2014年12月31日水曜日

大晦日となる。ホームに入居して、2ヶ月が経ちました

写真は、お世話になっているホームです。いよいよ平成26年の年末になった。生かしてもらうために、沢山の恵みをうけて、ここまで来ました。感謝の祈りをささげます。今年、自分の身に大きく変わったことは、ホームに入居し、お世話になったことでした。2ヶ月が過ぎました。聖コルベ館に居たときは沢山の人に出会い、「一番うれしかったのは、小崎サンですか?会えて、よかった。うれしい。マンガ読みました。ホン、よみました。言ってくれる人に出会うことでした」。それが、いま、ひっそりとした生活をしています。さびしいことは、会話が少なくなったことです。それでも、ここが自分のホームです。自覚して暮らしています。「人柄とは、エガオ、元気、主体性ですね」。ホームに入ったことは、地についた足元から出発する、そんな気持ちです。名前も、小崎ではなく、本名・田川幸一を使っています。修道士の生活をつづけています。

2014年12月30日火曜日

困難が来ても、逃げない人に、なりなさい。厳しい

整理していると、1枚の新聞の切抜きが見つかった。原爆後の浦上の写真である。手前は、旧・浦上天主堂の残骸と、左側に、仮の聖堂。前方の山は、岩屋山。キリシタンが、あの山に登って、樫山の方角を見て、祈った。「3度登れば、1度、樫山に行く。3度、樫山へ行くと、1度、ローマへ行く」。あこがれて、祈った。中央、付近の町は、まだ復興していない。来年は被爆70年になる。★被爆の体験から、原爆の丘に生きたとき、反省したことは、「助ける人に、なりなさい」「困難が来ても、逃げない人に、なりなさい」「許す人に、なりなさい」だった。そのように思って、「平和は、人のこころに愛の花を沢山、咲かせたときに来る」と、締めくくっていた。だが、言葉は言うは簡単だが、実際、現実は難しい。核廃絶は被爆者の念願だが、平和はなお遠い。いま、ホームに居て、助ける人、逃げない人、許す人、3つのうち、人に語ることは、ないが、「逃げない人に、なりなさい」。ひそかに思いつづけている。

2014年12月29日月曜日

歳老いても、まだまだ悩む。痛みの原因、何なのか

ホームの馬小屋です。玄関に飾っています。今度は、年末にむけて、餅つきが行なわれる。突いた餅が、早々に昼食と夕食に出た。人数が多いので、沢山の数量を必要とします。それだけ職員さんはご苦労があるわけです。老いても餅はやっぱり喜びます。楽しい思い出もあるからです。でも、老人に餅は、注意しないと、事故がおこる。そういう現実もあるわけです。★歳をとると、からだが、あちら、こちらと痛みだす。痛みのない老人って、いないでしょう。苦労を重ねると、つい、つい、口に出る言葉がある。「なんにも、悪いことは、していないんだけれども、ね」。普通、そう考える。でも、宗教的に考えると、こころの中で、こんなことも思う。「罪のつぐない、たい」。老司祭(故人)の言葉がある。「生涯、ロザリオ。それに、愛と、清さ。清さができておれば、もう1辺、人生をくり返したい。それが、ないから、痛悔になる」

2014年12月28日日曜日

三重県から1人青年が訪ねてきた。

聖コルベ館に居たとき、いつも正月、元旦になると、誰が、どこから、一番乗りで来るか、興味があった。毎年、違った思い出がある。今年の元旦、最初に聖コルベ館に見学に来たのは、三重県から車で、運転してきたという1人の若者だった。会社に勤めている。この青年との出会いは、こころに残ることになり、ご縁もできて、記事にも書いた。★その若者が、ホームへ面会にきた。とつぜんの再会だった。ご縁ができるとは、フシギだなあと思う。心配になって、来たという。顔を見て、声を聞いて、「安心しました」と喜んでくれた。これから五島へ行きますと、信仰への期待をあらわしていた。五島へ行くなら、案内書に1冊の本をすすめておいた。「西九州キリシタンの旅」で、実際、ためになるでしょう。感じのいい若者だった。

2014年12月27日土曜日

ゼノ修道士さんの絵が見つかった。61年前の絵です

ゼノ修道士、ご存知だろうか。通称ゼノさん、彼の絵がみつかった。★生活に困った人に、瓦を贈る、米を贈る。贈るだけ、だめね。その後で、お祈りをした。「神さまのこと、考えます」。貰った人たちは、素直に祈った。このページは、1953年3月29日、日曜日と書いてある。61年前の日記だ。その頃、ゼノさんは活躍した。ゼノさんの絵も、うまく描けている。「夕方、ゼノさんが自室にきて、写真や手紙など見せた」とある。ゼノさんの活動は、いわば直球だった。★一方で、こんな話が好きである。「ある人が、夜中に道に迷って困っていた。すると1つのあかりが見えた。そのあかりを見つめて進むと、迷い人は無事に助かった。家の人は別に人を助けようと、あかりを灯してたわけではないが、結局、小さなあかりが人助けになった。人生はわからない。わからないところで、助けたり、助けられたりしている」。これは1司祭の忘れ得ぬ話だった。★晩年、病室で療養していたゼノさんの部屋に、汚れたタオルがかかっていた。司祭の1人が「ゼノさん、これ、かたづけましょうか」と聞くと、ゼノさんは言った。「捨てないで、ください。それが、ないと、貧しい人のこと、わすれます」。ゼノさんのこころも、闇のあかりも、同じだと想う。

2014年12月26日金曜日

老人は外見は余生の楽しさだが現実の厳しさもある

クリスマスも終わりました。湯江教会の馬小屋です。お祝いのミサの後では、ポ-ランドの習慣にならって、教会へきた人たちが、薄いパンを左手に持ち、右手で「おめでとう」「お元気ですか」「がんばっていますね」など挨拶しながら、相手のパンをお互いが、少しづつ、分け合って食べて喜ぶ行事を行ないました。和やかな雰囲気になって、喜びが一杯に広がりました。楽しさが残りました。★ホームに入って、2ヶ月になります。「老人といえば、楽しく余生をおくる姿を連想しますが、実際に中で生活してみると、現実は厳しさものがある」。これも人生ですから、苦楽はあるでしょう。★これまで、毎日、日記を書いてきましたが、内容も限定されているので、幅がなく、筆がすすみません。しばらく書かない日があるやも知れません。それでも皆さん、つづけて、祈り、見守ってください。

2014年12月25日木曜日

わが主の御降誕祭りの朝。自室から窓をあけて撮す

冷え込む昨夜、ホームに隣接する湯江教会で、クリスマスの聖歌を大きな声でうたいながら、ミサで祈った。平和と、幸せ、日々喜びがあるように祈った。ホームにも、クリスマス会食会があった。全員が食堂に集まって、和やかな雰囲気だった。職員の出演による天使や、大きなカブの話の寸劇や、降誕ビデオなどで、にぎわった。サンタは来るのかな、と期待していると、車椅子に乗って、四方を飾り板でかこんだサンタが、トナカイの服装をした職員から押されて、皆さんの周りを愛嬌よく回って、愛嬌をふりまいていた。お菓子のプレゼントもあった。歳を重ねても、プレゼントは子供こころになって、うれしい。ミサは3つ捧げられた。ホームでは静かな、それぞれの人生の生き方を思わせる、振り返るクリスマスであった。

2014年12月24日水曜日

みかんを食べて思い出す、むかしの巡礼は情があった

葉がついた、立派な長崎のみかんが贈られてきた。年末になると贈られてくる。贈り主は、もう40年ぐらい前になる。観光バスのガイドさんであった。教会をめぐる巡礼の旅を主催していた。ガイドさんが、いつも担当。数々の思い出もできた。いわば、教会をめぐる「オらショの旅」の専属のガイドさんだった。みかんを見ると、食べると、当時の巡礼を思い出します。長崎や、外海や、信徒さんの家で「ドロさまソーメン」をいただいたり、そこには素朴な親切と、純朴な信仰があった。特に思い出が残るのが、神の島だった。当時は船で神の島へは渡っていた。岸壁で、教会信徒のお出迎え、お見送り、船と人をつなぐテープでの別れ、ゆっくりとした時間が流れていた。教会までは信徒と行列して、参詣した。信徒会館で、歌や踊りで盛り上がったこともあった。温かい交流の時代である。人情があった。いまや、旅なれた時代になって、人の気持ちも、すっかり変わりました。1つ、みかんを食べて、そんなことを思い出していた。もう40年の思い出です。

2014年12月23日火曜日

人間って孤独でしょう。だが1人でない方法もある

かわいいステンド・グラスです。小さな湯江教会で、ここで、お世話になって、朝は5時40分から、朝の祈り、つづいてミサが始まります。教会はホームに隣接してある。毎日、起きるのは、5時です。長崎といえども、ここのところ寒さがつづいている。夕方にも、ここでロザリオが行なわれています。祈るのは楽しみです。「口に出して、言うたら、いけない。心のなかで思うのです。人間って、孤独なんです。他人は、そんなにお前のこと、気にしては、いない。現実です。自分の人生や。自分で耐えるしか、ないだろう」。クリスマスが近いので、食堂で、ビデオ映画「マリア」を観賞しました。マリアや、天使のお告げ、ヨセフの行動など、3人の博士もやってくる。それらを見ていると、ごみや、埃や、喧騒のなかに、今も変わらぬ、地についた人間の営みが伺われた。見ていると、神さまの大きな愛と計画が伝わってきて、心の孤独がやわら部ぐのを感じた。慰められた。部屋に戻ると、テレビのニュースで、司祭が五島の教会を案内する巡礼ツワーがあったと報じていた。

2014年12月22日月曜日

クリスマスが近い。愛と平和を祈る。神の御子の贈り物

パパさまの写真を載せました。教皇フランシスコさま。クリスマスも近づいてきます。世界の、あちこちで起こるテロや難病のことを思うとき、パパさまは、ご心配なされているでしょう。早く愛と平和が来ますように。クリスマスの願いでもあります。パパさまの御心に添いたいものです。パパさまの使徒的書簡「奉献生活の年」を渡されました。ずべての奉献者の皆さんへ、の長文の書簡でした。アシジの聖フランシスコ、親しみや、優しさがある。パパさまにも、愛と優しさがある。でも言葉には、真実からくる厳しさもあります。「修道者がいるところには喜びがある」。これが真実でありますように。そういわれれば、胸が痛む思いと反省があります。「幸せを他に求めなくても、神は私たちの心を満たし、幸せにしてくださる、ということを体験し、証するように、私たちは招かれています」。自分には、クリスマスを前に、身も心も、引き締まる思いがします。

2014年12月21日日曜日

日曜日。ミサで祈る。苦しみ、受け入れて歩んでいく

クリスマスが近づいた。祭壇の四旬節のローソクも4本になった。ホームの隣にある湯江教会です。コルベ神父のご像が立っている。今朝の福音は「マリアへの天使のお告げ」の場面であった。「み言葉通りに、わが身になりますように」。信仰者の生き方でもある。苦しみを感じる。孤独で寂しい。泣けそうになる。そんな時こそ、「わが身に」の言葉を口ずさみたい。これが中々、むずかしいと思います。ホームで、皆さんのお世話になっております。職員は愛を尽くしてくれます。温かいこころもある。それでも、苦しみは残ります。苦しみは魂を清めてくれるのでしょうか。苦しみは、神さまの、みせつりでしょう。聖書にも、あるでしょう。「わが成すところ、汝、いま知らざれども、後、また、これを知るべし」。

2014年12月20日土曜日

クリスマスらしく。バグパイプ。スコットランド音楽

音楽のことは、よくわかりませんが、クリスマスらしく、慰問の小さなグループが演奏に来ました。たのしいひと時をすごした。スコットランドの音楽・楽器で、バグパイプというそうです。スコットランド男性の服装だそうです。吹いた音は、大きな袋みたいなところで、増幅しているので、かなり高音がでて、魂をゆさぶられる思いがしました。服装もめずらしく、違った、普通、聞きなれない音楽を聴くと楽しみがふえます。スコットランドはどのような生活をしているのでしょうか。幸せと、平和を望むのは、どこの地方でも同じでしょう。これらは高校生のグループで、高校にバグパイプのクラブがあるのは、めずらしいと説明があった。

2014年12月19日金曜日

ポーランドのクラクフ、コンラードから、懐かしい人

ポーランドクラクフのコンラードさんから、カードと共に、孫ちゃんたちの写真が入ってきた。赤い子の右にある紙の包みは、ホスチアが入っている。ポーランドの習慣です。日本語を独学でマスターしたコンラードさん。[過去の出愛を思い出して」「親切は忘れない」「新たな記事、書いて」など日本語のコメントがあった。彼に出会ったのは、1980年代であった。それから7、8回、お世話になっている。ある夜、ポーランド出身のパパさまが、日本語を話しているのを聞いて、感激して日本語を学ぶようになった。教科書がない。ドイツ語、ロシア語などから学んだ。少し覚えてると、クラクフの著名な聖マリア大聖堂の広場で、観光客の日本人を見つけて、カフェで、言葉を試してみたという。日本びいきになり、出会った人の名詞を集めて、文通を重ね、日本にもやってきた。熱心なコンラードさんのお陰で、ポーランド取材では多く助けられた。クラクフの親友は懐かしい。ありがたいと、思う。もう歳も重ねたであろう。

2014年12月18日木曜日

デジカメを買う。やっと写真が入るようになった

デジカメから、パソコンへ導入の仕方がわからない。写真が入
らない。ザンネン。・・・何とかしようと、触っているうちに、写真が入りました。さしあたって、窓から見た、風景です。遠くに見えるのが、雲仙岳です。普賢岳の噴火は、大きな被害を与えました。火砕流などの言葉は初めて知りました。湯江の町は、平和で静かです。時折、小学生の子供たちの声が聞こえてくる。声を聞いていくうちに、服装や表情までが思い浮かんでくるんですね。平和な町であるのを願いたいです。

2014年12月17日水曜日

長崎へ、日帰り。

長崎へ出かけます。日帰りです。夕方には、帰るでしょう。

2014年12月16日火曜日

なごやかな顔。落ち着きましたか。老年は、きつい

きれいなカードでしょう。東京の女性が送ってくれた。[お元気になられて、ホッとしました」「ゆっくり養生」「ムリはなさいませんように」「聖コルベはアウシュヴィッツで、常に光を見ていたはずですよね」。など、など書かれていました。ホームに入って、過去とは決別しました。そんな気持ちです。昨日、午後のロザリオの後、修道院に寄ると、大きな柿をいただいた。ちょうど食べ頃でした。おいしかった。「ホームに慣れましたか」と聞かれる。「ウン、まあ、ねぇ」「来た頃の表情からすると、顔つきも、かわってきた」「ほんとう」「そうよ」と言われて、なぜか、理由はわからない。からだがブルブルふるえた。老年になって、いくつかの問題に日々波をかぶっている。1つ、1つ、乗り越えて進むので、懸命です。いまは未来にむかって、舟は進んでいる、そんな感じです。

2014年12月15日月曜日

ブログを毎日、ファイルに閉じています。伝わる心

「ブログは、もう数年前から、毎日、紙に起こして、ファイルに閉じて残しています」。そういう人に出会えば、嬉しくなります。書き甲斐はあるというものです。写真の人、白浜さん、五島の人です。彼が昨日、訪問して、そのように語りました。近くの人が、知っている人が、ブログを残してくださっている、嬉しいです。奉仕する人の心は美しいですね。毎日、聖母の騎士に来て、お手伝いをしています。「最近はルルドが美しく整備されてきたね」の声も聞かれる。ルルドの清掃、木々の管理、畑に作物をつくったり、忙しく働いておられる。白浜さんのおかげです。長崎に居たときには、お世話になりました。オバマ温泉にも連れて行ってくれた。忘れずに、訪問に来るのは嬉しいです。その白浜さんが、結婚記念日だった、と笑いながら打ち明けた。「金沢で結婚した。覚えやすい日が、よかろうと・・・」。そう言われて、ピンときましたよ。12月14日。四十七義士の討ち入りの日だね。やっぱり、そうだった。赤穂の浪士です。奉仕する白浜さんは長崎教区から、東日本大震災の現地に何度も加勢に出かけている。「誰にでも、打ち解けて、こころを開く人の足はきよく、幸いである」

2014年12月14日日曜日

ホームの誕生会・忘年会「タヌキ」は、長寿、幸福、健康

ホームでの話。昼食どき、食堂に、とつぜん、音楽と共に、タヌキの3人が、出てきて、皆さんを喜ばせた。12月生まれの、3人女性の誕生会です。1人は98歳、後の2人は80代。「ハッピー、バスデイ・・・」を3回、皆で歌うなか、タヌキさんたちは、皆さんの食卓を踊りまわった。愉快なタヌキさん。そのとき、こんなことを考えていたよ。むかし、この農村に沢山のタヌキたちが暮らしていた。若者のタヌキたちは、お年寄りのタヌキたちを大切にして、よく面倒をみて、働いた。年寄りタヌキは、感謝。お互い通じあって、だから幸せがあった。このホームでは「お疲れ様」「有り難う」と大きな声が、あちら、こちらで聞ける。老若の愛の交流。幸せなホームの生活を送っている。誕生日には、ホームの園長さんから、各個人がおみやげを貰って、うれしそう。「年を重ねることは、うれしいです」。老いは、人生の深みを感じさせてくれる。12月は、誕生会に合わせて、忘年会の意向も重ね合わせてあった。食卓には、牛すき焼き、豚すき焼き、サカナのなべの3つの食卓があった。「牛」の仲間に入る。やがて出た歌の出番は、もっぱら女性が歌う、楠木正成・親子の別れ歌から始まって、次は軍歌を聞かせ、青春時代を思わせた。★タヌキさんたちに、「ブログへ載せるよ」。了解をとった。ホームの記事を書くのは、写真も、記事も、遠慮している。個人情報もありますから。★ホームでの生活記事は書きにくいです。

2014年12月13日土曜日

足元に、奇妙なヒカリが流れました。キレイとシャッター

ホームに入って、1つだけ注意されることがある。「手は、ポケットへ入れないで、歩きましょうね」。そういえば、皆さん、ポケットへ手を入れているのを見かけない。なぜ、入れては、いけないか。いま時は寒波もあり、寒い日々もつづく。ついつい、くせになって、ポケットへ手を入れようとも、する。メガネも入っている。チッシュもある。それでもダメなのは、お年寄りは転倒しやすいから、また立ち上がりにくいからです。転んだことは、2、3回あります。骨折や、アタマを強打するのが、恐ろしい。ある日曜日の朝、転倒して、アタマから血が出た。男子職員が、脳神経外科まで連れて行って、CTを撮って、事なきを得た。習慣とは大事ですね。若いときは転んでも、すぐ立ち直れるが、お年寄りは、そうは、行かん。わが身の安全を考えて、ポケットへ手を入れないで、歩くように努めましょう。★聖堂でロザリオを唱えていると、足元が、こんなヒカリが出来ていた。ヒカリって、フシギですね。

2014年12月12日金曜日

マリアさまのメダイがわが身を守った話を聞かされた


右の写真は、コルベ神父が、ポーランドへ帰国するときに撮った記念写真です。前列、右側の端に、ミロハナ神父もいます。コルベ神父が帰国後、聖母の騎士を守るために、万全の働きをした。左は、戦争中、ポーランド大使館の国旗を預かったローマン修道士さん。めずらしい写真があったので、載せました。★3度の食事のとき、皆さんが集まって、顔を合わせる。隣の女性から、こんな話を聞かされた。ミロハナ神父さんを知っている。自分の主人が兵隊へ行くときに、ミロハナ神父さんから、マリア様のメダイをもらった。南方へ行くときに、船が沈没して多くの戦死者がでた。主人はメダイをにぎりしめて、泳ぎきって、なんとか救助された。メダイはボロボロになっていたが、大切に持って帰った。メダイのお恵みでした。ミロハナ神父に感謝しました。ルルドの聖母マリアに感謝しました。そんな話を聞かされて感激しました。ほとんど、身の上話をすることは、ないのですが、この話は心に残りました。いま、どの女性だったか、わかりません。ポーランドの修道者たちは、働く姿と、熱心な信仰を残しました。ポーランド国を誇りに生きていた。パパさまも、出たんだから。ポーランドで育てられたようなものです。旗が、赤、白。日本の色ですよ。なじみがあるんですね。★kokoさん、真珠湾のときのこと、苦労されたでしょう。★純平くん、聖コルベ館に訪ねてきたとき、「身代わりの愛」を読んできた。写真にその本を偶然にも載せていたので、これも御計らいか、とびっくりしました。

2014年12月11日木曜日

70年前に書いた日記、兵器工場から、原爆へ。悲惨なり

今から、70年近く前に書いた「原爆日記」です。12月になると、どうしても太平洋戦争のことを思い出します。真珠湾攻撃、日本の飛行機が魚雷を発射して、軍艦を次々に爆破した。その魚雷を、三菱の兵器工場で作っていたのが、16歳の少年だった。そのヒミツの兵器工場は、山をくりぬいたトンネルのなかにあった。いまでも残っている。16歳で、よく働いたよ。17歳になったとき、原爆が落ちて、少年はトンネル工場のなかで被爆した。工場は、海軍の配下にあり、海軍の兵隊が守っていた。原爆が落ちたとき、トンネル内部は、大混乱となった。すると海軍兵士が、銃に剣をつけて、「お前たちは、トンネルから出て行け」と、真剣に、のけ者にされ、追い出すのであった。日本人が、日本人の軍隊から威嚇されたこと、その恐ろしさを今でも覚えている。戦争の映画をみたとき、真珠湾に打ち落とされる魚雷があらわれると、自然に、拍手をしていたのを、また思い出す。人間って、自分の立場でしか、物事を考えない。お互いに死傷者が出る戦争は、絶対に、起こしてはならない。平和の時代がつづくのを望んでいる。

2014年12月10日水曜日

正月の純平、教会へ行く。霊名はコルベ。洗礼証明書

「面会に来ても、いいですか?」「ここは農村で、バス・電車も不便です。ご遠慮願います」。普通は、お断りしている。図らずも、福岡から、車を運転して、純平さんがやってきた。正月の男。彼は幼児洗礼で、コルベの霊名をもらっている。ところが教会に行ったことがない。今年の正月に奮起した。聖コルベ館にきて、「教会を教えてください」。早速、福岡の教会の、信徒の女性にお願いして、それから純平君は、教会へ行けるようになった。「よかった、ね」。成就したわけだ。とにかく喜んでいる。その彼が、突然、面会にきた。「他の教会へも行っている」「仕事も、ある」。教会に行けるようになって、よかった、と喜んだ。嬉しいことだ。純平には新しい恵みの道も開けるだろう。★その純平君が、1枚のハガキ版のカードを大事そうに見せた。「家を探していたら、ありました。洗礼証明書です」。古びたカード。ラテン語で書いてある。主任司祭の証明書だ。神父の名前と、マキシミリアン・コルベと霊名がはっきり書いてある。カードは、そう簡単に見れないものだ。「よーく、また、探し当てたね」。宝ものだ、よ。「額を買い求めて、大事に取っておきなさい」★若者のフンパツを見て、面会を喜んだ。写真はポーランドのコルベ神父。(聖母文庫)身代わりの愛で、そのときの様子が詳しく書かれている。

2014年12月9日火曜日

普通にでも、いろいろ起こる。書く枠が決められる

ホームの庭のさりげない花々たちです。このところ寒波が去って、温かい日差しが戻ってきて、自室は明るくなり、ホットしている日です。毎日、ブログを書いていますが、自室に電話線がないので、電波を発進する「モバエル」をつけての、細々とした日々の書き方です。内容も、ホームの行事や出来事、皆さんのことなど、いまは書けない時代でしょう。当然、内容が狭まれてくる。悩みもあります。毎日、いつまで書けるか、わかりません。それでも、ホームでは入居者もおり、葬式があって、天へ召される人もおり、寂しさを感じる日もある。★「睡眠時・無呼吸・検査」のため、1泊どまりで、病院へ入院しました。★生活のなかの入浴は、介護つきで、職員の温かい介助の手で、助けられています。富士屋さんへ毎月、温泉へ行っていたのが、懐かしい。ブログの内容が、普通の一般の老人の書いたものに変わったでしょう。普通の老人です。申し訳ありません。ブログも、どこまで書けるか、ほんとうを言えば、普通の老人を意識していますから、むりは言わないで、ください。

2014年12月8日月曜日

無原罪の聖マリアを愛したら、幸せに導かれる

無原罪の聖マリアの祭日をミサと朝の祈りで祝い、祈りました。あなたにとって、マリアへの思いは何ですか。最初に浮かぶのは、キリシタンの祈りでしょう。隠れて、聖母マリア、イエスへの信仰はつづけた、その信念。われわれの先祖がそうだった。次に、コルベ神父様が教えた「マリアを通して、イエスへ」の道筋でしょう。マリアは初期から尊敬されていたが、中世期、フランシスコ会が「無原罪」の信仰を擁立しました。現代になって、コルベ神父は、それを引き継いで、今度は実行するとき、時代だと宣教した。「マリアにご縁ができれば、かならず幸せになります」と教えた。もう1つ、ルルドへの信心があります。多くの人がルルドの聖母「けがれなき聖マリア」に祈り、お恵みを受けています。コルベ神父が提唱した「けがれなき聖母マリア」。聖母の御手になって働くというのが願いでした。無原罪の聖マリアのご意思どおりを全うしたのが、コルベ神父、愛と平和の行動でした。愛は憎しみに勝利する。★写真は長崎・聖母の騎士の無原罪の聖母マリア像。★また12月8日は太平洋戦争が始まった日です。13歳でした。そのとき、長崎大学病院の外科病棟に入院中であった。よく見舞いに来るお嬢さんがいた。永井博士の妹さんだった。きれいな女性、あこがれの女性だったよ。妹さん、どうなったか?知っている、人生って、長いよ、ね。

2014年12月7日日曜日

なぜか、母を思う。母は戦争を生きて幸せだったか

なぜか、母親の写真を載せました。明日が、太平洋戦争の開戦日でしょう。昭和1ケタの人間は、どうしても戦争のことは忘れられません。避けて通れない。夫婦で出稼ぎで、北朝鮮へ出た。早くして夫を病没させて、ひとり現地で苦労したと思いますよ。長崎へ帰ってからは、戦争です。原爆で行方不明となった。苦労の多い母から教えられたのか、「人の痛みをわかる」でなくて、「人の痛みは、3年でも、こらえる」というのが、あったように思う。人は、そうそう、理解しては、くれない。人に頼らずに、自分で苦しみを受け止めて、耐えて生きなさい。そういう教えでは、なかったか。人の痛みを理解するのも難しいが、自分で耐えていくのも、これも難しい。母は、戦争時代を生きて、幸せだったろうか、と思う。幸せなことは、ないだろう。日本は不幸な戦争の時代を、長く苦しんだ。母が教えた言葉に、「わしが、テッポで、わしを、撃ったら、わしも、たまがる。わしも、たまがる」。たまがる、は、ビックリする、おどろく。わたしがテッポウで、鷲(わし)を撃ったら、鷲もビックリするさ、私も、ビックリするさ、ね。そんな意味だった。世の中は、撃つのは、いいけれど、かならず反動がある、そういうことでしょう。反動はほんとに、あります。

2014年12月6日土曜日

箱入りの大きな紅白おマンジュウをいただいた日

昨日は、聖フランシスコ園の創立記念日だそうで、箱入りの大きな紅白のお饅頭をいただきました。園の入口に立っているアシジの聖フランシスコのご像です。遠くに、多良の山並みが見えています。この辺りは轟きの瀧もあって、風景の良い場所です。★戦争が終わって、聖母の騎士のポーランド人修道者たちは、孤児やお年寄りの福祉のために土地を求めました。山並みは、諫早のお殿様の土地で、諫早家の所有でした。「福祉のために、小長井の山中の土地を寄付していただけませんか」「あそこは馬を飼う土地です」。いろいろと交渉のすえ、結局、修道者たちの熱心と、「馬を飼うより人を育てては、いかがですか」の説得に納得して、小さな家々ができました。老人も暮らしていました。老人の家を正式に建てたとき、もっと手前の、海よりの土地を求めて聖フランシスコ園を建てました。50数年になります。歴史を知っている者には、山も、瀧も、海も、すべて思い出があるのです。人生につながるご縁があります。紅白のマンジュウを食べながら、思い浮かべました。

2014年12月5日金曜日

早々とクリスマス・プレゼントを貰いました

長崎へ出かけたときに、聖コルベ館に居ると、電話があって、「これから面会に来ます」。隣町の女性からでした。訪ねてきて、早々と貰ったのが、このプレゼントでした。慰められた。長崎で貰ったので、幸いでした。聖フランシスコ園がある町は、長崎から40kmほど離れた農村です。列車も、バスの便利もよくないです。来るのは大変でしょう。プレゼントは、「天国からの贈り物」ですね。★こんな話を聞いたことがある。ある信仰の深い女性が、病気になり、ガンは進行して、やせて、大変苦しんでいた。回りの人が気遣って、「苦しいときは、素直に、苦しい・・・と叫んだ方がラクになりますよ」。そうかも知れませんね。ガンの苦しみは耐えがたいものがある。すると女性は、信仰深く、姿勢をくずさず、「天国のために捧げましょう」と、けなげにも、言ったそうです。プレゼントは天国からの贈り物、苦しみは天国への贈り物かも知れませんね。そんなことを、貰ってから考えた。確かに、これには意味がありそうです。

2014年12月4日木曜日

ホームで、100歳ポーランド人修道士さん逝去

以前に撮ったローマン修道士さんの写真です。ホームで5年、静養されていました。コルベ神父さまと一緒に宣教した修道士さんです。満100歳。ポーランド人最後の修道者です。時々静養室にお見舞いしました。ホームで、最高齢者です。職員の皆さんから温かい介助を受けていました。「ローマンさん、トマです。いっしょにポーランドへ行きました。パパさまをお迎えしました。パパさまに、お膝もとで会いました。ポーランドの大使館国旗を、戦争のとき守りました。ローマンさん、一緒に聖像を作りましたね」。呼びかけました。寂しくもローマンさんは、先月、11月25日の夕食時に亡くなりました。安らかな天国への凱旋でした。うらやましい最後でした。ベッドの足元に、ローマンさんがポーランドから着てきたチョッキ(首のところに白い毛がある)が置かれていた。翌日、ホームで皆さんとお別れしました。忘れることが出来ない修道士さんです。葬式・告別式は長崎の聖母の騎士で行なわれました。ローマンさんがコルベ神父さまと苦楽を共にした場所です。この1枚の写真は大切に撮っておいたものです。

2014年12月3日水曜日

聖ザビエルの祝日。愛と平和。戦争のない世の中に

ちょうど手元に聖人ザビエルの聖絵があったので、載せました。日本へ初めてキリスト教を伝えた聖人です。教科書でも習った。16世紀に活躍したスペイン人。平戸へ宣教した。記念の教会が建っている。私たちは、その辺りで信仰を得た信徒たちの子孫でしょう。親からもらった尊いもの、それはカトリック信仰でした。7代にわたって、つないできたのです。赤子のときから、乳を飲ませられるときに、手に母の手を重ねて、強引に十字架の印をさせられた。それで育ったわけです。いま、ホームで、3度の食事のとき、食事・前後の祈りの十字架を時々忘れることがある。「それで、いいのか。母親が泣くぞ」。腹のなかで、そんな言葉を反省している次第です。★教皇フランシスコは、最近、「人類は広島と長崎に学んでいない」と嘆かれた。聖フランシスコ・ザビエルが一番望んでいたのは、日本人の幸せと愛、戦争のない平和、世の中だったのでしょう。

2014年12月2日火曜日

コメント、励まし、お祈り、沢山の見守りに感謝します

パソコンをホームの自室へ。切り替えの手続きに、長い時間を要して、それは大変でした。やっと発信が出来ました。ところで、これまで沢山のコメントを寄せてくださり、皆さんが連携して、お祈り、支えてくださったこと、まことに有り難うございます。心から感謝申します。人の一生って、長いですね。この歳になって、意外な経験もする。日々の生活では、早朝、ミサを共同で祈ります。夕方、ロザリオを共同で唱えます。ホームに隣接して、湯江教会があります。先日、ロザリオへ行こうと廊下を歩いていると、「電話です・・・」と呼ばれた。男性の声で、「いま、苦しい。祈ってほしい。お祈り、ぜひ、頼みます」「今から、ロザリオへ出かけます」。いろんな人が悩んでいる。ロザリオで祈ります。ロザリオの最後には、聖母マリアのご両親、聖ヨアキム、聖アンナへ取次ぎを祈ります。「近々、神さまに出会う日を、楽しみに・・・」と、祈りにある。老いの喜びとは、このことかも、知れないと思う。なぜか祈りを口ずさむと、こころが癒されるのを覚えるのです。★絵は韓国からのカード。

2014年12月1日月曜日

入所の日。コスモスが一杯咲く午後でした

コスモスも、もう終わりです。園のコスモスも写真の通り、寂しいです。これらのコスモスが、諫早干拓・原野に一杯、花咲いている午後に入所しました。10月の終わり、でした。「聖フランシスコ園」へ向かう車のなかで、一杯のコスモスを見たのです。運転は修道士の職員、高原さんでした。「あれが、雲仙・普賢岳・・・」と、なぐさめるように、うながした。普賢岳と一緒に、近くにコスモスの花畑があり、花一杯が、いや、全体のコスモスが、支えている枝をしっかりと、車の後方へ、曲げているのに気がついたのです。暮れ行く晩秋の太陽に、しっかりと、なびいているコスモス。印象的な風景でした。赤く輝くヒカリに導かれて、精一杯に生きる姿がそこにあった。「コスモスよ、語れば、複雑です。気持ちも、自分でない気がします。声が出ないんだなア。体力が落ちたのは、ほんとうです。ぼち、ぼち、理解してもらえたら、嬉しいです」。園の皆さんと一緒の夕食に間に合った。紹介されて、「自分の生活」が始まる。86歳といっても、「なに、言っているの」で、おしまい。「あいさつから、はじめよう」

ホームでお世話になっています

長崎の「聖フランシスコ園」というホームです。もうお世話になって、1ヶ月になります。先日、園内アナウンスがあった。「グランドゴルフをおこないます。希望者は・・・」。行こうか、やめるか、迷う中、女子職員に声かけられて、いつしか手をつながれて、庭へよろ、よろと出た。10数人が旗のそばに集まっている。「仲間へ入れて・・・」「これで、打ちなさい」。ゴルフだから名前はあるんだろうが、知らない。とにかくバットで、小さな木の玉をかっ飛ばした。空を見る、雲をみる、大気を吸う。その後で撮ってもらったスナップです。ここは諫早干拓に接した田園です。のんびりした所です。皆さんと戯れると面白い。旗の下に入ったと思ったら、ひょろりと抜け出したり、ある人に1発で、玉を見事に入れた「ホール・イン/ワン」というのですか、あれが出て、とにかく大笑いして盛り上がった、ひと時でした。

2014年10月8日水曜日

ひさびさに聖コルベ記念館へもどりました

病院の許可をいただいて、少しの時間、聖コルベ記念館に戻ることができました。修道院で、5人の司祭と、3人の修練者といっしょにお昼をいただきました。 たくさんの励ましのコメントをいただき、本当にありがとうございます。まだ、療養が必要ですが、これからも皆さん、お祈りください。

2014年9月8日月曜日

汚れなき聖母マリア様のお誕生日です。

今日は9月8日、月曜日、汚れなき聖母マリア様のご誕生日です。おめでとうございます! ご心配をおかけしましたが、皆さんのお祈りのおかげで、平熱になり、元気を取り戻すことができました。 昨日より、廊下を少しずつ歩き、今日は風呂に入りました。 引き続き、お祈りをお願いします。ありがとうございました。

2014年8月25日月曜日

入院から10日目

たくさんの励ましのコメント有難うございます。入院してから10日が経ちました。眠り薬で3日ほど寝ていたようです。今はお腹が少しふくれていて、咳をすると黄色や茶色の痰が出てきます。1日もはやく元気で修道院に戻れますよう皆さまお祈り下さい。

2014年8月20日水曜日

入院から5日目

鼻水と気管の痛みで16日(土)に入院しました。入院してから5日ですが、はげしい咳のために血がでています。今のところ原因が分からないと医者から言われました。みなさまお祈りください。

2014年8月16日土曜日

入院

午前中に入院しました。お祈りください。

2014年8月14日木曜日

カゼ、発熱す。③。聖コルベ祭日、殉教日にダウン。

★夜中から、朝にかけて、自室で、もんもんとする。熱が上がり始める。セキが激しく出る。右の胸が、セキの度に痛む。★聖コルベの祭日。大きなお祝いなのに、哀れなザマだよ。ミサの後で、近辺で宣教・働く修道会員が、20数名あつまって、昼食の会食をした。一緒に食べたが、早めに失礼して、自室で休んだ。★午後3時頃、主治医のヨゼフ・クリニックの高木先生から電話があった。心配された声。「熱は、どうですか」「少し、上がりました。7度5分です」。高木先生、「今から往診に来ます、聖コルベ館に居てください」。雨がさかんに降り出す。待つこと1時間、先生の車が上がってきた。「道が渋滞してね」。聖コルベ館の応接間で、高木先生の診察。「盆休みのところ、申し訳ありません」。お礼を言う。胸を聴診器で調べる。肺炎か?少し、ナントカと言った・・・・。クスリをくれる。「明日、熱が下がらないなら、電話をください」。帰りに「トマは大切な柱だからな」。そんな意味のことを言われた。「イヤ、イヤ、もう落ち込んでいますよ」。お盆の休みのときに、誰が、わざわざ来てくれるか。ありがたい。先生を見送った。オレは、こんな親切なお医者さんに恵まれているな、幸いだよな。★クスリを飲んで、休もう。★夕の祈りは欠席した。

2014年8月13日水曜日

カゼひき。②。休んでいる。

熱、6度5分。休んでいます。

2014年8月12日火曜日

カゼひき。①休みます。

★予約の泌尿器科へ。かぜ気味。町の内科医院へ。熱は、6度6分。注射、点滴。治療する。安静にしています。

2014年8月11日月曜日

ルーマニア神学生。夏休みで来る。若さは、いいね。

★2年ほど前から、時々、日記にも書いた、背丈が小崎修道士と一緒ぐらいで、小さな神父、一緒に写真も撮った、ルーマニア人のペトロ・イシトク神父さん。東京で日本語を勉強している。その神父さんが、今年、5月からルーマニアへ帰国していたが、7月、また日本へ帰ってきた。そのとき、若者の神学生を、2人、連れて来た。その2人が写真の神学生です。★ヨーロッパのルーマニア国から、2人の神学生が、東京の関町志願院へ入学した。まず、日本語の勉強を始めます。日本語を話せるようになって、日本の大学で司祭になる勉強を始めて、司祭になるでしょう。若い修道会員が増えるのは、張り合いがあります。★2人は、8月になって、長崎へ来ました。いま院で、一緒に生活をしている。長崎へ来て、2人は、雲仙の殉教地、島原の教会など巡礼をした。長崎・原爆の日の夜の行事、祈りの灯の行列と、浦上天主堂のミサで祈りました。日曜日は、朝から、五島へ魚釣りに出かる。長崎の地らしい経験をつんでおります。言葉が通じない。ルーマニア語、イタリア語、英語、これなら大丈夫です。「ニホンのこと、いつ頃から知ったのですか?」と聞きたかったが、通じなかった。ザンネン。

2014年8月10日日曜日

原爆死・母の命日に必ず届けられるお花。ありがとう。

★長崎・原爆の日、母の命日に、必ず届く「お花」がある。今年も、ごらんのように届いた。もう15年は、つづいている。こんなに、心をこめて、送りつづける人が居るのは、ありがたい。嬉しい限りです。★話は今から、20年近くにさかのぼる。北九州の小6の修学旅行が、長崎へ来て、原爆資料館で平和学習をおこない、被爆者の話を聞いた。そのときの語り部が私だった。その中の1人、女の子、衣里(えり)さん。感動して、話を忘れなかった。中学生になったとき、平和のため、千羽ツルを折ることを決心した。毎月、100羽づつ折って、私に送ってきた。私はその100羽のツルを原爆老人ホームの1人のお年寄りの部屋に飾ってもらった。慰めた。また、100羽送ってくる。同じホームの別の老人の部屋に飾って、慰めた。このようにして、1.000羽、10人の老人の部屋に飾って、慰めることができた。その頃から、私には、衣里さんと、衣里さんのお母さん、直美さんの2人の名前で、母ワサの命日には、お花が届けられるようになった。中学生は、高校を卒業して、就職して、結婚して、2児の母になった。それでも、毎年、母ワサへのお花は贈ってくる。★今年も届いた。お母さんの直美さんへ電話をして、お礼を申した。2児の子供さんたちは、幼稚園に通っている、元気にしている、とのことだった。「いつも、お花を贈ってくださって、ありがとう。故人の母も喜んでいます」。この写真を撮って、衣里さん、直美さんへ手紙とともに送った。このように長年、お花を贈りつづける美談はめずらしい。本当に、その温かいお心を喜んでいる。

2014年8月9日土曜日

長崎・原爆の日。69年前。母ワサ爆死。45歳。無念。

★毎年、めぐり来る長崎・原爆の日。今年は、もう69年を重ねる。あの朝、忘れない。母と一緒に、起きて、朝めしを食べて、出かける挨拶。「行って、来るケンな」。母は寂しそうに答えず。家の外に出て、もう1度、「行って、来るよ」。だが、返す言葉は聞き取れず。ただ、目と、目があって、母が、ニコッと笑ってくれた、それが母を見た最後となった。★母ちゃん、苦労をかけたな。父が病死して、10年。1人っ子。ボクを育ててくれた。女手1つで、細腕で、女は、母は強かった。母の思い出。着物を着ていた姿だね。自分でも、着物を縫っていた。食料不足の戦争中、あち、こちから、コメ、ヤサイを調達して、不自由なく食べさせてくれた。★戦争だよ。原爆だよ。それらが無かったなら、母は死なずによかったのに、犠牲になったわけだ。戦争を恨むよ。原爆、2度と落ちるな。核兵器廃絶、叫びたいよ。★今朝は、ミサで、原爆で亡くなった人びとのため、母クララ・ワサのため、祈った。浦上天主堂の、被爆マリア小聖堂の壁に、原爆死をした信徒の名前が刻まれているが、母の名もある。45歳。若くして召された母の人生、惜しまれてならない。「母ちゃん、歳をとらず、いつまでも、若いなあ」

2014年8月8日金曜日

岡山うどん屋のパウロ。志願者。長崎へ来る。元気か。

★あわただしい大晦日だった。3年前の、2011年の12月31日。閉館前に、ドカ、ドカッ、と、若者6人が入ってきた。「もう、おしまいだよ」。その中に、岡山のうどん屋パウロ青年が居たわけです。詳しくは覚えていない。★次の年、2012年の5月の連休、パウロは、もう1人の若者と共にやってきた。「小崎サンの話を聞いて、聖母の騎士の修道者になりたい」と来た。「17歳の夏の本を本屋で求めて読みました」。嬉しいじゃないですか。「修道服を着て、バッターを打って、スポーツしている写真を見た。教会の神父さんに、これが、いい。心、引かれる、と言ったら、聖母の騎士、フランシスコへ行きなさい。それで憧れてきた」。がんばれ、と励ました。★次の年、2013年の5月の連休に、「もう、いよいよ入ります。清算して、やって来ました」と聖コルベ館に現れた。「イヤ、まて、まて」。本人はその気になっている。高校の奨学金を全額払うために、古本屋や、うどん屋で働いた。全額、払い終わった。「さあ、もう大丈夫です」「あわてるな」。管区本部へ連絡し、その夜は修道院へ泊めて、一応、帰した。★2013年9月、管区本部から、入会の許可が出た。志願院へ入った。うどん屋は、神学生志願者になったわけです。それから、猛勉強が始まった。特に英語にチカラを入れた。★2014年4月、ついに上智大学神学部に入学しました。おめでとう。がんばったね。未来は開けているぞ。勉強は順調に行っている。後は、忍耐、祈り、マジメさ、希望で、前へすすめ。★夏の休み、奉仕を願って、今日、聖母の騎士へあらわれた。「おお、ひさしぶりだな。岡山のパウロ君、登明の日記で、君のファンもいるぞ。写真を撮ろう。載せるからな。「いいカオ、しているじゃないか。ハ、ハ、ハ、ハ」

2014年8月7日木曜日

聖コルベの祭日に向けて。9日間の勤めと願い。

★コルベ神父さまへの手紙。日本での宣教、6年間、困難に満ちた生活でしたね。食は細く、病気・肺結核でもあったし、仕事は山積していました。しかし今、考えると、長崎での生活は、強制収容所への道の、前哨戦だったと思います。8月に入って、今は、アウシュヴィッツの餓死の地下室で、苦難が強いられている時です。食べない、飲まない、17日間、辛かったでしょう。狭い牢獄のなかで、苦難も、愛も、けがれなき聖母マリアさまに、すべてを捧げられました。「あなたが必要なら、イノチをも差し上げましょう」。信念に満ちた勇気。あのとき、マリアさまの、ささやきがあったと思います。★いま、毎朝、ミサの後で、聖コルベの小聖堂で、コルベ神父さまへの9日間のお勤めを果たしています。今朝は、次のように祈りました。「あなたの取次ぎによって、わたしたちが、けがれなき聖母マリアのみ手の道具となり、すべての人びとを信仰の喜びへと導くことができますように」。言葉を肝に銘じました。わたしたちにも、あなたの愛のチカラと勇気を、与えてください。★それから、もう1つ、お願いがあります。原爆にあって、この道を選び、聖母の騎士へ入りました。この場所、コルベ神父さまが創立した、ここです。執着しております。だから、最初に入った所、ここで死なせてください。「老人ホームへ行きなさい」という勧めもあります。でも、ここが、いいから、迷いがあって、決心がつきません。なんとか、ここで生涯を終わることができないでしょうか。そのため、このお願いのお手紙を書きました。聖コルベ館で、コルベ神父さまの宣伝もしていますので、聞いてください。けがれなき聖母マリアさまへ取り次いでください。希望の実現を期待しております。信頼しております。

2014年8月6日水曜日

広島・原爆の日。死者と平和を祈る。あの頃。

★15歳の頃の顔です。その頃、1年半ほど、大学病院へ入院して、背骨・肋骨・腰骨のカリエスの治療をしていた。だいたい良くなって、そのままの流れで、大学病院の耳鼻科の医局に通って、お医者さんたちの研究の手助けをしていた。そのときの顔です。手助けに、ほかに1人の男性と、2人の女性、写真技師がいた。この頃、聖母の騎士のポーランド修道者たちを知って、時々通っていた。「ボクも、修道者たちの仲間に入りたい」。そう願って、お医者さんの1人に打ち明けると、「なんだ、いま戦争だ。兵隊さんは皆、戦っている。お前は、そんな所へ入って、日本人として、いいのか」と言って、ボクのビンタをパシッ、パシッと、たたいた。当然、泣くわね。15歳だよ。悔しくて、泣いた。すると忘れもしない、長谷川教授の先生が来られて、ボクを教授室へ連れて行って、慰めてくれた。★2年後、原爆がおちて、手助けの3人と、写真技師は、爆死した。ボクは、もう、その場を退職して、爆弾をつくる工場で働いていた。助かった。ボクを叩いたお医者さんは戦地へ行って、戦後、戻ってきた。戦後、出会ったとき、聖母の騎士に入ったと知って、「良かったね」と言ってくれた。慰めた教授の先生は、教授室は壊滅したが、原爆落下の1分前に、廊下をへだてたトイレに入っていて、イノチは助かった。戦後、カトリックの洗礼を受けられた。戦後も出会って、聖母の騎士に居ることを喜んでくれた。パパさまが長崎へ、聖母の騎士へ来られたとき、教授の先生もご招待して、一緒に歓迎することが出来た。★8時15分、広島にむかって、祈りをささげた。死者のため、平和のため祈った。戦争なのに、平和な顔をしていたよ。

2014年8月5日火曜日

枯葉か、雑草か。1人が、いいか、さみしいか。

★天草へ行ったとき、ホテルで、朝食の食事処に書いてあった。墨字で、さらさらと、「やっぱり、1人は、さみしい、枯葉。やっぱり、1人が、よろしい、雑草」と、読めた。語呂が、いいし、考えますよね。さみしい、なぜ枯葉なのか。よろしい、なぜ雑草なのか。いい考えが浮かばない。だから、いいのかも、ね。1人旅は、さびしい。1人がよろしい時もある。ざわざわ、していると、1人になりたいね。それが雑草か。枯葉は寂しいよ。★台風の影響か、どしゃ降りの雨が激しい。午前中、あめ降りしきる中、歯医者さんへ行った。「おや知らずが、残っていますね」と言われた。「何本、あるんですか。上、下にあるんですか」「4本、あります。このお年で、親知らずがあるのは、めずらしいですよ」と言われて、ホクホク。「歯は、上、下で、32本あるんですよね」「そうです。残っていますよ」「ああ、歯を大切にしておいて、よかったな」

2014年8月4日月曜日

ふと思った。故人の先生。遺志を引き継いでいる。

★ミサのとき、今日の聖人、聖ヴィアンネー司祭を祝いました。18世紀のフランスの小さな村、アルスの主任司祭です。ジャガイモ数個で生活し、信者たちを内的に指導して、大きな成果を与えました。なぜか、ヴィアンネーと聞くと、昔、お世話になった田川初治先生を思い出すのです。★人の一生って、いろんな人から影響をうけて育つんですね。田川先生も忘れない恩人です。田川先生は、山里小学校の教師だった。原爆にあい、家族を失った。浦上信徒の中心人物だった。親友に、永井隆先生が居た。田川先生は、童話を語る人、作家、映画・日本26聖人の弁士でもあった。★先生から注目されて、童話を習い、カツ弁を教えられた。伝わるんですね。口調も、心情も、ふしぎなもんです。なぜ、ヴィアンネーかって?田川先生の洗礼名が、それだった。あるいは、原爆死した息子の洗礼名が、それだったのか。よく覚えないが、つながりが、あった。思い出す、ヴアンネー。それで覚えているんです。★田川先生は、騎士誌に毎号、親しみやすい実話の記事を書いた。それらの思いを、引き継いでいるのかも、知れない。親友の永井隆先生(原爆・医師)が亡くなられたとき、騎士誌に記事を書いた。田川初治先生は、大阪で、亡くなられた。きょう1日、田川先生を思いながら、過ごします。祈ります。

2014年8月3日日曜日

みごとな桃を手にして、いのる。カンシャのお礼です。

★リッパな、桃が届きました。普通の桃じゃないのです。広島の桃です。6月24日、広島へ出かけたとき、岩本八智子さんのお宅にお世話になった。日記にも書きました。長男さんが、広島空港の近くに、一山、桃の山を持って、栽培しておられる。以前からある農園を引き継いで、ここ数年、長男さんが作っている。見事な桃が実りました。八智子さんが送ってくれた。「食べて、ゲンキを出してください」。食べごろの桃でした。★日曜日。教会で、ミサを祈った。「なぜ、祈る?」。心に問いかける。「なぜ、オレは祈るのだろう」。個人で色々理由はあるでしょう。祈るのは、なぜ?イノチを与えられている。カンシャです。イノチは神さまのことです、と思っている。生かされているでしょう、今日まで。長い年月、イノチを与えられた。お恵みですよ。お恵みならば、お礼の祈りをささげる。★毎朝、5時に起きます。聖堂へ行って、声をあげて祈ると、身が引き締まってくる。「祈れる自分」。ありがたいと思う。声をあげて祈ると、健康にも、精神にも、いいのです。★ああ、そうだ、まだ桃のお礼を言っていなかった。電話をかけよう。お礼を、言おう。これも1つの祈りです。

2014年8月2日土曜日

気持ちが、重い。入浴でゲンキ。心配に、カンシャ。

調子が、出ない。休もう。★昨夜は、夜中に度々起きて、シンから寝られなかった。平常通り、5時に起きる。アタマが「ボーッ」として、ふらふら。今にも倒れそうになる。「このまま、バタン、キュウーって、なるのでないか。不安も襲ってくる。聖堂で、ミサを祈った。聖務も祈った。カゼ気味か、クシャミも出る。聖堂のクーラーの風が身にこたえる。自室で、熱を測った。「6度5分」。熱なし。血圧を測った。「120、61」。これも正常。よろしい。午前中、少し休んで、眠った。午後は介護のお兄さんがくる。迷ったよ。入浴、すべきか、パスすべきか。昼食後、自室で、休んだ。「こん、にちーわ」とゲンキな声で、介護のヘルパーさんがやってきた。「よし、風呂に入るぞ」。思い切って、湯に収まった。「カラダ、洗えば、サッパリ、なりますよ」。やっぱり、そうだった。気分は爽快になり、心も身も、軽くなった。こうして人生、進むんですね。ありがたいと感謝する。★「調子が出ない、休もう」と最初に書いたら、4人のコメントがあった。「ゆっくり静養を」「養生なさって」「お祈りしている」「休んでください」。心配をかけています。見守ってくれて、ありがとう。

2014年8月1日金曜日

8月。熱い夏。被爆の月。どんな家庭を望むか。

「少し、やせた、ね」と言われる。「ビクッ・・」と、しますよ。体調が良くないのか、なあ。ひざ・関節の治療に出かける。両ひざ、電気をあてて、保温をして、注射をしてもらう。筋トレも頑張ろう。歩行の大切さを知るようになる。★熱い夏の8月が始まった。終戦、69年。原爆、69年。母が被爆死して、69年。これだけ並べれば、熱い夏の意味がわかるでしょう。わが人生の原点になった夏です。マンガ「焼けたロザリオ」。この本にまつわる夏です。★「今度、生まれ変わったら、どんな家庭に生まれたいか」。夜中に、ふと、目がさめたとき、考えた。寂しい家庭だったからね。1人っ子。父は、7歳のとき病死。母は、17歳のとき原爆死。孤児になって、寂しい人生だった。にぎやかで、兄弟姉妹が多くて、じゃれあって、ケンカしながら、愛を感じて育っていく、そんな家庭に生まれたかった、よ。修道士の道を進んだから、自分で家庭を作ることもなかったし、ね。悔いは、ないよ。しかし、賑やかさのは、あこがれる。

2014年7月31日木曜日

天草へ③。長崎へ帰ります。フェリーは快適。

★天草のホテルで朝を迎える。ゆっくりと過ごす。10時に、谷田部さん夫妻が出迎えにきた。車で、フェリー乗り場の港へ向かう。20分ほどだった。港でお別れだが、幸男さんが、フェリーに一緒に乗って、おみやげの荷物を口之津港まで運ぶという。「いいよ、大丈夫だよ」と辞退しても、「いや、いや」と、一緒にフェリーへ乗り込んだ。兄弟のように仲がいいなあ。写真に撮ったよ。フェリーの写真も撮った。矢田部さんの気持ちが嬉しかった。フェリーで口之津まで送って、また、そのフェリーで天草へ引き返す。心のこもった、もてなしだよ。フェリーは、天草、口之津、同じ時間に出発する。海の上で出会うのです。口之津港へ着くと、藤下邦彦先生が、ちゃんと出迎えていた。★これはヒミツですが、藤下先生へのお礼もあり、諫早で、福田屋のうなぎを食べた。うなぎ専門、ウナギしか、出さないお店です。土用のウの日が去ったとこもあり、店は満席だった。ここは江戸時代からのウナギの老舗です。ゲンキが出てくる。あさ、また始めるぞ。