2012年6月30日土曜日

自分だけで耐えるな。もっと偉大なチカラが支えてくださる

今朝の祈り。ミサのなかの文章で、「彼は私どもの煩(わずら)いを身に受け、私どもの病を背負った」と、祈った。そのとき思いました。オレは昨日、「苦しくても自分の人生だ」と記した。あの言葉は、自分に頼り過ぎる、自己中心の独断ではなかったか。宗教は、そうではない。「主よ、あなたが我らの患いを背負ってくださり、私の病をも担ってくださる」。そう思うのが、信仰を求める者の生き方ではないか。胸を打って、反省した次第です。さて、私の元に1つのコメントが届きました。このようなコメントは、めったにない。喜びのうちに記しておこう。「4月号、5月号の、小崎修道士の文章に、どれほど励まされているか、言葉に出来ない程です。入院中であった母(87歳)の血尿が止まらず、苦しんでいたとき、小崎さんの腎臓が快復して行くように、私は本当に、母の快復の『希望』を感じました。幸い、血尿も止まり、ようやく退院し、現在は、母を自宅介護しています。小崎さんに感謝します」。私にとって、こんなに素晴らしい、喜びのコメントがあるでしょうか。誰が、どこで、読んでくださっているのか、私には全く分からない。有りがたい、お言葉です。早速、コメントを下さった人と、お母さんのため、今朝は祈りました。「主は、お母さんの患いを受け、痛みや、病を背負ってくださる」。そう信じて、日々、主と共に苦しみ、痛みを耐えて行こう。長い、試練の人生は、まだ終わらない。

2012年6月29日金曜日

苦難があっても我が人生なり。耐えて、生きるしか、ない

①病気、ガン、カラダが重い。ヒザが痛い。苦しくても、自分の人生だ。耐えるしか、ない。②尿が出なくなったら、アウトだ。自覚して、生きている。③オマエは修道士。これも自覚して、生きなさい。周りの人と、和(なご)みつつ、暮らしなさい。トラブル、ダメよ。④平和学習の筋書きは、変えられない。原爆の朝の母との別れ。廃墟をさまよう少年のニンゲンの本性。それに、すり合せてコルベ神父さまの生き方、愛し方。これも外せない。⑤私の今の仕事。(1)毎日、ブログを書く。(2)毎月、騎士誌に記事を書く。(3)毎日、聖コルベ館での見学者との出会い。出会いは、お恵みです。座っているだけで、あちらから来る。⑥ニンゲンは神さまから出て、神さまに戻る存在です。⑦科学者は、人は死ねば、何も残らない、と言う。カトリックの信仰は、タマシイは永遠のイノチに生きる。どちらを選択するか。全くの自由。私は、母親から、教えられたカトリックを信じ、人生を終わります。⑧告白を司祭に告げた。時々、必ず告白は果たす。告白を正直に果たすことが、修道士の生活を守る根底であると自覚している。だが、これが、なかなか難しい。⑨早朝に起きて、共同の祈りに参加する。共同の食事、休憩、夕べの祈りなど、共同の生活を大切にする。時を知らせるチャイムが鳴るが、健康のときは普通に受ける。カゼ引きで熱に苦しむときなど、チャイムが本当につらい。

2012年6月28日木曜日

地元の中学生たちが平和学習にきた。悪に負けるな。愛深くなれ

朝から、桜馬場の中学生たちが登ってきた。毎年、来ている。やっぱり若い、中学生たちの顔色と表情がいいね。こちらも爽やかな気持ちになる。「長崎は、シーボルト医師や、グラバーさんなど著名な外国人の名前が知られている。コルベ神父さんの名前も覚えて欲しい」。説明にも、熱が入った。「生かされている、感謝」「受けた恩は、その人には返せない。別の場所で、別の人に返していこう」「悪に、負けるな」。若いタマシイに訴える。少年たちも、少女も熱心に耳を傾け、目を輝かす。その風情が何とも言えないね。桜馬場は、親しみのある場所。長崎の町の起こりとなった場所でもある。ここに、長崎甚左衛門という地元の豪族が住んでいた。その屋敷跡が中学校になっている。アルメイダ修道士がここを訪れ、甚左衛門を洗礼に導いた。更には主君の大村純忠公も洗礼に導く。ここに長崎の歴史は大きく動いた。長崎歴史の出発になった由緒ある学校です。★中学生たちが帰った後、やはり短い時間だったが、燃えた為か、フラフラと眠っていた。すぐ反応がある。①疲れた感じがするね。②大丈夫ですか。③病院へ行った方がいいのでないか。④顔色が悪いぞ。そいう声に対しては、抵抗はするまい。①には、疲れとります。②には、ダイジョウブじゃ、ないね。とにかく、反対は、すまい。

2012年6月27日水曜日

マンガはポーランドの西部の都市からの発行。なぜの疑問?

2年前だったか。ポーランド人の父親と息子が聖コルベ館を見学に来た。帰りに、私の《焼けたロザリオ》のマンガ本を見て、欲しいという。「欲しいなら、差し上げる」と、プレゼントした。後で分かったのだが、父親がこのマンガの絵を見て、心を引かれた。内容を知って、ますます感動する。そこで、これをポーランドで発行したいという申し出があった。いろいろ艱難は有ったが、何とか克服して、やっと、いま、発行に漕ぎ付けた。ポーランドのコンラドさんから、その完成マンガ本が送られてきた。大きな喜びだった。ところで、よく調べてみると、なんと、ポーランド語版の《焼けたロザリオ》の発行元は、どこかと思えば、意外にも、ポーランドの西部の都市、ジェルジョニュフだった。こんな所から出ていたのか、と、ビックリした次第です。普通の商業感覚から言えば、異彩のマンガ本の出版となると、大都市、首都のワルシャワからの発行でしょう。その方が、売れ行きも、いい。こんな不便な都市から発行されていたのか、と胸が熱くなった。ゲンキな頃の私なら、早速、夏休みを利用して、ポーランドへ飛び、現地を訪ねて、確かめたい気持ちで一杯である。①どうして発行に漕ぎ付けるように、思い立ったのか。②発行所の機械の設備、出版社の規模など。また父親、息子の気持ちを知りたい。③発行に至る動機、日本語版のマンガ《焼けたロザリオ》の何処に、何に惹かれたのか。④発行した以上、マンガを売るために、どのような販売方法を考えているのか。などなどを直接に聞き、現地の熱意を体験したと思う。おそらく、こんなことは、人生に2度と起こらないであろう。有りがたいと思う。

2012年6月26日火曜日

折り紙に似た人生。苦しみを体験しただけ、豊かな実りあり

地下には、活断層がある。噴出すと、大きな地震、災害がおこる。恐怖だ。私のお腹にも、何やら活断層に似たものが、うごめいている。今のところ、尿がきれいな色になっているから、しばらくは詰まるトラブルはないだろう。期待している。修道士だって、ガンを病めば、現代医学に頼って、治療する。ガン・リキや、念リキで、病気に立ち向かうことは、しない。信じたからといって、即、病気が治ることはない。ガンが良くなるか、進行するか、人知を尽くした後は、神のお計らいにお任せする。病気に対する受け止め方が、信仰者と、信仰のない人では異なるだろう。信仰者も、苦難はツライ。苦しいときは、苦しい、と叫ぶか、あるいは、苦しくても、くちびる噛んで、耐えるか。私は苦しいときは、「苦しーヵ」と叫びたい、しかしその後では、お任せする。人生は「折り紙」のようなものだと思う。紙を、沢山、織り込めば、複雑な、よく似た作品が出来る。人生は、1回切りさ。自分らしく、我らしく、生きようではないか。今朝の祈り。「すべてを治め、導かれる神よ、悪から守り、いつもみ旨を行なわせて下さい。信仰を強めて下さい」

2012年6月25日月曜日

パキスタンで奉仕する小児科医師の男性。愛の人になって下さい

「ピン、ポン」と鳴って、資料室に、1人の男性が見学していた。声をかけると、いま、パキスタンの聖ラファエル病院で、小児科医師を務めているという。「えらい、遠くから、ご苦労さま」。4年ほど前に、日本のNGOから派遣されて、現地へ。シスターの働きを見て、カトリックの洗礼を受けた。いまは休暇で帰国した。1週間、黙想の家で、霊想を行なった、と明るい表情。パキスタンは98パーセントがヒンズー教。カトリックは1パーセントに過ぎず。その中での受洗は勇気が入ったであろう。なんだか、この男性との話しは、ツー、カーで、すんなりと、通じ合うのを感じた。「自分は、つまらない者だが、与えられた賜物がある。それを出来る範囲で、分かち合う。私が、働くのではなく、主が、働く。神が行なう、そういう気持ち」。私の想像だが、現地では、多くの苦しみ、悩み、至らなさがあるだろう。だが、私は道具にしか、過ぎない。この男性の手で、多くのパキスタンの赤ちゃんが助けられ、救いをもたらすだろう。「まだ、4、5日、長崎に居る」という。「もう1度、ゆっくり話したいから」と、日を決めたが、私のカゼ引きで、お会いしたが私は病院へ離れた。

2012年6月24日日曜日

出ました。ポーランド語で、焼けたロザリオ・マンガ

ポーランド語版の《焼けたロザリオ》が今、手元にある。嬉しいよ。送ってくれたのは、ポーランド・クラクフ在住の親友、コンラドさんです。「トマさん、出ましたよ。とても素晴らしいです。立派な本です」と、新聞に広告だ載ると、すぐ買い求めて、私にも送ってくれた。本当に立派に出来ている。このマンガ・焼けたロザリオを、ポーランドの少年・少女に、ぜひ読んで欲しい。それが願いです。1冊、ポーランドのお金で、19.90ズオチィ。日本円で、462.28円。ユーロは、4.64ユーロ。ドルは、5.86ドル。ポーランド国内郵便は、3ズオチィ。発行・会社名は、STUDIO-EDYTOR。ただ、内容を見ると、ポーランドの子ども達に、すぐ理解できるか、そういう言葉もあります。例えば、外海のキリシタン。結核に効果がある椰子(やし)の実。割ってみると、実と思いきや、水が溜まっている。決闘の場面。チャンバラの戦い。原爆の実相、などなど。小学生には難しい。大学の日本語学科の学生に良いかも、と思う。ときかくポーランド語なので、ポーランドで多くの人に、戦争反対、原爆反対、強制収容所反対、コルベ神父の愛が伝わってくれると、嬉しい。ありがたい。

2012年6月23日土曜日

平熱になっても、耐えて寝ている。体力の低下が心配だ

熱は下がりました。今日も、あわてずに、休みます。忍耐が必要です。寝ていると、楽だが、体力が落ちるのを感じる。カゼを引くたびに、体力が落ちていくのか。それが怖い。昼間、聖コルベ館へ。スイカを食べる。「カゼ引いて、熱があるとき、食べると、身が冷えるぞ」の声もある。しかし食べて、水分の流れを良くしたい。「生きているのは、キツイこともあるが、イノチを与えられた。歩みを支えて下さる御方が居られる。まだ、まだ捨てられていない」。とにかく少量の熱でも、老人にとっては、骨身にこたえる。やっぱり体が正常でない。よく分かる。寝て、耐えるしか、ないのです。

2012年6月22日金曜日

老人の発熱は安心できない。用心に越したことはない

セキも出ない。タンも出ない。ハナ水も出ない。それなのに、ジワーッと、熱が出る。7度3分を中心に、少々、上がったり、下がったり。そういえば、昨日は雨が降っていた。背中が何となく肌寒いなあ、と感じていた。まあ、大丈夫だろう。そう思って、1日を過ごした。その夜から、熱が上がった。若い頃なら、少々熱があっても、生活には何ら差し支えがなかった。押し切れた。ところが高齢者・老人は、そうは行かない。1晩たっても、朝になっても、熱が下がらない。休んでいて、情けないよ。昼前、寝ているだけでは、良くならん。病院へ行って、クスリをもらおう。寝ているのが楽だが、行動を開始する。もらったクスリを夕方飲むと、悩んでいた熱が、スーッと、直ぐに、6度1分に下がった。「効き目のあるクスリだなあ」。あんまり効き過ぎるクスリは怖いな。もう飲むまい。

2012年6月21日木曜日

予約の診察日。「どうですか?」「ええ、まあ、出ています」

予約の診察日。朝から台風の余波で、雨が降る。病院へ行くとなると、気が重い。天候が思わしくないので、なおさら重い。9時、泌尿器科へ着く。紙コップに尿を取る。「よし、よし、きれいな色をしているぞ」。尿検査の数値が出るまで、30分はかかる。待合室で、温かいお茶を飲む。テレビの横に、マリア像。違和感なく合掌している。看護師さんから呼ばれた。「レントゲンを撮ってください」。X線室を出た後、直ぐに呼ばれて、診察室へ。今、撮ったレントゲンにキレイに、両脇S字の、長い、細い管が、はっきり写っている。「尿は、少しの濁りがあるけど、見守っていきましょう」。次の予約は、7月21日。10時前には診察は終わった。「何事なく、尿が出てくれれば、幸せなんだが・・・」

2012年6月20日水曜日

韓国から見学者。1月から6月まで、918人。皆さん熱心

「アニョハセョ」。「いらっしゃい」。円高なのに、皆さん、旅行も大変ですね。でも、韓国の皆さん、熱心です。一番、左が、ガイドさん。「大勢で来ました。ホールでビデオ見せてください」。ハッスルしたよ。私が日本語で語ると、すかさずガイドさんが訳して語る。イキがピッタシ合っている。だから、ものすごく、気持ちがいい。「5年前にも来ました」と女性がお礼をした。握手する。ガイドさんは資料室での解説も丁寧にやっている。皆さんの韓国語の祈りも聞こえた。こういう巡礼者は大いに歓迎します。見学者の中には、ガイドさんがカトリックでない、だから信仰の言葉を知らない。その上、「初めてです」と、おっしゃる。こういうのが困ります。当方が解説しても、訳のイキが合わない。せっかく来たから、霊的に、信仰的に満たされて帰ってほしいのに、ただ来るだけで、充分でないことも、しばしばです。歯がゆい思いもします。何とか、方法は無いものか。充分、コルベ神父の愛、神さまの愛を知った皆さんのカオは、明るい。そのなかに入ると、喜びも、生き甲斐も湧いてくる。ニンゲンって、そんな、モンです。

2012年6月19日火曜日

珍しい客。バックの祭壇を作る。20年ぶりに来た。歳とったな

「ピン、ポン」。玄関に長身の老人男性。「オオ・モリです」「どこの、大森?」「滑石(なめし)です」と聞いたら、「ああ、茂男さんね」。すぐ名前が出てきた。不思議だなあ。名前はよく忘れるのに、瞬間、ポンと記憶から出てきた。資料室へ誘う。大森茂男さんは、今、写真に写っている白い祭壇を作った工作者です。1992年の作ですから、20年になる。「おお、ゲンキで良かったね」「小崎サン、病気じゃなかったの?」「ああ、まだ大丈夫だよ」。茂男さんは昭和5年2月生まれ。82歳。蛍茶屋まで市電で、1人で歩いて来た。長年、三菱電機に勤める。60歳の定年だから、もう何年も、好きな工作で祭壇を仕上げてきた。最近はもっぱら散歩。毎日、交代で、3つの教会を回っている。時津、長与、滑石の教会。「ゲンキなのが、いいねえ」。土曜日の夕方、5時から、西町教会まで歩いて、ミサで祈る。「信仰は、自分で、育てていく。人間が分かり、自然の神秘が分かり、神さまが感じられる。自ずから、祈りの追憶のなかに入っていく」。嬉しくなって、記念に写真を撮った。「この祭壇を残す間、今日、大森さんが訪問したのは、記念日にするからね」。本人は喜んで、ルルドの坂を登って行った。突然、こういう人に訪問されると、嬉しいなあ。

2012年6月18日月曜日

夜中に、また軟・結石が出た。ビックリだよ。助けてください

何で、こんなカタマリが、尿から出るのだろう?夜中の、3時。尿を排尿コップに採った。「ヌルリ」の感触。ああ、と、もう直ぐ分かった。これが出ていた。かなり大きい。1・2mmは、あるだろう。これが腎臓のなかで詰まっている。なぜ、こんなカタマリが発生するのか。分からない。今まで、出たもので、一番大きいみたい。テレビで「尿路結石」の解説があっていた。「コーヒーを飲むと、結石が出きやすい」とお医者さんは語っていた。そんなことを聞くと、コーヒーも飲めないよ。62年、左の腎臓だけで生きてきて、これまで何事もなかった。それが今年になって、急に、この結石で苦しんでいる。これが詰まったら、どうなるか。思っただけでも、背筋が寒くなる。オレの腎臓のなかは、どうなっているのか。

2012年6月17日日曜日

信徒発見の直系の冥福を祈る。息子は5代目になっている

3年前に、亡くなった夫妻。お互いに、愛していた。2月に、ご主人の秀雄さんが、90歳で神に召されると、6月に、奥さんのツギ子さんが、86歳で亡くなった。2人は長崎市の浦上、大橋の傍に住んでおられた。男の子どもさんが、2人いる。その子どもさんが、両親の3年忌を行なった。参加しました。浦上天主堂で、ミサを祈る。白山墓地で、お祈りする。そしてガーデンテラスで会食があった。この夫妻については、大きな物語がある。信徒発見に関係する出来事です。発見のきっかけになったのは、大浦天主堂を訪れた浦上キリシタンたちで、そのなかの、イザベリナ・ゆり(姉)、クララ・テル(妹)の2人が、プチジャン神父に問いかけた。「サンタ・マリアのご像は、どこ?」。これが有名な信徒発見になった。さて、その子孫は、どうなったか。ゆりの子孫は絶えてしまったが、クララ・テルの子が、今につながっている。テルばあさんの子が三八(さんぱち)で、次の子が、三ヱ門となり、その子が、秀雄さん(写真・右)である。だから秀雄さんは、テルばあさんから、直系の4代目となる。左は奥さんのツギ子さん。私も祈りに、会食に参加した。修道士の服を着ているから、私が先唱して奉仕した。お役に立って嬉しい。秀雄さん、ツギ子さんも天国で喜んでくれたであろう。私が秀雄さん夫妻と知り合ったのは、1965年、信徒発見の100周年のときだった。それからご縁ができて、秀雄さんは8mmカメラの専門家、後にビデオの制作者となる。沢山の作品を残した。私と、秀雄さんは、2人で、京都から長崎まで、車で、日本26聖人の歩いた道を巡礼し、毎晩、ゆかりの教会で映画を行なった思い出もある。温厚なご主人だった。夫妻は本当に仲がよかった。いつまでも、このご夫婦のことは覚えている。

2012年6月16日土曜日

座っていても、ドラマは生じる。見学者にコウサン

書きましたよ。「声を、大きく、出しましょう」。よく、言われるんです。電話に出るでしょう。「モシモシ、ハイハイ」「え?小崎さんですか?ゲンキな声だな。病気じゃ、なかったんですか」「ゲンキだよ。まだ生きているよ。へ、へ、へ」。ここまで書いたら、「ピン、ポン」「あれ、誰か、来たよ」。資料室を覗くと、細身の男性1人、白髪まじりの髪が肩までたれて、胸にペンダントあり、(あれ、男性?女性?)と瞬時に思った。どうも男性らしい。彼が言った。「11年前に、来ました」「どうぞ、ごゆっくり」と言って、また日記の、この続きを考え始めたが、どうも気になる。再び覗くと、北原玲子(さとこ)の展示の前に立っていた。「若い頃、北原さん(蟻の街)を知り、ゼノ修道士を知り、コルベ神父を知った」と言う。私は10時に予定があった。まだ10分あるので、「ビデオ、見ますか」と訊ねると、「お願いします」。ビデオの後、彼が「学会で長崎へ来た」と言う。私の本も読んだという。そして次の話を彼がした。「原爆で、永井先生は重傷を負った。ルルドの泉で癒された。奇跡です。その3日前か、永井先生は杖をついて、苦しんでいた。そこへ飛田から・・・」「え?トビタですか?知らないな」「若者が助けを求めてきた。永井先生は、自分も重傷で行けない。断った。すると今度は、飛田の名のある人が頼みに来た。永井先生は、コンチクショウ、死ぬ覚悟で、意地でも行ってやる。純心の修道院長さんに出会った。院長さんは、医師は単純に、愛の心で行きなさい。治してあげたい心で行きなさい。そう言われて、飛田へ治療に行った。如己堂随筆の後ろの方に書いてある。奇跡は最初のページに書いてある」。私の知らない話だった。詳しくは分からないが、後で如己堂随筆を読んでみよう。結局、人を見て、差別するなの教訓ではないのか。そのことを、この男性か、女性か、首をかしげる人から教えてもらった。「学会」と聞いていたので、「大学の先生ですか?」と問うと、名詞を下さった。東京の著名な大学の教授だった。「経済学博士」と刷り込まれていた。時計を見ると、私の予定の時間は、15分過ぎていた。「私は失礼します」と言って、握手を求め、先に資料室を去った。私は心のなかで反省した。

2012年6月15日金曜日

イエスの聖心の祭日。コルベ神父「マリアを通してイエスへ」

聖コルベ館にあるコルベ神父の部屋です。大きな写真は、この部屋で、執筆中のコルベ神父。壁に、けがれなき聖母マリア像と、イエスの聖心の額がある。今では、こういうイエスの聖心の聖絵も、珍しくなった。昔の、長崎の信徒の家には、必ず、イエスの聖心の額と、マリアの聖心の額は、鴨居に掲げられていた。「マリアを通して、イエス(神)へ」が、コルベ神父の道筋だった。聖コルベ館を訪問された方々は、この写真を見ると、思い出すでしょう。懐かしいでしょう。また長崎へいらっしゃい。コルベ神父は待っています。今朝、ミサで祈った。聖書に、「ヤリで、わき腹を、刺した。すると、血と、水が、流れた」。なんと、ショッキングな出来事でしょう。私は思った。「人は、神から出て、神の愛とイノチに戻る、存在です」。だが、罪や、汚れが、いっぱい、ある。このままで、神さまの御前に出れますか。「神、おん自ら、先に、我らを愛し給ひ、我らの罪のために、御子を贖(あがな)いとして、遣わし給いしなり」(ヨハネ1書、4-10)

2012年6月14日木曜日

梅雨晴れの長崎へ。北海道から、夫妻の旅。初めて出会う人は?

夫が、定年退職した。妻は、まだ長崎へ1度も行ったことがない。「ぜひ行きましょうよ」。夫妻は、北海道の札幌を、朝の6時に出て、羽田で乗り継ぎ、午後1時頃には長崎駅前へ着いた。長崎は梅雨なのに、空は明るく晴れ間があった。妻が、騎士誌を愛読していたので、早速、電車に乗って、聖コルベ館へきた。
午後から、しばらく自室で休んでいた私は、3時頃、聖コルベ館へ出た。夫妻は資料室の展示ケースに寄り添っていた。声をかける。3人は、ヒザ付き合せて、座った。なぜ、なんだ。私のカオは、ホホがふくらみ、エビスさんのようになった。自分でも、よく分かる。「ハッ、ハッ、ハ」と、愉快になって、夫妻に語りかけた。「お元気そうで。ああ、よかった。お元気ですね」。奥さんは、私の快活に安心したようだった。ご主人は、妻を、教会へ送り迎えの役目。そういう例はよくわかります。今度は夫が、「ハッ、ハッ、ハ」と笑った。
旅は、5日間という。外海へ行って、日曜日の浦上天主堂のミサで祈りたいと微笑む。遠い北海道から長旅をつづけて、目的の長崎へ来て、最初に出会ったのが、修道士だった。修道士の笑顔だった。そう思えば、なんと、出会いの微笑みは、大きな痕跡を残すことか。「小さな旅でも、大きな恵み」と主張してきた意味の深さを感じた。
ダンナさんが「写真、撮らせてください」とお願いしたから、好感が持てたのだろう。「長崎オラショの旅」「十七歳の夏」を買って、夫妻はルルドへ登って行った。夕べのロザリオのとき、夫妻を思い起こして、心に爽やかな風が抜けていた。★写真は、眼鏡橋に咲くアジサイ。

2012年6月13日水曜日

奇跡の聖人・パドアの聖アントニオ。信じる者はしるし伴う

イタリアの著名な聖人、12世紀後半、パドアの聖アントニオの祝日です。ミサの聖書で読みました。「信ずる人々には、徴(しるし)伴はん」(マルコ・16-17)。アントニオは無名の修道者でしたが、あるお祝いに、予定の説教者が来なかった。代わりに、院長から説教を命じられ、人々を感銘させる素晴らしい名説教を行なった。隠れた才能が開花した瞬間です。それから著名な説教者、神学教師となり、奇跡の聖人となった。「人は、誰れの人生にも、不思議な出来事が、幾つも有るでしょう。みんなと同じ呼吸をしても、信じる者には『しるし、伴わん』と思い、感謝しおうではありませんか」。写真のパドアの聖アントニオのご像は、私たちの祈りの場所、コールスにあり、歴史はかなり古く、戦後まもなく、アメリカから贈られた聖人像で、大切にしているご像です。本の上に、幼いイエス、それにユリの花、黒い色のフランシスコ会の修道服を着ています。

2012年6月12日火曜日

マリアさま。お化粧をし直しました。「皆さん、イラッシャイ」

聖母の騎士の入り口にたたずむ「けがれなき聖母マリア」さま。新しく色彩を塗り替えました。きれいになった。皆さんを、待っています。「イラッシャイ」。温和な、優しいお声です。コルベ神父さまの時代から、このマリアさまは聖母の騎士に立っています。マリアさまに誘われ、訪れて、心身ともに救われた女性も居ります。「長崎のコルベ神父」(聖母文庫)参照。私も、このマリアさまに誘われて、小神学校に入りました。幸せを見つけました。天のお母さんは、最後まで、見守ってくださいます。安心して、身も心もお任せしましょう。単純だけれども、真理です。コルベ神父さまは言いました。「私のことは、忘れてください。マリアさまのことだけ、覚えてください」。103歳で亡くなったセルギウス修道士の証言です。

2012年6月11日月曜日

尿が、すんなり出ることが、カンシャだ。祈りでもある

これまで、どれほど「尿」で苦労したか。血尿した。真っ赤な尿が出た。血のカタマリがつまって苦しんだ。尿が、18時間、20時間も全く、出なくなった。そして今、ゆっくりと、すんなりと、何のためらいもなく、黄金色の健康な尿が出ている。尿が、出る。カンシャだ。いや、私にとって、祈りでも、ある。ああ、生きている感じが、みなぎってくる。尿が、平凡に出ること、当たり前と思うなよ。想像を絶するような、不思議な出来事が体内で行なわれて、イノチを支える河となって流れ出てくる。栄養を採取して、カスを水分に乗せて、排出するが、イヤ、イヤ、決してキタナイ水では、ない。キラ、キラ、輝く、イノチの流れだ。お医者さんから、「腎臓は1つしかないが、特別に、強いね」と言われた時は、これからも生きるぞというチカラが湧くのを感じました。

2012年6月10日日曜日

メロンが届いて、即、本人がやってきた。ビックリだよ

聖コルベ館で、仕事を開始する。最初に届いたのが、メロンだった。宛名から、お礼の電話をかける。出ないぞ。不在かな、と思った矢先、「ピン、ポン」と鳴って、お客さんが来た。この女性が、なんと、「あれ、メロンの送り主だよ」。メロンと共に、やってきた。そのタイミングに、ビックリだよ。メロンはありがたい。さて、会って話を聞いてみると、この女性が「日本26聖人のコンタツ」の信心者。ちょうど今、長崎では、日本26聖人列聖150周年お祭りを行なっている最中の3日間で、それを合わせて長崎へ来たのだった。「コンタツが、広まると、いいね」と、信心の援助をするのを誓ったのだった。★赤い玉が26個あり、それぞれ謝祷を唱える。日本26聖人が列聖されて、フランスで信心が始まった。日本では戦前、戦後、唱えられていたが、最近は知る信徒は殆ど居なくなった。残念に思う。★日本26聖人のコンタツのお問い合わせは、郵便番号321-4334栃木県真岡市八木岡477-39道脇幸子さん宛。ハガキで申し込みください。

2012年6月9日土曜日

やっぱり、いいなァ、聖堂の朝。恵みの朝だよ

朝、5時半に起きる。聖堂で、皆さんと一緒に、大きな声で、祈る。心底から、喜びと、やる気が湧いてくる。またイノチをつないだ。生かされたからには、何かの意味があるはずだ。怠けるな。定刻に、聖コルベ館を開ける。「さあ、いらっしゃい」★「アンタは、パウロたい」と、入院中、見舞いに来た女性が言った。「なんだよ。オレは、パウロじゃない。ペトロでもない。トマだよ」。すると女性が説明するには、「パウロは、主と共に有る人だが、一生涯、沢山の苦しみがあった。1つの苦しみを乗り越えると、また苦しみがくる。その苦しみは、すべて主に捧げたものとはいえ、苦しみは次から次へと来る。それと同じ、パウロといっしょたい」と言うのだ。恵みを、もらった。他に、愛を、人に与え尽くすことが出来る。他の人は、わからない。苦しみは、他に出さない。自分の苦しみは、他の人には分からないようにして、人に愛を与えていく。そんな人になりたい者です。

2012年6月8日金曜日

入院7日目。ゲンキに退院する

午前ちゅうに、早々と、退院しました。途中で、なじみの理髪店で、下車。「いつぞや、トイレを借りて、お世話になりました」と、サンパツをして、すっきりとなる。昼食は、修道者の食卓で、久しぶりに一緒。皆さんから、笑顔で喜ばれる。日記の読者の皆さん、お祈りと、ご支援はありがとう。★泌尿器科の主治医の高橋先生です。いつもお世話になっています。健康を預けています。笑顔が素敵なお医者さんで、親切な医療で好評です。患者と、お医者さんは、ツー、カーの仲がいいのでは、と思います。その人の暮らしがあり、歴史があり、人生がある。お医者さんは病気を診るのではなく、人間を診る。それが名医だろう。

2012年6月7日木曜日

入院6日目。治療終わり、もう大丈夫。

人間って、おもしろい。苦しい時は"今"だけを考える。胸が明るくなると、いろいろ"先のこと"を考える。明日(金曜日)に退院します。いのちのある限り、生き続ける。皆さんのご支援、お祈り、ありがとう。★東京から、1人、女性が見舞いにきた。臨床パストラル・カウンセラーの女性です。和やかなお顔をされている。女性は私のベッドに近づくと、最初に、こう言った。小崎さんは「人の、見る目を、養う、深いです」。ドキッと、したよ。私が騎士誌に、信仰実話を書いてきたので、そのことを言っているのでしょう。パストラルケアとは、病む人と、その家族、友人などの心、タマシイのケアを仕事にしているそうです。「大変な、お仕事ね」

2012年6月6日水曜日

入院5日目。良好です。あっと言う間に食べる病院食

「腎臓は一つでも強いです」とお医者さん。尿は正常に出ている。昨日の尿量は2.7リットル。病院から歩いて2分の千草さんが来る。ロザリオ3本、一緒に声をあげて祈る。皆さんに感謝。
★これが病院食です。腎臓食とかで、ご飯が、ちょっと、やわらかめ。最初は慣れなかった。牛肉と、サラダと、これだけで生きていけるのか、なあ。

2012年6月5日火曜日

入院4日目。出タ-ッ。ご聖体に養われて育ってきた

今朝7時、チリン、チリンと鈴の音。カンテラさげて、主のご聖体が来られる。拝領して、深々とアタマをさげ、合掌する。「主よ、我に力を与え給え」。
昨夜の拝領から今朝まで、一昼夜3.2リットルの綺麗な尿が出た。余分の水分が体から完全にぬけた気分。心も軽くなった。
腎臓は、まだまだ、黄色く透き通った、完全に綺麗な尿を作る能力を持っている。明るい希望の朝となった。★ご聖体を胸に、神父さん。私よりも歳上だよ。それでゲンキだから、私もゲンキ出そう、その気になるよ。

2012年6月4日月曜日

入院3日目。尿管の、ここが詰まっています。タイヘンだ

お医者さんが言いました。「2・3日、様子を見ましょう。あとの事は考えましょう」。退院は間近です。病気に耐える力がある。分かりました。
★お医者さんが描いて説明してくれた図です。腎臓の赤い部分は、若い頃、結核を病んだ場所で、石灰化しているそうです。腎臓に、やわらかい、結石がある。尿管の、赤い、矢じるし、ここが詰まっている。CTで、分かるそうです。

2012年6月3日日曜日

入院2日目

尿が出ない。入院して腎臓にバイパスの処置。18時間ぶりに尿が出た。あぁ希望が見えた喜び。今夜はゆっくり休みます。
★夜になって日経新聞を届けてくれた人がいた。すっかり忘れていた。記事を読んで、あぁ良く書けてるなと喜んだ。「北朝鮮から結核治療のために、小崎さんは母と長崎に帰郷。母は修道院内のルルドに何度も足を運び、小崎さんの治癒を聖母に祈った」日経新聞の記事。

2012年6月2日土曜日

また尿が出ない。普通に出るなら問題はないのに

今朝から、尿が全く出ない。もう疲れたよ。9時頃、病院へ電話をすると、「12時間は様子を見て、問題があれば、また電話をしてください」。ガマンしかない。さあ、日中に出るようになるか。
思い返せば、最初は血尿で、ボウコウ・ガンといわれた。3回、削り、BCGを8回入れて、4ヶ月で、ガンは消えた。あれから4年目に入る。ボウコウは収まった。今年になって、腎臓で苦しむ。結石が尿管を詰まらせ、尿が出ない。3度、入院した。普通の尿が出てくれれば普通に生活が出来るのに、1回、1回の尿に苦悶している。
昼になっても尿は出ない。午後3時に、泌尿器科へ電話をして助けを求めた。さあ、どうなるか、暗雲が立ち込めている。これまでご支援してくださった皆さん、お祈りをお願いします。
夕方、入院しました。苦しみをイエズス・マリアに奉げます。★2人部屋です。やっと落ち着いて、ホットしている姿です。「今年は、タツ年で、私の年で、ゲンキになると、期待していたのに、なあ」。ガックリだよ。

2012年6月1日金曜日

木曜日、金曜日の出来事。腎臓と尿のフワフワで悩む

《昨日(木曜日)の出来事です》
午前、高原修道士の介護で入浴する。午後になって、急に、尿が、また出ない。午後は悶々と過ごす。夕方になって、病院へ電話。「来てみてください」。タクシーで揺られる。料金が700円のところで、揺さぶった効果か、ボウコウにドカッと尿が溜まった。「これは、うまく、いったぞ」。途中、「運転手さん、あの床屋で止めてください」。行きつけの理髪店のトイレに駆け込んだ。客は居なかった。「ごめん、トイレ貸して」。床屋のトイレに、ボト、ボトと出た。シャレにならない。病院まで、タクシー料金は、2400円。看護師さんに、「出ました」と言えば、ニコっと。お医者さん、夕方だから診療外。待っていてくれた。超音波で調べる。「腎臓に、腫れは、ありません。帰って、様子を見ましょう」。夕食時に帰る。自室で、熱を計る。7度3分、微熱あり。夜中じゅう、微熱あり。尿の色が、ビール色。スッキリしない。朝まで微熱が残る。どこかに、炎症あるか、さあ、どうする?
《今日(金曜日)の出来事です》
普通に何事もなく生活しているのに、急に、ボットっと落とされる感じです。尿が普通に出れば何も問題はない。熱が7度4分。下がらない。尿がビール色。明日から土、日、になると病院は休診になる。正午まえに泌尿器科へ。採尿する。普通は紙コップだが、フタのついた硬いケース。尿の中に、米粒大のやわらかい、フワフワものと、小粒の黒い石が出ていた。このフワフワが尿管に詰まるらしい。超音波で腎臓の検査。「腫れていないから、様子を見よう」と、クスリを処方された。午後1時に帰る。午後は休んでいた。熱が8度まで上がる。ロキソニンを1ツブ飲む。夜中に、アセが出て、6度に下がった。