2016年8月31日水曜日

人生は、山あり、谷あり、乗り越えるチカラが欲しい

絵てがみ教室で描いた「カボチャ」を載せました。
★ブログを書くのが、夕方になってしまった。時間は、たっぷり、あったのに、なぜ、こんなに遅くなったのか。午前中は、入浴があった。昼食後は、静養棟へ見舞いに行った。しばらく、ベッドに横になる。日記を書こうと、パソコンに向かったが、字は進まなかった。
★3時まえには教会へ行く。ロザリオを唱えた。お祈りするときが、こころが落ち着く。自室へ戻って、教会の祈りの、晩の祈りと、寝る前の祈りを一人で唱える。今日の読書の、聖書の箇所を読んだ。すると、明子さんが来た。夕食まえまで話をつづけた。
★夕食を終わって、手と顔を洗って、いま、パソコンの前に居る。夕食のとき、高原修道士さんに、「あした、病院、たのむね」と、声をかけた。午前中に出発する。
★8月も今日で終わる。心配事がある。4月に、腎臓からボウコウをつなぐ「ステント」の入れ換えをした。4,5,6,7,8、9月1日で、半年近くなる。明日が、総合病院へ行く予約になっている。「ステント」入れ換えの痛みは、どうなるのか。サラサラのクスリを飲んでいるので、処置が難しいらしい。血も止まりにくい。
★テレビ・ドラマは、平凡に始まっても、途中で、奇想天外な出来事が起こらなくては、面白くない。人間の、ナマのドラマも、ジンセイの途中で、思いもかけぬ事が起こらなければ、生きる味もないだろう。苦しみを乗り越えられるか、わが人生は重い。

2016年8月30日火曜日

信心すれば、心も顔も光ってくるよ。安堵感がある

お昼ご飯どきに、明子さん(写真の左)の家にお世話になった。
★シスターもいる。ホームで働いていた。足を痛めて、引退し、山の修道院で暮らしている。久しぶりに顔を見た。姿を見た。「食べ過ぎたら、ふとるよ」と気にしながらも、豚(トン)汁を食べていた。
★写真に写っていないが、手前に、2人、隣の修道院の橋口修道士さんと、私がいる。橋口さんは、通称「ヨゼフさん」と呼ばれている。82歳になる。私の仲間だ。シスターが「写真を撮ってやろうか」と言ったが、「いいよ、いいよ」と断った。結局、4人が集った。「何の集まり?」と聞けば、「シスターの健康が回復したお祝いよ」「へェー、そうか、な」。でも、ごちそうと、この雰囲気が、あれば、いいや。
★ソーメンや、野菜や、豆ご飯、アイスもあった。民家で、こうして語り合うのも、楽しい。みんな、歳を取ったな。長生きすれば、いいことも、あるもんだ。ホームの話も、老いていく話も、「あの人」「この人」の話題も出た。「大事なのは、やはり信心、信仰です」。それだけは最後に、必ず認める。
★シスターがホームに勤務していた頃、夜勤も努めた。シスターに言わせると、自分が夜勤のときに、なぜか、決まって、多くの老人を見送ったという。信仰は年月を重ねるごとに、光ってくる。明子さんも、いい顔しているでしょう。

2016年8月29日月曜日

夜の暗闇に、浮かびあがる美しいホームの色ガラス

ホームの夜は静かです。暗くなって、廊下に出ると、ガラス戸に広がる闇の下に、ホームの玄関ホールにある色ガラスが美しく見えた。デザインの意味はわからないが、写真に撮った。
★テレビの番組で、「臨床宗教師」が全国で、200人居るそうだ。人は死んだら、どこへ行くのか。末期がんの患者にとっては不安になる。安らかに死にたい。おだやかな最期を迎えたい、誰もが直面する死がある。そのとき、寄り添うのが、臨床宗教師だそうです。
★「今まで、生きてきた意味は何だったのか。これで本当に良かったのだろうか。そういう、さまざまな悩みが出てくるのが、人だと思いますね」「その人にとっての人生の価値をいっしょに探す。自分の『いのちを越えた価値』、それがあったら、それが、その人の宗教」と番組は語って、臨床宗教師は、宗派を越えた宗教者だそうです。
★そういえば、私もホームに入った頃は、役職から離れて、何もすることが無くなったとき、「これで良かったのか」「ジンセイは1回きりしかない」「生きる価値はあったのか」など、悩んだ時期もあった。
★生きている我々は、死ぬことによって、すべてが終わるのではない。「生ある人間」は、「死」を筒抜けて、神の国、パライゾへ至る。いのちは終わらない。そう信じている。
★ありがとう。神さま、ありがとう。ヒトさま、ありがとう。そう言って、この世の人生に幕を引きたい。果たして引けるか、ただ祈るばかりです。

2016年8月28日日曜日

出店のブラザーとシスターは姉・弟。お母さんは天国

日曜日のホーム。ごらんの通り、黒シャツの男性と、シスターが福岡から来て、出店を開いた。カトリックの本や、信心用具、ご絵や、カード、ロザリオなどを売っている。
★こうして見ると、何の変哲も無い出店の感じだが、2人の名前を聞けば、私には忘れない「つながり」がある。
★2人は、姉と弟。弟、黒シャツの男性は、パウロ修道会のブラザー。姉のシスターは、タイの国で23年働いている宣教者。いまは休みで帰国している。11月には、また、タイへ行くそうだ。
★弟のパウロ会ブラザーに付いて、「今日は、加勢で来ました」と、シスター。
★今から、40年前になろうか。福島に、クニさんといって、信仰の熱心な女性がいた。2人のお母さんだ。私は何度か訪問したこともある。家には、身寄りのない女性老人を養ったり、庭には大きなルルドを作り、信心していた。そのクニさんに育てられた姉と弟なのだ。他に、もう1人のブラザーと、シスターが働いている。兄弟姉妹で、4人を捧げた。「クニさんは、3年前に亡くなった」
★私も信心用具、聖絵の額縁販売で、教会を回った経験もあるので、彼らのご苦労もよく理解できた。「わたしが働くのではなく、主が働いておられる」「お恵みをいただいたのだから、お恵みを返そう」。がんばってください。

2016年8月27日土曜日

2回目の「ソウメン流し」。夏も終わる。年月の流れ速い

夏も終わりか、「もう、1回、ソウメン流しをいます」と、栄養士さんからの以前、報告があった。今日が、その日でした。昼ご飯の前に、食堂の屋外で、職員さんたちが、準備に取り掛かっていた。
★準備するのも、大変です。大きな竹を交互に組んで、ホースで水を流して、イスをならべて、相すまないと思いながら、写真を撮りました。今年、2回目ですから、食べる方も予測はついている。
★昼食事になって、ソウメン流しは始まった。今年も、ソウメンを食べられるのを感謝しながら、いただきました。これでも、幸せを感じました。
★午前中に、西山神父さまが、介助を受けて、車椅子で、私の部屋を見にきた。「生活感が、あるでしょう」と私は言った。ブドウを差し上げた。喜んでおられました。

2016年8月26日金曜日

ブドウ刈りで、半日を楽しんだ。食べすぎては、ダメよ

ブドウ園に、巨峰刈りに出かけました。場所は、大村市です。車で、1時間と少しかかるでしょうか。道にも迷いました。
★山道に入ると、大きな看板が誘っていました。7、8軒のブドウ園があります。車を止めたら、すぐ、この光景が目に入りました。見事な巨峰がぶらさがっている。
★ホームの皆さんも大喜びです。ハサミと小さなカゴが用意されて、これと思うフクロを切り落とします。「果物は、食べ過ぎないように」と、お医者さんからも言われている。でも、これらを見ると、誘惑に負けます。木に生っているブドウを切り落とすのですから、スーパーのとは違って新鮮です。皆さんは、カゴ、イッパイに詰め込んでいたが、私は2個に止めました。600円、取られたかな。
★楽しい日でしたが、疲れた次第です。

2016年8月25日木曜日

食事は楽しみです。完食しています。ご苦労さま

今日までの「予定献立表」でした。これだけの料理を食べたことになります。完食すれば、栄養は充分、足りています。60人分の食事を作るのは、大変さがわかります。
★食事も、そうですが、介護は、本当にご苦労があるお仕事です。自分では動けない、ベッドに横になっている人を、食堂で、食べさせます。職員さんが、2人がかりで、ベッドの人を抱えて、ベッド式の車には、2階にあがって、まな板の音は聞こえなくなった。乗せる。抱えて、移すのは、本当に大変です。腰を痛めるのも、理解できます。それでもお仕事だから、やっておられる。ありがたいことです。
★食事は、毎食、完食しています。炊事場で働く皆さんは、おもてに出ることはないですが、忙しく働いておられます。以前の自室は、炊事場の直ぐ前でした。「トン、トン、トン・・・」と、まな板で切る包丁の音がしました。それを聞いて、家族の母親を思い出しました。今
★今日の昼ご飯は、めずらしい、赤くなった、ニンジンご飯でした。

2016年8月24日水曜日

せまい部屋ですが、イスを1つ買いました。これです

もともと、以前の自室は、タタミ部屋でした。将来、車椅子でも利用できるようにと、いま、改築工事が行なわれています。
★今度、代わった自室は、タタミはなく、床になっている。机も、イスも無く、ゴザを敷いています。「イスが、ほしいですね」
★隣の修道院の神父さまの運転で、買い物に出かけた。広い店内で、あれ、これ、物色して、見つけて、心地よかったのが、このイスでした。このイスを買い求めました。左右に、少しだけ、動きます。女性の1人が見にきて、「これは、いい。ちょっと、値が張ったでしょう。1万5千円ぐらいかな」と言ったが、ピッタリです。
★写真の右側に、修道服が下がっている。左側に、毎日、ブログ(日記)を書いているパソコンとプリンターです。ここには電話線がきていないので、 Wi-Fi(パソコンの横に小さく写っている)を使って、電波を出しています。日記を書くのが精一杯で、検索や、他の用途を使おうとすると、トラブルになる。「登明の部屋」を検索しても、パソコンが乱れます。
★左側の、高さのある板が、机の代わりです。メモを書いたり、聖書を読んだり、聖務を唱えたりします。せまい処での日常生活です。「まあ、これで、いいじゃ、ありませんか」
★日記を書くことは、生き甲斐でもあります。これからも「登明」を見守って、応援して下さい。

2016年8月23日火曜日

「オーラ」なくても、修道士の身分は忘れるな。心せよ

こんな字を書いた日があった。「元気、出せ。声を、出せ・・・」
★今年の夏は暑かった。ホームに居れば、海水浴にも行かないし、山の静かな山林も歩けない。ホームの涼しい廊下を歩くだけの夏でした。それでも、「ゲンキは出そう、ナマケは、出すな」。口を、大きく、あけて、「ウォッ・・・」と叫びたい、そんな気持ちだけはあります。
★いきなりですが、「修道士って、何ですか?」
★実は、ホームに入ったとき、修道服は持って来なかった。「金祝」の祝いが来るというので、服を、長崎から持ってきました。朝のミサは、いつも黒いシャツで祈っていた。
★なぜ、だったんだろう、いま考える。入居当時は、生きることに懸命だった。寂しかったし、生きる意味はなかったし、面会に来たい人にも、遠慮してもらった。心が落ち着いたのが、昨年の暮れかな。カルワリオへの道があったわけです。
★2015年のクリスマス・イブから、朝、ミサのとき、毎朝、着るようになりました。良くても、愚かでも、修道士の姿を見せる。「ホームに居ても、わたしは修道士です」。そんな気持ちが戻ってきた。
★修道士と言っても、見たところ、普通の男性と同じ、一般人と変わりないでしょう。どこに特別の「オーラ」があるのか。「ああ、あの人は、ちょっと違っているな」「正直や、な」「文句を言わないな」「争いが、ないな」「挨拶をよく、する」「気持ちの、いいヒトだ」。せめて、そう言われるぐらいでしょう。
★それでも、基本に、1つ、何かあるんですね。服の問題では、ない。自分に言い聞かせます。「元気を出せ。声を出せ。ナマケは出すな」「ウォーッ」

2016年8月22日月曜日

早ーや。新潟から、お米が届いた。ありがとう、感謝

1週間ほど前でした。新潟の仙子さんから、「お米を送ります」と便りがあった。「早ーや」。もう、着きました。仙子さん、ありがとう。
★2年前にも、お米を送ってくれた。仙子さんと、どこで出会ったのだろう。以前に、写真が送られてきた。長崎の聖母の騎士で撮った姿です、とあった。洗礼名は「アシジのフランシスカ」。そのとき会ったのかも知れない。いつも、私のからだのことを心配して、便りをくれる。新潟からだよ。長崎からは、遠いね。
★お米を、1表送ります、というから、昔の感覚で、俵になったお米を想像していたら、箱詰めの、重たそうな、2箱でした。お米は、修道院や、長崎の志願院でいただきます。
★きょうは、朝食抜きで、朝早くから、高原修道士さんの運転で、長崎のクリニックへ毎月の診察へ出かけた。昼食に間に合うように、帰った。「からだの調子は、どうですか?」と問われても、何と、返事してよいものやら、自分でも、迷います。
★9月1日に、諫早総合病院の診察があります。
★電話で、新潟の仙子さんに、お礼を言って、「修道士さん、おからだ、どうですか。大事にしてくださいね」と言われたが、「ハイ、まあ、なんとか・・・・」
★どうして、こんなに良くしてくれるのだろう。カンシャあるのみです。新潟にも行ったことはあるが、仙子さんの集落は、どんな風景だろう、など想像します。ご縁って、ふしぎな「つながり」ですね。

2016年8月21日日曜日

夏の暑さを、やわらぐ「かき氷」。生活の慰めになる

日曜日だよ。天候は、暑いし、「かき氷」をしましょうか。
★私と、入江さんは、朝の9時から、入浴した。からだが、熱いよ。早速、10時から、食堂で、「かき氷」が始まった。何人かは、カラオケを歌っている。やっぱり、心は、入居者を楽しませてあげようという温かさですよ。「かき氷」だって、それぞれに思い出はある。
★ジンセイって、出発点は皆、同じだよね。生まれた赤ちゃんを抱いて、親は、「ゲンキで育って欲しい」と、それだけを願った。
★育つ中で、人には才能があるから、各人、それを伸ばしながら、自分の生活を決めて行く。「ジンセイ、いろいろ」。様ざまな人生を歩んできた。
★そして、いま、老人になったなら、ホームに入って、生活は、皆、同じようになる。歩くのが、せいイッパイで、誰もが頑張っている。もう、何も、いりません。歩ければ、いいのです。私は、「かき氷」を食べながら、そう思いました。
★前にも書いたが、「ジンセイは、オシメに始まり、オシメに終わる」
★「かき氷」の味は、どうでしたか。まあ、家庭で作る味だよね。こころは、なごみました。

2016年8月20日土曜日

苦しみは生きている限り、イッパイあるよ。でも・・・愛

自室の前の廊下から、ガラス戸を通して、山側を見た景色です。
★昼食後に、静養棟の大曾神父さまの自室を訪ねた。ベッドに横たわっておられる。「おお、トマさんか」「いかがですか」。静かにして、動かない。毛布をかぶせた右手がピク、ピク、動いている。「どうして、いるの?」「字を書いている」。少しびっくりして「え?何という字?」「崎」と、聞こえた。安静の状態です。食事は、起きて、食堂で食べておられる。「全部、食べているよ」。職員さんの温かい介護を受けております。
★髪の毛は真っ白で、いい顔をされている。お任せしているお顔だ。戦争から、戦後の激動の時期に司祭になって、働きつづけてこられた。その活躍ぶりは、よく存じている。
★「アンセルモ」という聖人の修道名を戴いている。初期の時代の学者らしく、「哲学」の礎から、「自分はラテン語が好きで、勉強した。授業もラテン語、聖務もラテン語だった。イタリア・ローマ郊外に、アンセルモ大学がある。「1度、見に行ったことが、あるよ。門まで、だったがね」「むかしのこと、思い出しますか?」「いや、思わないね」「さびしくは、ないですか」「さびしくない。トマさんは、いいね」
★今は、お世話になっていて、辛いこともあるでしょう。思い通りに行かないこともあるから、「忍耐」が必要です。それに「気力」です。信仰も、ね。神父さまは、うなずいてくれた。
★「神さまが、助けて下さる。神さまが、導いて下さる。苦しみは、生きている限り、イッパイあるよ。耐えて生きましょう。愛のために。苦しみを愛に変えて、喜びをもって、生きましょう」。これは自分に言い聞かせる言葉です。

2016年8月19日金曜日

訪ねてくれる人がいるのは、うれしいです。待っている

出かけようと、黒いシャツを着ていたところ、3人の神父さまたちが見えた。何かの用件があって、ついでに、私の部屋まで来られたのだった。今の住まいは、廊下が広くなって、明るくなって、冷房も効いていて、窓の外には、山や人家が望遠できる。気持ちも癒されます。
★出かける前なので、ゆっくりお話も出来なかった。両側の外国人の神父さまは、隣の県から、私の右側の神父さまは、長崎の聖フランシスコ病院で、信徒の病者のお世話をしておられる、と聞いた。懐かしい病院です。通院してり、よく入院して、お世話になった。
★以前に、この病院に入院したときは、毎朝、病院の聖堂で、ミサがあり、その後、司祭が各病室の信徒に、御聖体を授けるのです。1人、シスターが付いていて、「チリン、チリン・・・」と、小さな鐘を鳴らしながら回っていた。忘れられない風景です。「あれ、ですか?」と訪ねると、「そうです」の答え。私が入院していた頃の神父さまは高齢で、亡くなった。そのような思い出があるので、もう少し、お話がしたい神父さまたちの訪問だった。
★訪ねてくれる人がいるのは、嬉しいです。入所当時は、面会はイヤでした。何か、心が開かなかった。応接室でお会いしており、自室での出会いは好まなかった。今は違います。自室でも、何でも、生活を見てもらっても平気になりました。これが私の生きる場所です。訪ねてくださって、ありがとう。

2016年8月18日木曜日

前のことやら、今日のことやら、幸せになろう、の心

聖コルベの祭日に、長崎・聖母の騎士に行ったとき、なつかしく聖コルベの祭壇で祈りました。
★左側のケースに、聖コルベの髪の毛がある。聖母の騎士で生活していた頃の気持ちは、この場所は自分の懐(ふところ)の感じでしたが、何だか、遠い場所になりました。「愛と平和」を祈り、忘れないようにしようと、心に誓いました。
★ホームで今日は、午後から「懇談会」があった。来月、9月の予定の説明です。敬老の日があります。19日、月曜日がその日ですが、18日の日曜日にお祝いします。市長さんも、参加されるとか。88歳の米寿の祝いもあるでしょう。100歳の女性もいる。家族も参加して、共に楽しみます。賑やかになりそうです。
★栄養士さんの報告では、「夏といえば、かき氷でしょう。近いうちに実施したいです。また、ソーメン流しも好評でしたので、近く行います」と、楽しみを告げられた。「大賛成です」。こうしてホームの生活を楽しんでもらおうと、職員さんたちもフンパツしています。

2016年8月17日水曜日

修道会の仲間たちが集って、楽しい会食を賑わった

お祈りの後は、会食です。聖コルベの祭日。長崎地区の修道者と、東京からの神学生や志願者たちが集った。聖母の騎士の食堂です。こういう雰囲気はいいですね。長崎に来た甲斐があった。ホームで一人暮らしは、さびしい。
★仲間の修道者と一緒に、笑ったり、談じたり、親近感に飲み込まれると、修道者の思いが、ふつふつと湧いてくるのを覚える。ありがたいです。
★コルベ神父さまのことは忘れてならない。若者にも伝えていくべきででしょう。日本管区の基礎でもあります。
★一人の司祭が、皆さんを静めて、初めの言葉を述べると、いきなり、「カンパイは、トマがあげてもらおう」と言われた。「いや、いや、わたしは・・・」と、いきなりの指名に抵抗したが、断るのも大人気ないと思い、「きょうのお祝い、おめでとう。これからもお互いに努力していきましょう、カンパーイ」と、あっさりと、やってのけました。それで、よかったことにしてください。
★今の私の気持ちは、皆さんの腰にくっついて、よちよち歩いているようなものです。とはいえ、実は、内心は嬉しかった。こんなに皆さんが居られるのに、「トマ」を忘れず、名前を挙げたことは、まだ脈があるな、と思った次第です。
★いのち、ある限り、カンシャして、前を向いて、神のみ旨を果たして行こう。
★入江さんと、入浴した。昼食後、入江さんと、大曾神父さま、西山神父さまを訪問した。

2016年8月16日火曜日

コルベ神父さまを忘れない。殉教から聖人への歩み

ホーム生活ですから、外で何かの集会があると、出来る限り参加しています。長崎・聖母の騎士で行なわれた、聖コルベの殉教の集いにも行きました。東京から来られた神父さまの講演があって、その後、祈念のミサが捧げられた。
★ミサ後、「トマさん、ゲンキ。ブログ、毎日、読んでいるよ」と知人夫妻から声をかけられる。教会を出て、聖コルベ館へ行く急な坂道を横断するのは、足元がふらついた。(ここ、聖母の騎士で生活は、ムリと思った。ホームがありがたい)。また福岡からの昌子さんから、銘菓「筑紫もち」をもらった。私の好物です。昌子さんは知っている。
★私が、聖母の騎士に入会した頃は、創立者のコルベ神父は、ポーランドへ帰国し、戦争に巻き込まれて、亡くなったという噂(うわさ)だけが知られていた。修道院は、コルベ神父が生活していたままの雰囲気が残っていた。終戦から数ヶ月後、初めてポーランドから詳しいコルベ神父の身代わりの愛の死が伝えられて、「オシュエンチン」というポーランドの地名を覚えた。この町の一角に、強制収容所があり、これが、ドイツ語で、「アウシュヴィッツ」と分かったのは後日だった。コルベ神父の死のことだけが伝えられ、強制収容所の残酷な詳しい報告は一切なかった。世にも残酷な、悪魔的な行為を驚き知ったのは、1971年、現地を訪問し、事実を見たときだった。
★私は、初期の聖母の騎士の雰囲気や、ゼノ修道士さん、セルギウス修道士さん、ほかのポーランド人の司祭、修道士たちと共に触れ合ったのも、喜び、恵だったと思っている。忍耐力や、ユーモアや、マリアへの信心、態度で示す信仰を学んだ。
★戦後、間もなく、コルベ神父の「列福運動」が起こり、長崎教区で、調査委員会が発足した。私はコルベ神父が、後継者のミロハナ神父を通じて、「神の下僕(しもべ)」「尊者」「福者」「聖人」となる過程を見ることが出来た。これは恵の1つだったと思っている。
★新潟の仙子さんから電話があった。「お米が、1表、あります。玄米が、いいですか。精米が、いいですか。大根、野菜、送ってもいいですか」。返事は、「ありがとう。喜んで、いただきます。玄米が、いいです」。こんな贈り物は、めずらしい。

2016年8月15日月曜日

終戦の日。聖母被昇天の祭日。お盆もある。祈った

15日は、終戦記念日。2度と戦争は行なわない。その誓いのなかで、戦没した人たちのために黙祷しました。
★教会では、聖母被昇天祭でもある。長崎の信徒や、キリシタンたちは、特に、この日、マリアさまの昇天をお祝いしてきた。歴史もあります。
★もう、1つ。お盆でもある。亡くなった人たちを供養する。ホームでも、湯江教会の祭壇前に、この1年に亡くなった入居者の写真を飾り、ホームの人たちが集って、ミサの祈りを捧げました。懐かしい人たちばかりです。ピオ中島神父さまの写真もある。
★ホームは老人の集りだから、亡くなる人の知らせも多々ある。「神さまに近づく日がくる」の思いは常にあります。子どもたちの笑いとか、若者たちの流す汗とか、そのような姿を見る機会は、ほとんどありません。私たちは、静かに、ほほえみ、呼吸し、暮らしております。

2016年8月14日日曜日

聖コルベ殉教の祭日。1941年。他者への最高の愛

「わたしが、この人の身代わりになります」。友のため、命を捨てる、これ以上の愛はない、と聖書にある。
★コルベ神父は、1941年、アウシュヴィッツ強制収容所の恐怖のなかで、人間の尊厳を失うことなく、毅然として、死刑になった1人の父親のため身代わりを申し出た。聖書の言葉を文字通り実践した。
★去年の3月、愛野教会で話をしたときの絵です。(神田千草さんが写す)。今日が、地下牢で、殉教をとげた。日曜日に当たりましたが、ホームでは聖コルベのミサが行なわれた。
★コルベ神父は、けがれなき聖母マリアへ完全に奉献して、自分は道具だ、働かれるのは、けがれなきマリアさまだ、との信念で生涯を貫いた。コルベ神父の特徴は「マリアを通して、イエスへ」です。神イエスへ至るには、イエスに最も近いマリアを通した方が、一番の近道と考えた。
★このように、けがれなき聖母マリアさまを愛しつづけたのに、その生涯は苦難に満ちた人生だった。それでもコルベ神父は最高の喜びを感じていた。そこが信仰の神秘であり、人知の及ばぬところです。愛は、憎しみに、勝つのです。
★コルベ神父が長崎へ上陸して、真っ先に、大浦天主堂の信徒発見の聖母マリアさまの所へ向かったことに、私は感動します。信徒発見の、あの祭壇と、マリアさまは、日本の信仰、キリシタンの歴史有る信仰につながっている。日本で最も大切な場所です。長崎へ来て、友人もいない、案内者もいない、それなのに、コルベ神父は一番よい場所に足跡を残した。マリアさまに導かれてのことだったと思います。コルベ神父と、マリアさまとの、つながりです。
★隣人や友人のために、何か、よいことが出来るよう、望む日でもあります。
★午後から、長崎の聖母の騎士で、講演と、ミサが行なわれるので、参加します。

2016年8月13日土曜日

聖母被昇天祭日の前に、告白する習慣があります

自室から廊下に出て、ガラス戸越に見た、ある朝の夜明けです。
★土曜日。朝、教会へ。5時40分から、修道者、信徒の共同で、教会の朝の祈りが唱えられる。祈祷本を机に置いて、手も机に置けば楽です。となりの席は、園長の山内神父さま。きちんと手を合わせて唱えている。思わず自分も手を合わせた。
★祈りが終わって、しばらく沈黙。やがて「お告げの祈り」、ミサが始まる。山内神父さまの席に、自著の「ながさきのコルベ神父」が見開きで伏せられていた。「ああ、読んでくれて、いるんだ」と嬉しくなった。コルベ神父の祭日も来る。
★ミサが終わって、信徒の告白があった。10人あまりが並んだ。修道士もその中に加わった。長崎では、聖母被昇天の祭日の前に、告白をする習慣がある。魂を清めて、ふさわしく祭日を迎えるわけだ。昔は、ご馳走である「ふくれ・まんじゅう」を作って、食べて、お祝いをした。原爆で、浦上天主堂が崩壊したとき、堂内では多くの信徒たちの告白が行なわれていた。信徒も、司祭も、亡くなった。
★告白は信仰生活で大切だと痛感しています。修道士になって、弱い人間が、修道の道をつづけられたのも、その秘訣は告白でした。告白によって、また魂はよみがえる。修道士をつづける希望が湧いて、チカラが出てくる。ありがたい秘蹟です。「神のもとに帰れるか」を基本に、糾明しました。

2016年8月12日金曜日

聖コルベ館で、5年目に出会った男性の喜び、嬉しい

ポーランド映画の取材に出かけた日のことです。早めに、聖コルベ館へ着いて、取材班が来るのを待っていた。修道服に着替えて、事務室に座ると、「ああ、2年前までは、こうして、ここで訪問者を待っていて、案内したものだったな」と感慨ふかい気持ちが湧いてきた。
★すると、「ピン、ポン」と来客の知らせがあって、1人の男性が入ってきた。早速、出迎えて、「いらっしゃい」。以前の気分にもどったよ。
★男性は、「小崎サンですね。前にも、2回、会っています。これで、3度目です」と喜んでいる。「前は、いつ来ました?」「3年前かな」「そのとき、何かの思い出がありますか?」「あなたにとって、信仰とは何ですか?と聞かれた。まあ、いろいろ浮き沈みはあるけど、乗り越えることが出来た、そんなに答えたように思います。日記に書いてくれた。ありがとう」
★大阪で、私の弁士で、「日本26聖人」の映画を見ました」。彼は、「身代わりの愛」(聖母文庫)を1冊購入した。サインをしてくださいと願われる。「愛の花びらは、いつまでも、枯れることは、ない」と筆ペンで印した。彼は喜んでくれた。
★ホームに戻って、日記を調べてみると、2011年7月19日の日記に写真と共に載せている。(やっぱり、彼はよく覚えていた)。『彼に問うた。「あなたにとって信仰とは何ですか」「自分の生きる道を確かなものにする。そのためには後悔しない。そこに信仰がある」。少年の頃、洗礼を受けた。家族も洗礼を受けた。関西に居て、把握できない奥深い何かを、長崎では見出しますね」と明るい表情をしていた』と日記には書かれていた。
★5年経って、また会おうとは・・・・。聖コルベ館での醍醐味だね。ずーっと、聖コルベ館に居りたいよ、そんな気持ちになりました。

2016年8月11日木曜日

ポーランド・赤カブのスープ。家族との、つながり

6月1日の日記に、「ポーランドから来た家族」の訪問を載せた。主人の写真家は日本人。奥さんはポーランド人。娘さん、5歳の名前は、「百合香(ゆりか)」
★私はポーランドへ10回旅行して、「赤カブのズーパー(スープ)がおいしくて、なつかしい」と言った。すると、昨日、あの家族から、「インスタントですが、赤カブのスープを送ります」と、小包が届いた。スナック菓子、PLUMなども入っていた。
★手紙と一緒に、百合香(ゆりか)ちゃんの絵も入っていて、心をなごませた。YURINKAと書いてある。何やら、ポーランドのイメージも湧いてくる。
★百合香ちゃんが、私に印象を与えてくれたのが、彼女の腕に、長崎・聖コルベ館のスタンプが押されていたことでした。あの女の子が、自分の腕にスタンプを押して満足し、自慢するなど、思いも付かない発想です。日本を忘れないで、コルベ神父さまを愛して、また日本へ来てください、と返事を書いた。
★写真家の主人からの便りでは、「日本で製作された、コルベ神父の生涯(千葉監督)と、ゼノ修道士のアニメ(宇井監督)の2作品を、ポーランド語の吹き替えを入れて、2017年の映画祭で上映するよう進めている」そうです。

2016年8月10日水曜日

テレビでない。映画だよ。撮影は快調におこなわれた

ポーランドから、映画の取材班がやってきた。コルベ神父の「ドキュメンタリー映画・題は、ディビェ・コロネ(2つの冠)80分」を製作するという。最初、ポーランド国営テレビと聞いていたが、そうではなかった。映画だった。今年中に仕上げて、来年、ポーランドの映画館で上映する。
★なぜ、いま、コルベ神父なのか。来年、2017年は、コルベ神父(当時は神学生だった)が、留学先のローマで、聖母の騎士(信心)会を創立して、ちょうど、100年になる。1917年のことだった。
それに、ちなんで、映画の製作にあたるという。
★8月7日の夕方に、長崎の聖母の騎士に到着して、下見をして、8日の朝から、聖母の騎士のミサから撮影に入った。この日は、聖コルベ館から、ルルド、印刷所など映像に収めた。9日の午前中は、長崎・原爆の式典を撮影した。午後から、小崎修道士の出番となった。
★彼らは、私の修道服を見て喜んでくれた。撮影は、2つの場面があった。1つは、聖コルベの部屋を案内し、説明する。もう1つは、コルベ神父の部屋で、私の修道士としての歩み、コルベ神父さまとの「からみあい」を充分に語ることでした。
★映画の取材班は、10日は長崎市内を撮影して、夜の9時の飛行機で羽田へ。11日は、もうポーランドへ帰るという。全く、コルベ神父の取材に来たといっても過言ではない。
★「これこそ、ありがたい出番」と、快く応対したのだった。マンガ「焼けたロザリオ」のポーランド語版も出ている。1冊、贈呈した。「これを見れば、小崎修道士のことは、わかります」

2016年8月9日火曜日

長崎・原爆。71年目の夏。家は燃え、母は行方不明

悲しい日です。大きく人生を変えた日でもある。写真は、昨年の3月、愛野教会で、原爆の体験を語ったときのものです。(神田千草さんが写す)
★71年前、17歳だった。後ろの絵は、母の写真と、家を出て、母に、「行って、くるけん、ね」と声をかけているところです。今でも忘れないシーンです。
★家は原爆の爆心地から、500m。爆風と、高熱と、放射能で、家は吹き飛び、母も飛ばされ、行方不明となった。遺体を見つけることが出来なかった。悲しいですよ。涙も、出ず、ただ呆然とするばかり・・・・。
★18日間、原爆の丘で生活して、思ったことは、「2度と戦争はするべきでない。核兵器廃絶、平和を願う世界でありたい」、それらは、その日から、今も変わりは無い。原爆の悲惨さを、沢山、沢山、体験したよ。
★しかし一方で考える。正直、言って、17歳の少年は、原爆の廃墟の燃える丘で、どのように生きたのか。これが私の人生のテーマになった。「助けを求める人を、助けなかった」「助けていたが、飛行機がきたら置き去りにして、逃げた」「私に気合を入れた先輩工員が、重症を負っていた。それを上から見下ろして、『いい、気味だ。ざまーみろ』と、許さなかった」。これが誰にも言えない、事実だった。そこから考える。
★人間の基本は、「助けない」「逃げる」「許さない」、この三点に尽きるのではないか。これが誰もが持っている弱さだ。特に「許さない」これが難しい。心に負い目を負いながら、私はポーランドの修道者のなかに飛び込んだ。そこで知りえたのが、「コルベ神父」だった。
★コルベ神父は、「助ける人です」「困難が来ても逃げない人です」「ナチの兵隊まで、許す人です」。コルベ神父に、人生の回答があった。人間としての、救いがあった。
★右の図は、原爆の日、私の行動ルートです。爆心地から、2.3kmの兵器トンネル工場で被爆して、矢の印のように歩いた。昼の12時頃、トンネルを追い出されて、普通は、家まで、30分ぐらいで行けるのに、その日は、5時間を要した。様ざまな出来事があったのです。
★翌日、8月10日から、26日まで、爆心地から、800mのところに、テントをはって暮らしていた。3人の女の子の遺体を燃やしたときは、本当に悲しかったよ。
★原爆で亡くなった母のため、親戚のため、多くの人たちのため、安息を祈り、絶対、戦争はしないと、約束したいです。

2016年8月8日月曜日

長崎・原爆・供養のお花が今年も届く。平和をいのる

今年も届いた「長崎・原爆・慰霊の花束」。原爆死した私の母の冥福を祈ってくれるお花です。北九州の娘さんとお母さんから毎年、贈られてきます。
★娘さんが小学校6年生のとき、長崎へ修学旅行に来た。当時、原爆の語り部をしていた私が、そのクラスに話をした。すると娘さんとの文通が始まり、「中学生になったから、平和を願って、千羽鶴を折ります」というのです。千羽の鶴を折るのは大変ですよね。部活もあるし、勉強も忙しいでしょう。
★でも毎月、百羽の鶴を折りつづけ、私は、その鶴を、長崎の「恵が丘・原爆ホーム」の老人に持参して、部屋に飾ってもらったのです。結局、10人の被爆者の老人たちに、平和と愛の折鶴を届けることが出来ました。
★それで終わりかと思ったら、いつの頃から、毎年、原爆の日になると、私の母親の供養のために、お花が届くようになった。もう何年になるか、覚えません。このように、ご縁をつづけてくださるのは、本当に珍しい出来事です。
★私が娘さんに話をしてから、16年の歳月が流れている。あの小学生の少女は、結婚して、2児の母親になっている。北九州に、訪ねたこともあった。お花を持って、写真を撮って、お礼の手紙を出しました。本当にありがたいことです。感謝しか、ありません。
★原爆で、廃墟の丘に立った私は、17歳でした。そのとき、本心から思ったよ。「戦争は、2度と、いらない」「兵隊さんも、いらない」「原爆は怖い。やめてくれ」。71年、時代は変わったね。
★ポーランド国営テレビ取材班が、昨日・夕方、長崎・聖母の騎士に着いた。今日の朝からミサの撮影に入った。明日、行きます。
★7月31日の日記に、「修道院の奇跡・沈黙すれば、するほど、人は豊かになる」の本の紹介が新聞に出ていた。読みたいな、と書いたところ、東京の「元日のエリザベット」さんが贈ってくれた。
★広島から、箱入り「桃」をいただいた。沖縄から、箱入り「マンゴー」をいただいた。

2016年8月7日日曜日

人の生き方が、カオにあらわれる。やさしい顔に魅力

昨日の、誕生会のときの「大曾神父さま」です。誕生日が、8月10日で、89歳になられます。
★大曾神父さまを訪ねると、いつも、お顔を見て、「ああ、いい、カオ、されているなあ」と感心するのです。おだやかな、やさしいお顔です。「ありがとう、ありがとう」と、低い声で言われます。職員の皆さんから、喜ばれています。
★ホームに来られても、入院されて、大変な時期もありました。
★人の生き方、これまでのご苦労があっても、根がしっかりしておれば、その心情が歳を重ねたときに、お顔に形成されるのではないか。その人の人生が、顔に出るということです。顔には責任があるのですね。その点、大曾神父さまのお顔の優しさに魅せられます。五島から、ご親戚が数人、見舞いに来られました。
★司祭には、心温かい介護をしてほしいと思います。神さまのため、働いてきた。信徒のため、教会のため、一生を捧げてきた。司祭も、年が経てば、老いて来る。からだも、アタマも、弱ってくる。人間だから当然でしょう。家族は、ありません。老いても、幸せになってほしい、それが願いです。安心して、苦労が無く、余生が送れるような場があってほしいと願うばかりです。

2016年8月6日土曜日

誕生会。おお、入江さん、大曾神父さま、お祝いだった

月の初めの土曜日の昼食は、期待の「誕生会」です。入居者の皆さんが、食堂に集まりました。大曾神父さまも、西山神父さまも、私と同じ食卓でした。
★山内園長神父さまのお話があり、今日は広島の原爆の日にも当たり、「戦争が無い、平和な世の中がつづきますように願います」、と言いい、「ホームでは、特にロザリオを唱えて祈っています。私たちの使命です」と強調されました。
★誕生会を祝う人は、4人です。1日生まれの「入江さん」。10日生まれの「大曾神父さま」も居られました。職員さんも入れて、皆さんで、「ハピバスデイ」を手拍子で歌い、園長さんと職員さんが、小さな灯と、花束と、プレゼントを配りました。
★「おお、仲間の入江さんだ。お風呂では、背中を流してもらって、ありがとう」。入江さんは、私の隣の席です。いつまでも健康でいてください。
★カンパイが終わると、食事が始まり、恒例の職員さんの「出し物」が出ます。これが楽しみですよ。写真の3人の職員さんが、舞台で、なんの音楽か分からないけれど、愉快に踊って賑わってくれました。
★その後で、のど自慢の歌も出たけれど、皆さんの声も、どうやら声も歳を重ねていくように思いました。「職員の皆さん、いつもお世話になって、ありがとう」

2016年8月5日金曜日

聖コルベの9日間の祈りが始まる。祈りを捧げましょう

朝、ミサの後で、お知らせがあった。「今日から、聖マキシミリアノ・マリア・コルベの9日間の祈りが始まります。祈りましょう」。コルベ神父の「無原罪の聖母への祈り」を唱えた。
★8月に入り、聖コルベの殉教の日が近づきます。コルベ神父に、日頃から親しみを感じている人は、毎日、13日まで、何らかの「祈り」を決めて、お捧げください。
★写真は、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院の、コルベ神父時代の建物と聖堂です。(内倉直美さんが写す)。この修道院から、ナチス・ドイツ軍の将校に連行された。多くの修道士たちとの別れは悲しいでした。刑務所に入れられ、アウシュヴィッツへ移送された。身代わりの愛の死刑を引き受けたのが、7月30日頃ですから、今の時期は地下牢で、飲食を絶たれて、餓死刑で苦しんでおられた。コルベ神父の飢え、渇きを思いながら、14日の殉教の日を迎えましょう。
★ポーランドの国営テレビが長崎へ取材に来ると、前に知らせがあったが、確認の電話がきました。8月9日、長崎・原爆の日の午後、聖母の騎士へ来るそうです。
★いつも来てくださっている理髪店へ、サンパツに行ってきました。

2016年8月4日木曜日

ゼノ修道士を囲んで。当時の老人たちの笑いと喜び

部屋を変わる際、混雑の中で、一枚の写真が出てきた。
★私が撮った写真です。ゼノ修道士と、女性がにこやかにアクシュして喜んでいる。ここは、今のここのホーム。後ろの建物は、昔こんな屋根のホームでした。いつ頃でしたか。昭和40年代と思います。表情を見てわかります。当時の老人たちは、明るさ、笑い、喜びがあったように思います。なつかしい写真です。
★ゼノさんも、いいカオしていますね。優しさに満ちていますね。ゼノさんは、時々、ホームを訪ねて、皆さんに声をかけていました。彼の決まり文句。「ゼノ、いそがしい」「死ぬヒマないよ」
★この後、ゼノさんは、タオルでアタマに鉢巻をして、老人たちと庭で踊った。その写真も撮っている。ネガが、聖コルベ館に保存してある。
★この写真を撮ったのは、50年前ですから、その頃の私は、働き盛りだったが、ホームに対して、どんな気持ちを持っていたのか。暮らしているお年寄りたちを、どのように見ていたのか。まさか将来、長生きして、ここで自分がお世話になろうとは、夢にも考えなかったであろう。
★修道士の身分で人生を貫いて、本当に良かったと思っています。
★「ベリタス・ウーナ。真理は、一つだよ。コルベ神父さまは、よく言っておられた」(コルベ神父に出会って洗礼に導かれた八巻先生)

2016年8月3日水曜日

カガミにうつる自分のカオを眺めて、老人になったなあ

ホームの改築工事にともない、昨日は、新しい部屋に引っ越しました。
★「どうですか、部屋の住み心地は・・・」。そう、ね。昨夜は、冷房を消して、休みました。タタミから、イスの部屋になったので、気持ちも、からだの調子も変わるようです。
★でも、以前の部屋が、懐かしい。眺めがよかった。有明海が見えたり、雲仙岳も、かすんで、なびいていた。集落や、小学校や、運動場、子どもたちの声も聞こえて、心が何となく癒された。1年9ヶ月余りお世話になった暮らしの場です。沢山の訪問者もありました。
★今の部屋は、写真の通りです。見えるのは、これだけです。赤い屋根が、湯江教会です。鐘の塔が「スー」と、立っていて、朝と、夕方の2回、修道士が、手でツナを引いて、鐘をならします。鐘を見ながら、生きていきましょう。
★過去に、どのような経歴があろうとも、歳をとったならば、すべてを置いて、お世話くださる方々の言うことを聞くべきです。歩けるか。フラフラしないか。歩けるうちは幸いです。そのうち、歩けなくなる。シモのお世話も受けるようになる。忍耐、気力、感謝もある。

2016年8月2日火曜日

長崎へ行ったり、部屋の移転があったり、疲れました

ゆとりの無い一日でした。
★朝、7時30分、高原修道士さんの運転で、長崎のクリニックへ。血液の採取をされました。からだが、どうなっているのか、詳しいことは分かりません。待合室に、患者さんが、7、8人居て、ホームに戻ったのは、10時30分でした。
★いま、ホームの部屋の改築が行なわれています。廊下や、ガラス戸はそのままですが、部屋が、タタミから、床方式になり、車椅子でも利用できます。一連の部屋の改装が終わったので、早速、移転が始まりました。今、居た部屋に、結構、荷物があるんですね。女性職員さんと、男性の業者さんが、テキパキと荷物を運びました。作業は、午後からもつづいた。
★部屋から見る景色が変わりました。湯江教会の鐘の塔が、ガラス戸のすぐ前にあります。もう、集落や、有明海や、雲仙岳は見えません。
★これまで冷暖房はホーム全体で行なわれ、部屋の冷房がよく効かなかった。今度は各部屋に、冷暖房がついているので、涼しいです。今、設定温度は、25度で、部屋の気温は26度を指しています。
★きょうは、疲れました。部屋や、廊下、景色に慣れるまで、少々時間がかかるでしょう。

2016年8月1日月曜日

からだは、病気が、からみあって、複雑です。耐えよう

例の如く、湯江教会の祭壇の生け花です。夏は、花が枯れやすく、長く持てないそうです。夏らしい花です。
★予約の、診察へ行った。高原修道士さんの運転です。私の健康のことで、何かとお世話になっています。行き先は、約30分。諫早の総合病院・泌尿器科です。ステントの入れ換えの時期がきている。これを考えると、処置は、かなりの苦痛を覚えるので、気持ちが重いです。ただ、「辛抱」と、「気力」と、「信仰」あるのみです。
★先ず泌尿器科の受付へ行き、ファイルを貰って、最初にレントゲン科で、腹部の写真を撮りました。次いで、検査科へまわります。血液の採取と、尿の採取を行ない、30分ほど待ちます。データーが出ると、泌尿器科の受付へ戻りました。
★名前を呼ばれて、診察室へ入る。高原さんも見守る。「長崎のクリニックで、Dダイマーと言われています」と告げると、サラサラのクスリを飲むと、処置に麻酔がきかないそうです。いろいろ有るんですね。人体は複雑です。お医者さんは、クリニックの先生に「手紙を書く」と言ってくれました。腎機能は変わりは無い。「9月の1日、午前中に診察に来てください」
★ホームへ帰ると、すぐ教会へ入る。共同のロザリオは終わろうとしていた。祭壇のヒマワリを見つめました。あしたは、高原さんの運転で、長崎のクリニックへ出かけます。