求めない、愛もある。それで、いいのだ。それでも、ニンゲンは、悩むのです。フシギやと、思いますよ」
2013年3月7日木曜日
島原へ行ったら、具雑煮を食べる。悲しい食の物語。おいしい
「島原の乱」といえば、1600年代にさかのぼる。立てこもった城のなかで、食べるものが少なくなる。お餅を入れて、チカラが出るように、それに多くの野菜をぶち込んで、グツグツと煮て、かろうじて飢えをしのいだ。それを具雑煮と呼んだ。姫松屋が代々受け継いで、今に伝えるという。「ああ、そうですか、そうですか」と言いつつ、悲しいやら、哀れやら、そんな思いをしながら、食べました。餅のほかに、12種類の具が入っていた。「島原に来たら、これを食べなければね」。姫松屋は、ちょうど昼飯どきで、お客で賑わっていた。これで、980円。イナリは1個、40円。島原の思い出が出来た。「群集のなかで、死んだヒトたちは、ほんとうに可哀想だね。長いものに、飲まれるのは、よくないが、ニンゲンって、弱い存在だからね。度等を組まなければ、生きては、いけない。歴史が悲しみを物語っている」
2013年3月6日水曜日
島原城の展示室に、輝く金の十字架がある。価値ある遺品
2013年3月5日火曜日
島原のお城に出かけました。梅は、もう、オシマイだね
2013年3月4日月曜日
2013年3月3日日曜日
聖ヨゼフの月には、カシアノ修道士は忘れない。隠れた聖者
「3月は、聖ヨゼフの月。聖ヨゼフといえば、聖母の騎士のカシアノ・テティヒ修道士さんですね。もう1度、写真を見せて下さい」との願いがあった。炊事場で働くカシアノさんです。ポーランドで聖母の騎士に入会したときから、炊事場係りだった。コルベ神父さまを慕って、長崎へ来てからも、炊事場係り。亡くなるときも、炊事場のかかりだった。体が不具合だったが、修道者たちの夕べの料理を作って、その後、自室にこもって、ベッドへ横になり、聖ヨゼフに祈って、守られつつ、安らかに、本当に聖ヨゼフの如くに、神に召された。最後まで、炊事場のお勤めを果たして、務めを終わって、亡くなった。このような恵まれた死があるだろうか。カシアノ修道士さんから貰った手紙です。カシアノさんの信心、優しさ、熱心さ、生涯を貫く心、それらを忘れない。修道士カシアノさんの姿は、修道士の模範といえる。隠れた聖人、こんな人も居るんだな。人間には希望が持てる。
2013年3月2日土曜日
誕生日の夜はコウフンして、寝つきがよくない。目覚め、ダメ
昨日は、85歳の誕生日で、幾つもの感動がありました。①朝ミサのとき、「トマさんのため祈りましょう」と言われる。②昼は、知人のお宅で、バースデイ・ケイキで、お祝いがある。③夕食は、院で、キビナゴのサシミ、餃子、お寿司で、お祝いがあった。やれやれと、夜は、早めに自室で休んでいたら、めずらしく夜に電話がある。「大阪の、田川幸一です」「おお、幸一君、久しぶり。何年生?」「高1になります」「高校生か」「今度の春休みに、長崎に来ます」「え、え?長崎に来るの?それは良かった。待っているぞ」。④同姓同名の「田川幸一が来る」って聞いて、興奮は高まった。「どこへ案内しよう、口之津のイルカ・ウオッチングか、ハウステンボスか」と考えていたら、とうとう寝はぐれてしまった。事もあろうに、今朝は、30分も、寝過ごしてしまった。あわてて、支度をして、共同の祈りには、間に合った。★大阪の田川幸一君は、名前が同じの少年です。2006年のある日、お母さんがネットで調べていたら、修道士の名前に行き当たって、喜んだ。早速、家族で、訪ねて来たのが、2006年4月1日でした。右は、そのときの写真です。それ以来、交流が続いている。その年の夏には、大阪のお宅を訪問した。その後、幸一君は、2008年夏に単身で長崎へ来た。年月は早いもんだね。あれから中学生を終わって、高校生になったという。3月は楽しみが出来たぞ。今朝は聖コルベ館へ出ると、電話をかけて、旅のアドバイスをした。幸一と、幸一、また握手できるかな。
2013年3月1日金曜日
3月、3つのお知らせ。困難にも希望を持って祈りましょう
今朝、ミサのとき、2人の司祭、6人の修道士が居ました。司式の神父さんは、祈りのなかで、次の3つの話をした。①今日は、トマさんの誕生日です。彼の務めの上に、助けを祈りましょう。②3月は、聖ヨゼフの月になっています。カシアノ修道士さんの著書によれば、聖母の騎士修道院は、戦争のとき、大きな困難があった。聖ヨゼフへの取次ぎによって、見事にお恵みをいただいた。聖ヨゼフの月の務めを果たしましょう。③ベネジクト16世教皇さまは、引退なされた。600年ぶりの出来事です。3月に入って、2週間のうちに新しい教皇さまが選出される。お祈りしましょう。現代も、困難が多い時代になっている。★この聖ヨゼフのご絵は、コルベ神父が日本へ持参した美しい聖絵です。聖コルベ館の資料室に掲げられている。大きな額に入っている。大切にしています。★さて、トマの誕生日に、祈ってくれてありがとう。次に、聖ヨゼフの月だが、戦争中の聖母の騎士の雰囲気、食料不足、軍部の圧力、修道士たちへの締め付け、など実際のご苦労を良く知っている。大変な苦しみでした。その苦難から、抜け出して、戦後は発展を遂げることになった。「苦しみの後に、恵みが来ます。汝、今は知らなくても、後で必ず喜びに変わるであろう、そのように希望を持ちたいものです」。日記を読んでくださる皆さん、何か困難があれば、聖ヨゼフさまに、取次ぎのお祈りを捧げるようにお勧めします。必ずお恵みがあるでしょう。★昼ごはんは、知人のマンションに招かれ、6人が集まり、バースデイ・ケーキを食べました。ワインは、赤と白、2本を飲んで、喜びました。戦争生まれは、女性もゲンキがいいですね。「紀元は2千6百年」を歌いました。楽しい1日でした。
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