長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年2月28日土曜日
2月の最後の日。梅も、ほころびる。春は近い
昨日、書いた田川幸一との出会いは、こころを和ませました。ホームの事務職員さんも言うのです。電話で「田川幸一ですが・・・」と言われて、「え?声が違うな」「別の田川幸一です」。それで、「びっくりしました」。自室に用事できた職員男性も興味をもってくれて、座って話を聞いてくれた。ちょっとした話題になりますね。さっそく、幸一君のお母さんにも手紙を書きました。夕方、散歩の明子さんが来ました。「田川幸一さん、来ました?」と聞かれる。「ハイ、きましたよ」「よかったですね」。明子さんも、よろこんでくれた。散歩のときに撮った梅の花です。もう2月も終わります。明子さんが言うんです。貯金は、貯筋、と言いましたが、「教育は、きょう、行く」。良いことは、すぐに実行しよう。教養は、きょう用。のばさないで、きょう、用事を果たそう。いいことを教えてくれる。★最近は、調子は良好です。
2015年2月27日金曜日
大阪の高校生・田川幸一がホームに面会にきた
いっしょの名前の若者が、訪ねてくるなんて、おもしろいですね。興味があることです。この若者が、そう、なんです。★話は10年ほど前にさかのぼる。大阪のある母親が、息子の名前「田川幸一」を検索していたら、小崎登明の本名が、田川幸一であることを知った。自分たちもカトリック信者である。それで母親と、息子と、姉が長崎の聖コルベ館へ訪ねてきた。幸一君が、小学生のときだった。親しみを感じて、それから交流がはじまった。★夏休みに、2、3度、長崎へくる。中学の修学旅行は長崎だった。高校になると、1人で長崎へきた。小さなドライブも楽しんだ。大阪の彼らの家へ行ったこともある。早いモンですね。あれから10年だよ。午後、電話が入った。「大阪の田川です。今から面会にきて、いいですか」「いま、どこに居るの?」「長崎です」「え?」「受験で、きました」「今日は、遅くなるから、あした、きなさい」。さっそく、次の日、長崎を出て、9時半には、ホームに着いた。「早ーや」。自室で語った、そのときの彼です。「大学は、長崎がいいかなあ、と思って、受験にきました」「なんで、また、長崎?」「なんとなく、長崎です」。田川幸一同士、いろいろ交流もあったからで、ないですか。「長崎へ来るなら、楽しみが、また増えるな」。気さくな感じの若者だった。友達も、すぐ出来るという。★「歳は?」「17歳。誕生日が3月22日で、18歳」。17歳の夏を思い出した。こちらは戦争、原爆、世の中は、すっかり変わっている。ただ、ただ、幸せになってほしいと願った。いまから挑戦が始まるんだな。玄関で別れるとき、彼は携帯で、2人の写真を撮った。「母に、見せます」。夕方の飛行機で、大阪へ帰った。「きょうは、ほんとに、いい日だったよ」★今年の年賀状。「よろしくお願いします。長崎の小崎登明です。体力を考えて、ホームへ入居しました。本名の田川幸一を使っています。元気でおります」
2015年2月25日水曜日
わがまま・我が、まま・ありのまま・でも、やっぱり
人は、人と接しながら、生きていく。1人では、生きられない。1人、生きるのは、さみしいよ。枯葉だな。でもね、人と人に接して、疲れると、ストレスを感じると、1人になりたい時もある。静かに、自分を取り戻したい時もある。ホームの生活は、やっぱり、寂しいよ。それでも、いろいろ有るんですね。知り合いの、90歳になる男性から電話があって、妻をなくした。ホームに入りたいと思うという。入居費はいくらか、司祭はいるのか、ホームの良さは伝えても、寂しさは答えられなかった。寂しさといっても、けっこう、日々、いろいろと有るんです。広島から、車で、夫妻が訪ねてきた。慰めてくれる。昼食は、ホームを出て、近くの町の食事どころで、楽しく会話した。生きているうちが、花です。ありがたいことです。やっぱり自分1人になるのが、よろしい。豪華な家に住まなくても、美味な食事をしなくても、これが自分の生き方、このようにして、この世を過ごしてきた。病気もあった。孤独もあった。雑草でも、たくましく生きてきた。人生って、1本の川の流れのようなものだ。どこを流れるか。川の、1つ、1つで、みな違っている。しかし、その川は、小さくても、まわりには豊かな雑草もある。あかるい自然もあるだろう。
2015年2月21日土曜日
貯金よりも、今は、貯筋(ちょきん)だね
ホームの近所に住んでいる年配の女性が、自室に来るようになった。忙しい人で、夜は遅くまで、からだを動かしているという。「閉じこもっていては、ダメですよ。いっしょに散歩しましょう。付き添いしますから。週に、2回ね、夕方に」。ホームの許可をもらっている。1回目は、自室でお座りして、体調などを聞いてくれた。2回目は、「さあ、外に出ましょう」。女性は毎日、30分は歩いているという。2人は庭に出た。「ひとりで、この庭を歩いています」「では、普通、歩いていない道を歩きましょう」「空を、見て。ほら、ほら、青いでしょう」「めがねを忘れたな。下ばかり見て。ほんとだ、薄い色のブルー」。最近は体力が気になる。足から弱ってくる。歩きながら、女性が言った。「チョキン、チョキン。おカネを貯めるのでなく、筋肉を貯める、チョキン(貯筋)がだいじなのよ。「そうだよ、いいこと、習ったな」。しばらく休憩しよう。あの家、この家、森や、畑が、新鮮な空気となって、胸に入ってくる。40分の運動であった。頼もしい助っ人が現れたぞ。嬉しいなあ。すぐが、夕食の時間となった。「忙しいのに、こんなに介助してくれて、ありがとう」。女性の名は、明子さんといった。
2015年2月18日水曜日
フランシスコ中村安五郎修道士、神に召される
ホームで、1人の修道士を見送った。93歳。老衰のため、安らかに息を引き取った。フランシスコ中村安五郎修道士、天国に直行を示す、平穏にみちた立派な逝去だった。ホームの職員たちが、緻密な面倒をみてくれる。前の日、お見舞いすると、眠っておられた。手を取って、「トマだよ」「フランシスコさん、コルベ神父さまのお話をよくしていたね」と耳もとで、大きく言うと、手をぎゅっと握り返してくれた。あれが別れとなった。★中村修道士は、14歳のときに、聖母の騎士に入った。コルベ神父がまだ長崎に居られたころで、しばらくコルベ神父さまと一緒に生活し、お話を聞き、お祈りをした幸いを体験を得ている。コルベ神父を知る最後の人、修道士であった。コルベ神父の御ひげで、顔をこすられたことを度々思い出に語っていた。私も負けじと、コルベ神父を語ったが、フランシスコ中村修道士には勝てなかった。また彼の話が長かった。★私は戦争中からフランシスコ中村修道士さんを知っている。戦時中の苦労話はこころに残った。修道院は特高刑事から監視され、外出禁止になっている。修道者や小神学生を養うため、リヤカーをひいて、浦上の信徒宅へ食料をもらいに行く。苦労しながら運んで、皆さんを養った。戦後は、東京に出て、赤羽、王子、亀有などで、教会建設で働き、受付係をつとめて、多くの人を信仰に導いた。長崎の聖母の騎士に帰ってからは、40年間、受付係として、教会の顔として、人びとに愛を示し、来る人たちを善導した。聖母の騎士を訪ねたことがある人なら、フランシスコ中村修道士の思い出は、きっと、あるだろう。このような話を思い浮かべると、人の一生、人生は長いと思う。★2月15日、午前0時53分、逝去。15日の午後、ホームでお別れの会があった。16日、長崎・聖母の騎士でお通夜、15日に葬儀と告別式がおこなわれた。コルベ神父を知る人が全く居なくなったことで、1つの時代が終わったのを感じている。★フランシスコ中村安五郎修道士さんの人徳は、信仰に根ざした優しさ、親切さ、こまやかな愛情にあった。運転もじょうずで、巡礼の案内役に熱心であった。五島の久賀島の信仰の熱烈地の出身だった。人が、この世に生きる。いろんな生き方があるだろう。フランシスコ中村さんの人生は、大きな収穫の輝く道であった。生きていることを大きな神の恵みとし、人生を大切に、りっぱに生きていきたいと思う。
2015年2月5日木曜日
26聖人祝日。殉教精神を忘れるな。生活の中で
今日は、日本26聖人殉教の祝日です。霊名の祝日でもある。ブログを書かなければとパソコンに向かう。写真に、適当な、いいのが、ないのです。26聖人の写真は既に載せている。何か、ないかと、思っていると、春を告げる、ねこやなぎに目がとまった。はなが咲いている。それを載せました。26聖人は自分の霊名のお祝い日でもあるから、こころして、5時に目ざめて、教会へ。朝の祈り、ミサで、祝日を祈った。2日まえ、長崎の修道会員たちが、12人集まって、お祝いの夕食の会をもってくれた。ホームに入って、ひさしぶりに大勢の皆さんに出会って、元気がでました。ありがたいと、感謝した。ホームでは、本名の田川を使っているので、トマ小崎の名前も遠くなった感じです。皆さんに出会うと、よみがえってきますね。楽しい、ひとときでした。
2015年2月4日水曜日
26聖人映画。弁士を務めた作品をビデオでみる
ホームで、ビデオの日というのがあって、日本26聖人の殉教の祝日がくるというので、「我、世に勝てり」の映画を上映した。久しぶりに見に出た。★戦後、高校生の頃に、その映画、日本26聖人をみて、感動した。無声・映画だから、弁士が居た。その弁士の巧妙な語り口に、笑ったり、泣いたり、大きな感銘を受けたのを生涯忘れなかった。その後、フィルムが行方不明となった。ある教会で発見されて、フイルムのコピーを募集したので、早速、自分も購入した。タイトルは「我、世に勝てり」。無声だから、自分でシナリオを書いた。弁士を務め、音楽はテープで流した。北海道から沖縄まで、日本各地や、ブラジルまでも上映してまわった。今は、ビデオにして、作品を残している。★ホームで、「我、世に勝てり」のビデオを久しぶりに見て、自分の声、弁士を聞きながら、様ざまな思い出がよみがえった。昭和6年の製作。白黒で、無声で、時々字幕の文章が入り、活動写真の面影をみせているが、本当に、26聖人が映画でなく、実際に、こうであったと、思わせる緊迫感が大いに出ている。山田五十鈴さんのデヴィユー作品でもあった。映画をみると、最初の殉教者たちの苦労、信仰がわかる。京都から長崎まで33日かけて護送され、西坂の丘で殉教した。本当に、このような姿であったのであろう。当時の姿、信仰をえがく画面になっている。弁士の声は、我ながらだが、好調だった。
2015年2月3日火曜日
2月は、日本26聖人の殉教の月でもあります
2月は、日本26聖人の殉教の月でもあります。自分の修道士の名前も、26聖人の1人、15歳の少年、トマ小崎からいただきましたので、忘れることは出来ません。トマ小崎少年に習って、信仰の道にまい進するよう願っております。西坂の丘を思い出します。新聞によると、日曜日に、殉教祭・ミサがおこなわれたと、写真いりで載っていました。26聖人は最後まで信仰を捨てることなく、守りとおしました。自分を省みるとき、信仰の弱さを感じます。この写真は以前に写していたスナップです。右の方は教会で、2本の塔は、天国まで延びているそうです。この写真をみると、いろいろな旅の思い出を連想される人も多いでしょう。日本26聖人の殉教日、祝日は2月の5日です。お祈りください。
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