2017年10月31日火曜日

ロザリオの月、終わる。ホームでは祈りは続ける

ロザリオの聖母マリアの聖絵です。御子イエスの御手から、また聖母マリアの御手から、ロザリオが与えられています。左は聖ドミニコ。ロザリオを広めた聖人。右は聖女シエナ・カタリナ。13世紀頃から、ロザリオは唱え始まった。成聖と改心のために、「ロザリオを唱えてください」「祈ってください」。これがルルドでも、ファチマでも聖母ご出現のお願いでした。
★ホームでは、毎日、午後に、20人ほどの皆さんが集って、ロザリオを唱えています。山内園長神父さまが率先して、ロザリオを唱えています。瀧神父さまも参加します。今朝の園長神父さまのミサの初めに、「ロザリオの月でした。今日で終わりですが、頂いたお恵みを感謝しながら、祈りましょう」とお勧めがありました。ロザリオを唱えると、心が安らぎます。
★長い歴史を持つているマリア信心です。隠れキリシタンたちも、木を輪切りにして、芯を繰り抜いて、穴をあけて、縄でつないでロザリオを作って、祈っていました。ロザリオは思いがけないお恵みを人生に与えます。
★瀧神父さまのお姉さんが、鹿児島で、100歳で神に召されました。お祈りください。
★ヨハネ村山修道士さんが、入院しました。お祈りください。

2017年10月30日月曜日

愛は、いつまでも枯れることはない。喜びのご縁

この世で一番大切なのは「愛」と「いのち」です。愛と、いのちは、神さまから出ているからです。
★久しぶりに、ロザリオ祭に参加して、聖コルベ館に入り、「聖コルベの居室」を見ました。聖コルベは五年間、この素朴な部屋で生活しました。右側に、ベッドがありました。ベッドは残っていませんが、ワラを敷いて、眠りました。部屋の係だったセルギウス修道士は、毎朝、ベッドのワラをほぐして、軟らかくしました。するとコルベ神父は「私が犠牲をするのを妨げないで下さい。ワラはそのままにして下さい」と願ったそうです。肺病を病み、この部屋で、永井医師から診察を受けました。長崎に上陸した後、大浦で一年間仮の修道院を設け、日本の宣教は六年でした。その後、アウシュヴィッツでの身代わりの愛の殉教が待っていました。「コルベ神父の愛は、いつまでも枯れることはない」
★コルベ神父が聖人になった年、1982年に生まれ、「マリア・コルベ」の洗礼名を受けた女の子が、母親となり、ご主人、俊雄さん(アシジのフランシスコ)と五人の子どもさん達が、ロザリオ祭に来て、私と出会いました。私は彼らをコルベ神父の資料館に連れて行った。聖コルベの身代わりの場面のビデオも見せました。
★帰りの車の都合もあり、彼ら家族と早めに別れましたが、今日、電話でお母さんに「その後、どうでした?」と聞いた。ビデオの後で、長男・小6の子は、洗礼名がコルベだから、興味を持ち、色々と質問をしたそうです。「どこの国か」「なんで、そうなったのか」「なぜ毒殺されたのか」。ミサの後で、皆さんに、お土産のご像と聖母のカレンダー、小さなペットポトルに入った「ルルドの水」をもらいました。小6の男の子は、それを飲んでしまって、家族でルルドへ上り、小さなポトルに水を入れた。ご主人は、自分の霊名から、コルベ神父と「つながり」があると喜んでいた。この後、原爆資料館を見て、町を走る電車を楽しみました。夜遅く、下関に帰ったそうです。
★長い人生で、この家族との出会いは、私にとって記憶すべき出来事となった。今日もその余韻は残っている。電話で、喜んでいるお母さんの声が聞けた。

2017年10月29日日曜日

長崎・聖母の騎士ロザリオ祭。5人子供の家族に会う

日曜日。朝、台風の影響で、風が荒れ吹き、雨も激しく降る。聖母の騎士のロザリオ祭なのだ。天候が心配された。「ナンとしてでも出かけねば」。今日は、現地で、下関の夫妻と5人の子供たちに会う約束もしている。
★心配を乗せて、雨のなか、修道院の浜田神父さまの車で、瀧神父さまと入江さんと私、4人でホームを出発した。休みの日なので、道路は空いている。長崎市に近づくと、幸いにも雨も風もやみ、空の雲も大きく上がりだした。1時間ほどで、聖コルベ館に着く。
★車から降りて、坂道を横切ろうとすると、下関の家族が道の上から姿を現し、ピッタリと見事に出会ったのには、おどろいた。お母さんを除いて、ご主人と5人の子供たちとは初めての出会いだった。
★先ずは、教会へ。ロザリオ祭のミサで祈った。大勢の信徒が参加していた。もう、すっかり天候は回復して、教会の中には、陽も細い窓から入り込んでいた。ファチマの聖母像が安置され、飾られている。ファチマの聖母出現から、100周年を迎える。お説教でも、その説明があった。それに「けがれなき聖母の騎士(信心)会」がコルベ神学生(当時)によって創立されて、100周年を迎える。その事もお話に出た。ミサ歌は、ラテン語で聖歌が歌われ、荘厳さを感じた。
★ミサが終わって、下関の家族を聖コルベ館に案内した。既に日記(ブログ)にも書いたが、この家族とのご縁は出会いの粋たる出来事であろう。お母さんの尚子(ひろこ)さんが生まれ、洗礼を受けたのがコルベ神父がローマで聖人に挙げられた日だった。騎士誌では、記事のため、その年に生まれた幼児で、聖コルベの洗礼名をつけた子どもを募集した。尚子さんの1歳の写真も送ってきた。騎士誌に載せると共に、写真と手紙をアルバムに残した。尚子さんが中学生になったとき、下関の3つの教会が、中・高生の長崎巡礼を行なった。聖コルベ館にも来たが、尚子さんは、小崎修道士からアルバムを見せられ、写真に撮った。そのとき、小崎修道士から「愛の花びらは、いつまでも枯れない」の言葉を贈られる。中学生は、この言葉が気に入り、大きくなって結婚して女の子が生まれたら、名前に、この言葉をつけよう、と考えた。
★その家族が、この人たちなのです。お父さんに、「今朝は、何時に出発しました?」「6時半です」。3時間半かかって着いている。子ども達が可愛い。お母さんの願い通り、女の子3人は、愛花(あいか・小4・マザーテレサ)、結花(ゆいか・小1・マリア)、聖花(せいか・年中組・ベルナデッタ)、男の子たちは、祖父の名前を分けて、照悟(しょうご・小6・コルベ)、雄悟(ゆうご・小3・ヨセフ)とした。こういう家族、こういう名前のつける家族が、私の人生にとっては始めての出来事です。家族に会えて、お母さんのアルバムや騎士誌の記事を見せて、本当に嬉しい日となりました。お母さんの歴史がある。小6の照悟君の修学旅行は、長崎だった。家族は、これから長崎見物に行きますと言って、別れを惜しんだ。
★下関の名物「刀の形をしたマンジュウ・小次郎」も2箱いただき、祖母の「のりこ」さんから、ピンクの封筒をいただきました。ありがとう。5人の子たちよ、健やかに、心優しく、育って欲しい、そう願って、ホームへ帰った。いま、窓から空を見ると、青空だよ。

2017年10月28日土曜日

1つの言葉、よい言葉は、イノチにチカラを与える

絵手紙教室で描いた「枯れた葉っぱ」です。役目を終えても、人生、うつくしい。そんな気持ちで生きたいと思う。
★「出会い、喜び」。人との出会いも大切だが、1つの言葉に出会う。これも魂を揺るがせ、自分の背骨をまっすぐにする。1つの言葉、よい言葉は、イノチにチカラを与えます。
★最近は、そういう言葉が自分の奥底から湧いてこない。残念なことです。例えば、「トマさんのことば」のように。
★女子高校生に語り部を勤める。記念に、カードを贈りたいと考えた。いつもカード作りをしてくださるのは大分県の恵理子さんです。何が好いか。言葉選びに、悩んだ。「今は辛いけど、道の向こうに、幸せがある」「生きているからには、いい思い出を沢山つくろう。それが幸せ」「人間、なんとか、いきていかなきゃ、ならない。孤独であっても、苦しみ、あっても」「ほんとうの、愛に出会えば、苦しみ、痛みは、のり越えられる」「他人と比べるな。自分らしく、生きよ。それで足れ」「どんな逆境でも、希望と、勇気で、今を生きる」「小さな歩みだが、大きな力が、守り導いてくださる」「コルベ神父、身代わりの愛、お礼を、求めない、こころ」「愛の花びらは、いつまでも枯れない」(登明修道士)
★明日は、長崎・聖母の騎士の「ロザリオ祭」です。日記も遅くなるでしょう。

2017年10月27日金曜日

長崎へ。クリニック診察。平和学習の願いも来た

月1度のクリニックへ行く日。ホームの朝食は食べない。時間が遅い。修道院にお願いして、パン1枚・チーズ付き、牛乳コップ1杯。熟した柿を頂く。8時に、修道院の車で、高原修道士の運転で、ホームを出る。長崎には、9時10分に「坂本町」のバス停に降りた。高原修道士は聖母の騎士へルルドの水を汲みに去った。写真では、バス停の直ぐ先の青色の扉がクリニックです。
★幸い、待合室には、2,3人の患者さんしかいない。ホッと安心する。先ず看護師さんから呼ばれて、体温、血圧、「調子はどうですか」と聞かれる。もう1度、待合室に戻って、しばらくして先生の声で呼ばれる。「田川ブラザー」と大きな声だ。私は、よろよろと立ち上がる。神父さんや、シスターの姿も、ちょい、ちょい見る。診察室に入るときは、必ず「お世話になっています」と大声を出す。このところ、調子は好い。20年来、通院している。「心電図の検査をしましょう」「ブラザー、大丈夫、100まで生きるよ」。いつも、そう言われる。ホームに帰ったのは、11時過ぎだった。こんなに早く戻る診察日は、めったにない。
★神奈川県のカトリック女子高校から、便りが届いた。「今年も『平和と巡礼』をテーマに郊外学習を実施します。11月8日(水)、聖コルベ記念館を訪問し、祈りと聖歌を捧げたいと思っております。例年のように小崎登明修道士さまのお話しを伺う機会を頂きたく宜しくお願いします」。生徒数185名。聖歌は「愛」「ハレルヤ」。例年の通りです。昨年もお話をした。もう26年になる。しかも生徒さんたちは、自著「十七歳の夏」を全員購入して、夏休みに読んで、感想文も書いている。その一部も別便で送ってきた。お話しするのを、私も楽しみにしている学校です。「一番大事なのは、愛とイノチだよ」。そう語りたい。「愛の花びらは、いつまでも枯れない」

2017年10月26日木曜日

原爆当時を思い出す女性が、突然、訪ねて来た

浦上・カトリック信徒の永井隆(医師)先生と、田川初治(小学校教諭)先生です。2人は原爆の生き残りの浦上の若者たち、7,8人を、終戦になると直ぐに、聖母の騎士修道院に篭もって、ポーランド人宣教師ミロハナ神父の指導を受けて、懺悔(ざんげ)の日々を行なった。そこから彼らは再出発を果たしている。7、8人のうち、2人だけ(永井先生と田川先生)がその後も聖母の騎士に残って、浦上は焼け野原だから、夜はここに宿泊し、昼間は浦上で仕事をされていた。その時、私は聖母の騎士に入ったので、その辺の事情はよく覚えている。
★夜になると、神学校の自習室に、永井医師と田川先生は度々来られて、持ち前の童話と体験談を語って、神学生たちの腹がよじれるほど笑わせた。田川先生は童話を、永井先生は中国での体験を聞かせた。話術の素晴らしさを学んだのは、その時だったと思う。テレビがない時代である。話術が人の心を如何に魅了し、惹きつけるかを知った。
★終戦の翌年の春、神学校が「中学」として復校すると、永井先生は理科を、田川先生は事務を勤めた。私は2人の先生にお世話になった。生涯で忘れない教師である。6年後、永井博士は原爆病で亡くなる。田川先生は大阪の学校に転勤なさって、晩年は病に苦しまれたが、長生きされた。
★戦後、「日本26聖人」(無声映画)の弁士を勤められ、私などは感動で涙を流した。その後、フイルムが行方不明となる。十数年を経過して、フイルムが発見され、今度は私が二代目弁士を勤めた。大阪で田川先生にお会いして、教会で、先生をお招きして、弁士を行なったこともある。先生は涙を流してくださった。
★その田川初治先生の娘さんが、突然、ホームに訪ねて来られたのです。昨日のことでした。写真の右側が娘さんの登美子さんで、左は同級生の壽子さんです。田川先生のご家族のことを聞かされました。先生は妻のミヨ子さんの間に、男3人、女3人の子供さんが居られる。原爆が落ちたとき、先生は郊外の学校に勤めていたので無傷で助かった。奥さんと子供4人が家もろとも犠牲となる。登美子さんは県外に居て、助かった。弟は山里小学校の防空壕の奥にいて助かった。しかし今は病を得ているという。
★突然の訪問に、田川先生の思い出話は尽きず、懐かしい思いに喜び合った昨日でした。人間の生命は、どういう「きっかけ」で生死を分けるか、解らない。生きている、いや、生かされて来たのは、本当に、どうしてなのか、これも解らない。

2017年10月25日水曜日

小学生たちがホームの慰問に来た。子供たちと遊ぶ


変った雰囲気の声が、食堂に響き渡った。小学生たちが交流に来たのです。ホームの坂を下ると、直ぐの所に湯江小学校がある。運動場からの子供たちの声もホームに届くほどです。毎年、この月になると、小学4年生たちが、ホームにやって来ます。子どもと老人。お互いが心を交わします。ホームに、これだけの子供たちが来ることは、殆んどない。年に1度だけ、湯江小学校だけでしょう。老人たちは、この日を楽しみにしている。子どもたちは2クラス、およそ50人、各班に分かれて、食卓ごとに思い思いのゲームを展開する。私たちのテーブルでは、魚釣りと、福笑いが行なわれた。魚の裏にクリップを数個つけて、釣竿には小さな磁石がある。今の子は、よく考える。福笑いがオモシロかった。目隠しをして、髪や目、鼻、口、眉毛をつけるゲームだが、ある老人の女性は、「髪をつけて下さい」と子どもから言われると、髪(紙)を自分の髪につけて、大笑いをしました。各テーブルで、子どもたちが考えてきた遊びで盛り上った。子どもと、老人が溶け込んで、約1時間の時が過ぎた。子供たちは、私が湯江小で、原爆の語り部を勤めたことを思い出してくれた。別れは、しっかり皆さんと手を触れ合って、イジメのない、楽しい学校生活をつづけて欲しいと願った。子どもたちが帰ると、ひっそりとなり、嵐が去った気持ちになって、淋しい。

2017年10月24日火曜日

ホームに入った日。マル3年が過ぎた。新しい人生

コスモスが一杯に咲く日の夕方ででした。長崎市から高来町の老人ホーム聖フランシスコ園に入居した。2014年10月24日。今日で、マル3年が経過する。これから4年目に入ります。写真は、入居した翌日の、ボクの顔です。今、見て、割りと穏やかな顔つきをしているのに、「ああ、やるジャン、トマは」と思いました。その実、心境は、複雑だったのです。
★ホームには、高原修道士の運転で、荷物を小型バスに積んで、ホームの皆さんの夕食直前に着きました。「挨拶から、始めよう。お世話になります」。最初の食事は何を食べたか、覚えていない。食事が終わったのが、5時30分頃でした。食堂を後にする皆さんが、平然と「おやすみなさい」「おやすみなさい」と言葉を交わしたのには、おどろきました。まだ5時半だよ。「お休みなさい、って」。後は自室に戻って、寝るばかり。「これが、ホームだな」が最初の実感でした。
★当時の心境を語れば、「そりゃ複雑でした。よくぞ、ここまで来たと、気持ちも自分でない気がしていた。とにかく声が出ないのです。体力が落ちたのも、本当でした。さあ、これから、どう生きるか」。大きな人生の難題が眼前に迫って来ていた。
★あれから3年、振り返ると、最初は本当に時間に押しつぶされる。何も果たす仕事がなく、生きる意欲もない。どのように1日の時間を消化していいか、解らない。苦慮しました。また修道会の雰囲気から急に孤独に落ちて、「自分はこの道で好かったのか」の迷いも生じました。面会に来る人に会うのも気が引けた。今は乗り越え、開放的になり、日常生活に慣れてきている。
★3年経って見れば、ホームに居ても、色々あった。新聞に載ったり、テレビに出たり、誓願金祝のお祝いがあったり、思わぬ出会いがあって、小さな本「トマさんのことば」が出版されたり、日記(ブログ)を毎日書いているが、常に読んで、支えてくださる人が居る。思いがけない訪問者がフランスやオーストラリアからも来る。入院もした。沖縄マンゴや、鳥取ナシ、広島の桃やブドウの贈り物が届いたり、実を言えば、聖コルベ館と同様に、3年間は充実した日々を送った気がします。祈りも出来るし、神さまに感謝です。
★4年目に入りますが、90歳を迎えます。先日、山の修道女院へ出かけた際に、農家に、コスモスの花々を見つけました。入居した時のコスモスを思い出して、懐かしくコスモスを愛でました。「人に尽くすことが、無くなったトマですが、支えてください、お願いします」

2017年10月23日月曜日

絵手紙教室。楽しみ。ドングリ、枯葉を描きました

朝食が終わって、自室で、テレビを見て、ホッと、ひと息つきていると、9時に、ラジオ体操が廊下に鳴り響く。ラジオ体操は、必ず実行しています。椿原の学校でも、よく体操をしたものですよ。カラダを動かした後、直ぐ大風呂へ行く。入江さんは居ない。キリエさんが入っていた。暗黙のうちに、キリエさんは私の背中を流してくれる。広い風呂で気持ちが、いい。熱めの入浴が好きです。
★自室に戻って、ゆっくりする間もなく、絵手紙教室が始まっている。10時からです。15分遅れました。でも生活の入浴を優先している。写真は絵手紙の先生です。7、8人が描いている。11月に、町の文化祭がある。「文化祭に、絵手紙を、初めてですけど、出展しましょうね。額に入れて飾ります。そうしましょうね」と言われる。絵手紙も沢山たまっている。その中から選ぶそうです。文化祭は楽しみになります。書道もあるし、絵手紙も飾られる。町の文化祭だから、小規模な展示ですが、これは、これで、満足です。絵手紙の先生には、私は長崎で、「長崎南画」を先生に付いて、5年間習った経験は話していません。絵に上手、ヘタは、ない。その人となりが現われていれば、それでいい。ホームの小さな絵手紙の集いでも、教えられることが、よくあります。

2017年10月22日日曜日

「はな」ちゃん、元気に育っている。ドレスすてき

「はな」ちゃん、本名だよ。ドレス姿でホームに来た。元気に育っています。「かわいいわね」「はなちゃん、こっち、むいて」と介護職員や、お年寄りから、声がかかる。「はな」とは、いい名前。呼びやすい。皆さんから可愛がられている。
★お母さんの絵里さんはホームで介護職員を勤めている。北海道の函館で生まれ育って、18歳で長崎へ、以来、聖フランシスコ園で働いている。年期が入った介護のベテランでもある。
★ホームの隣の湯江教会で、ホームの皆さんに祝福されて結婚式を挙げた。去年の3月2日に、はなちゃんが生まれた。だから「はな」ちゃんは、1歳と8ヶ月になるかな。すてきなドレスだよね。身内に結婚式があったそうで、その帰りにホームに寄ったのです。
★はなちゃんについては、これまでにも度々日記でも紹介した。育って行くのを見守りたいと思います。お母さんの絵里さんに聞いた。「ことば、おぼえている?」「ハイ、おかあさん、せんせい、パパ、ママ、ジジ、家族を覚えた。鼻(ハナ)を手でつまんで、『クサイ、クサイ』」。はなちゃんが、ハナをつまんで、「くさい、くさい」オモシロいね。
★はなちゃんは保育所に通っている。「1歳児が、13人いる」「その保育所、全員で、何人、居るの?」「80人」「多いんだね」。送りは、車で、パパとママが交代で、帰りの迎えは、ママが。人形を置いて、飛んで走ってくる」
★「はな」ちゃんについては、今年は、1月10日、3月2日、3月6日、3月21日に載せている。茨城の「まゆみ」さん(特養で介護職として働いている)から、むかしのオモチャの「でんぐり」を贈って来た。「でんぐり」を持った「はな」ちゃんの写真が21日に載っている。あの時の写真を見ると、やっぱり成長したよ。

2017年10月21日土曜日

長崎チャンポン、おお受けの昼食。カラダ、ポカポカ

まだ10月の末というのに、急に寒くなりました。今年は、各地でも何十年ぶりの初雪とか、寒波とか、報道でも伝えられています。今日のお昼の食事は、「長崎チャンポン鍋」でした。カラダが温まって、よか食事です。長崎人にとって、チャンポンは慣れっこになっていますからね。皆さんは喜んで食べました。
★ホームに居ても、様々な出来事がある。昨日は、火事の避難訓練があった。突然、ベルが鳴り出して、「火事です。機能訓練室が火元です。逃げてください」。老人ホームでの火災は恐ろしいですからね。日頃の訓練は必要です。エレベターは使えない。足の痛みに耐えて、階段を下る。庭に集合して、点呼がある。皆さんは真剣に応じました。これが夜間に起こったら大変でしょう。火事は恐ろしい。
★今日は午前中に、「懇談会」といって、職員の担当者から、来月11月の予定が説明された。意見も述べることが出来ます。次いで看護師さんから、インフルエンザの予防注射の話があり、栄養師さんからは、温まる「鍋」の話が出た。月に2度は、鍋をしたい。それが今日、最初のチャンポン鍋でした。写真は、チャンポンを食べて満足の瀧神父さまと、その隣が栄養師の林田さんです。ここのホームの栄養に富んだ献立を作って、30年お勤めのベテランです。細やかに各人に合った食事の献立をお世話してくださいます。
★午後からは、「ショッピング」といって、バスが出て、決まったお店2箇所で、個人の買い物をします。私も買い物に出かけます。ホームに居て、楽しみの1つです。

2017年10月20日金曜日

修道会の集会と、NHKテレビにも出た昨日の夜



長崎県五島の三井楽教会に、信徒がお祝いの時に踊る「岳踊り」がある。
昨日、夕方、NHKテレビで紹介された。
★昨日は午後から、もう1つの修道会の集まりがあった。テレビの時間帯に見れないので、録画をかけておいた。長崎4地区の司祭、修道士たちが15人集った。やはり一緒に声をあげて祈り、最後に「サルべ・レジナ(聖母賛美)」を歌う。心が高揚するのを覚えた。4つの修道院の報告があり、会食となる。丁度、その時間がテレビの放送が行なわれていた。ホームに帰ったのは、夜の7時半だった。夜勤の男子職員が「NHKの山本ディレクターから電話があった」と告げられる。自室に戻って、早速、録画しておいた「シリーズ・ロザリオの記憶」を見た。キリシタン文化を訪ねて、知られざる歴史や信者の思いを解き明かしていく。この度は「キリシタンの踊り」に注目した。2つの地域で踊りがある。
★その1つ、三井楽教会に、「岳踊り」がある。踊りの文句は祈りに似ている。その由来を知る者はいなかった。唯一、知っていたのが信徒の長老、道向好之助さんだった。しかし25年前に他界された。道向さんから直接、由来を聞いた人が、諫早市聖フランシスコ園に居る。修道士・小崎登明さん、89歳と紹介される。
★テレビには、ホームの全景と、山本ディレクターが玄関に入り、その場に待っていた小崎修道士が写っていた。インタヴィユーが始まる。「ここでは36人衆が刀とムチの責め苦を受けた。その刀の責め苦、ムチの責め苦を払いのけるために始まったのが、この踊りです」。さすがにテレビ班は、牢屋跡や、36人の名前、歳を書いた看板を写していた。
★山本ディレクターが「しかし小崎さんは、踊りを見て、もう1つの思いに気がつきました。踊り手が手にしていた紅白の棒です」。小崎修道士は言う。「信仰が自由になった喜びと、その人(迫害をした人)たちを憎むとか、そんなことじゃなくて、自由になった喜びの踊り、そういうことを感じました」
★もう1つの踊りは、佐世保から車で10分ほど、褥崎(しとね・ざき)教会の信徒に、「あやたけ踊り」としてお祝いの時に踊っている。
★以上、6分間ほどの番組だったが、私は「つながり」の役目を果たした、と満足した。それにしても、今から45年ほど前に、私が三井楽教会へ取材に行って、実際に「岳踊り」を見て、道向好之助さん(当時59歳)に話を聞いて、踊りの写真を撮って、記事に書いたのが、よくぞNHKの山本ディレクターの目に留まったものだと感心した。いつ、誰が、どこで、書いた記事を見ているか、読んでいるか、わからないものだと思った。
★写真は、上・左から、①キリシタン踊りの場所(長崎県)。②上の右、岳踊り。③上の右、聖フランシスコ園。④上の左、小崎修道士。⑤下の左、語る小崎修道士。⑥佐世保の北の町、鹿町町の教会で踊る「あやたけ踊り」。この踊りは、「花の五島を後にして、さして来たのが褥崎、来てみりゃ寂しい旅の空、ふるさと恋しや、なつましや」と踊る。

2017年10月19日木曜日

イノチの看護師。シスターアグネス永松の50回忌

今日は、イノチの恩人であるシスターアグネス永松ミツエの命日です。40歳の若さで神に召された。今年で50年忌を迎えます。
★写真は、シスター永松の葬儀です。私が写しました。白い十字架の右となりに、遺影をもったお父さんの姿が見える。家族はカトリックでなかったから、父親だけが東京から参加した。当時は土葬でした。写真を見ると、まだ修道女院のシスターの姿は余り目立たず、ベール姿が半分を示している。お棺のそばに、1ピキのイヌ。不思議なイヌの行動に、亡くなったシスターの引きつける愛を感じました。
★私が22歳から25歳の頃、腎臓結核、背骨カリエスを病んで、山の修道院では、死ぬ間際に追い込まれていた。背中から、ドバっと、膿(うみ)が流れ出る。40度近い高熱、血尿などで苦しみ、危険な病状におちいった。それを救ってくれたのが、看護師のシスター永松だった。戦後間もなくの時期で、結核の新薬が手に入らない。シスターがアメリカ軍の従軍司祭から求めてきて、私に投与してくれた。その新薬がてき面に効果があり、お陰でイノチが助かった。まさに、生涯イノチの恩人であり、忘れることは出来ないシスターです。
★シスターは東京出身だったので、33回忌のとき、私は率先して、カトリックでないご家族を訪ねて、「東京の教会で、供養をしますから、ご家族・親戚ご一同の出席をお願いします」と頼んだ。ご家族は協力してくださり、ミサを捧げ、会食を行なって、シスターのため祈ったことがあります。
★それから5年ほど経った日、(シスターは長女)で、4女の妹さんが、初めて山の修道女院のシスターのお墓参りに来られた。そのとき、私は長崎市のホテルまで案内した。車の中で、自分が病気から救われた話をして、またシスターは障碍者の施設で、婦長として懸命に愛と奉仕を尽くされた奉献生活を語った。看護と世話に没頭していたシスターだったが、無理が祟ってか、持病の心臓病が高じて、大学病院で手術をした。経過は順調で、退院も間近かと思われたのに、病気が急変する。危篤状態となった。看護師として死を直感したのだろう。「わたしの、服装を、揃えて、ください」「マリアさまを、ください」。それが最後の言葉で、安らかに帰天した。シスターが残した思い出は消えることがない。
★私は、妹さんに別れるとき言った。「33回忌はしましたけど、最後の回忌は50回忌だそうですね。でも50回忌となると、私は89歳ですよ。それまで生きていませんね」。あの妹さんはお元気だろうか。私は、89歳になってしまいましたよ。それでも、ミサをお願いして、シスターのため祈りました。
★今日は、夕方、NHKテレビ「イブニング長崎」の特集で、私も、ちょっぴり出るらしい。しかし午後から、修道会の長崎4地区の集りが諫早で行なわれます。帰りは、8時頃でしょう。

2017年10月18日水曜日

ホスピス病棟で別れた従兄の死から5年。祈った日

ホームの隣の湯江教会の祭壇の生け花です。
★今日は、従兄の光一の命日でした。2012年の今日、神に召された。ミサで祈りを捧げた。
★彼は、私の数少ない従兄だった。少年の頃からの私を知っている光一でもある。もう60年も前になるが、この従兄に憧れを持っていた。彼の自慢話だが、「戦時中は、航空兵で、当時は、プロペラ機を運転していたが、故障をして、山林に激突した。それでも助かった」と淡々として聞かせる従兄だった。7歳違いだったが、学生の私には、まばゆく見えた。その後、殆ど会っていない。
★福岡から電話があって、彼が入院していて、もう臨終だと言う。急いで列車に乗って、ホスピス病棟へ駆けつけた。彼はベッドに横になっていた。目を閉じている。名前を告げると、目を見開いて、うなずいた。もう何も語らない。私は、60年前の飛行機の話をした。すると従兄に温かい表情が現われた。確かに伝わった感触を覚えた。私は「兄さんは、どこで生まれたの?」と、彼のルーツを尋ねた。すると「たい・きゅう」と、はっきりした声で小さく答えた。「たい・きゅう」とは韓国の都市の名前だった。(当時は朝鮮と呼ばれた)。声をかければ、うなずいてくれる。むかしの、つながりが、戻るのを感じた。2時間ほど病院に居て、長崎へ帰った。その夜、ヨゼフ光一は神に召された。
★彼の葬儀に参加して、祈り、別れを告げた。棺の上には、長い剣が置かれていた。戦後は航空自衛隊に勤めて、二佐にまで昇進した。そのための軍刀だった。大勢の子た孫に囲まれて、見送った。
★私と、従兄光一は、戦争直後の混乱のときの思い出につながっている。少年の頃の思いを持つ者との別れは、辛かった。ヨゼフ光一の名は、忘れない。

2017年10月17日火曜日

むかしの先輩・後輩の「つながり」。ありがたい

雨の日がつづいている。気温が下がり、肌寒い。老人は寒さに弱い。そうかと思うと、まだ半そでを着ている女性もいる。「おら、2枚以上、着たことは、なかとよ」と平気なのには、うらやましい。もちろん若い職員たちは、半そでだ。
★突然、午後から携帯がなった。天草の幸男さんの声。「こんな天気の雨降りに、どう、しよっとね」「いや、いまホームに向かっている。もう間もなく着くからな」
★玄関で待っていた。車が現われて、雨の中、幸男さん夫妻が着いた。慌しく、「フェリーに遅れるから、もう、ここで別れる」と言って、両手に抱えるほど沢山の「おみやげ」を渡してくれた。天草みかん、幾つものジュースの束、お菓子など、持ちきれない程いただいた。写真を1枚撮る時間しかなかった。
★天草の幸男さん夫妻には、ホームに入る前、島原半島のオバマ温泉・富士屋さんに療養に行っていたとき、フェリーで天草に渡り、よくお世話になった。そうした「つながり」を今も思い出しては来てくれる。ありがたいと感謝した。いただいた「おみやげ」は多過ぎるので、職員さんのために配った。
★幸男さんは、終戦当時の聖母の騎士神学校の先輩だった。お互い歳を重ねて、思い出すのは若い頃の先輩、後輩の「つながり」の有り難さであろう。
★いま、ホームのスピーカーで、名前を呼ばれて「電話です」。NHKの取材に来たディレクターからで、「19日の夕方、6時過ぎからの長崎地方版の特集で、放送します」「恥ずかしくないよう写っていますか?教会に迷惑になりませんか」「大丈夫ですよ」。五島の教会・信徒の「竹踊り」のインタビュウーだった。あの時、語りながら、鼻水が流れていたのが気になるな。

2017年10月16日月曜日

今日、けがれなき聖母の騎士会創設100周年記念

今朝は、ミサが終わって、ホームの信徒たちが解散したあと、修道者(5人=司祭3人、修道士2人)のみが残り、「けがれなき聖母の騎士会創設100周年」の記念の祈りと黙想を捧げました。
★ローマのコンベンツアル聖フランシスコ修道会の大神学校で、1917年10月16日の夕方、つまり10月17日の聖女マルガリタ・マリア・アラコクの祝日の前夜祭に、マキシミリアン・コルベ神学生(当時)は一室に司祭1人と神学生の同士合わせて7人を集め、彼が1人で練り上げたプログラムを書いた小さな紙片を朗読して、全員が署名した。これが「騎士会」の起こりであり、その内容は現在の「聖母の騎士会証書」と同じものです。
★騎士会が出来て、今日で100周年を迎えました。コルベ神父の事業の始まりです。騎士会の目的は、人々の改心と成聖のため、けがれなき聖母のご保護と仲介の下で努力する。条件は、①けがれなき聖母に御手の道具として自己を全く奉献する。②騎士会の事務局の会員名簿に名前を記入する。③不思議のメダイを身につける。目的達成の方法は、不思議のメダイの配布に努める。身分職業に応じて、目的達成のため祈り協力する。
★ここから、コルベ神父によって、ポーランドに、ニエポカラヌフ修道院が創立され、日本には長崎に聖母の騎士修道院が創立された。すべては、ここから、100年前の今日からけがれなき聖母への霊性と事業は起こったのです。その中には、コルベ神父の殉教、列福、列聖などの出来事がありました。
★長崎の聖母の騎士会の会員名簿には、「永井隆博士」や「北原怜子(さとこ)」の名前もある。右の会員証書は、恐らく残存する中では一番古い証書であろう。昭和25年11月の入会で、霊名は「ルチア」とある。彼女は、後日、シスターとなり、騎士会のため福祉の事業に働いて、数年前に、神に召された。
★韓国、ポーランド、イタリアなど、全世界に、400万人の騎士会の会員がいる。要は、不思議なメダイを身につけて、けがれなき聖母マリアさまに結ばれて、神イエスへ向かうカトリック信者の会なのです。

2017年10月15日日曜日

ネコちゃんを見る人は多かった。ネコには負けるよ

2日前に、ホームに職員が連れて来たネコ、「みかん」ちゃんを載せた日は、見てくれた人の数が、202人で、おどろきました。ネコちゃんや、赤ちゃんには負けるな、と思いましたよ。動物や、幼児には、皆さんは興味をもって、見てくださるようです。
★あのとき、「みかん」ちゃん(写真)のほかに、もう1ピキ、連れてきていた。「バナナ」君というそうです。奥の方で遊んでいたらしく、写真に撮らなかったのが残念でした。
★それに、その日だったか、女性の職員さんが今度は「はな」ちゃんを連れてきていた。「はな」ちゃんは保育所に通っていて、ずい分と成長している。デジカメを自室に取りに行くヒマがなかったのも残念でした。
★朝から雨で、気温が下がって、圧手の衣類を着ている。午前中に、傾聴ボランチアさんが来る予定だったが、電話があって、雨が降るので、「今日は、来ない。来月、来ます」。ボランチアさんに一方的に話をすると、アタマの中の整理が出来るので、聴いてくださるのを楽しみにしていたところでした。

2017年10月14日土曜日

運動会。ホーム全体が、笑いと拍手で一体となった

楽しい半日だった。午前中に、期待の運動会は行なわれた。看板を見れば、50回を数える。それだけ歴史があるわけです。園長神父さまのお祈りから始まる。ちゃんと国旗掲揚も、聖火の入場もあった。職員は色々工夫する。棒に赤い火の色紙をつけて、室内を一周して立った棒の上に火を灯す。すると、細く切った赤く長いタバが、フニャ、フニャと立ち上がる。自然と皆さんの拍手が起こる。競技は、パン食い競争から出だしとなる。車椅子も、歩ける人も、介助を受ける人も、パンに向かって突進する。こうした開催の目的は、職員も入居者も心も体も一体になることです。親密さが湧いてくる。左の手の指と、右の手の指が、交差して、組み合うわけです。その喜びを感じた。だから笑いましたよ。拍手しましたよ。生きている喜びを感じましたよ。赤組と黄色組に分かれて、細いフーセンの輪をリレーで次の人に渡す競技もあった。90歳も、80歳も、誰でも喜んで、フーセンの輪を隣の人に急いで送る。それに使う棒は、新聞紙を細く丸めて職員が手間をかけて作った道具だった。
男性の職員歴が短い2人が犠牲になる。2人は走って、女性の衣装が掛かった場所へ行き、自分好みの衣装をまとって、また戻ってくる。すると女性職員や入居者の女性が加勢して、2人にお化粧をほどこす。どんな女装が出来上がるか。こういう変わった競技に人気がある。よって、たかって、2人の顔に、塗って、塗って、塗ったくり、仕上がったのが見事な女装でした。どちらが美人か、皆さんの拍手の音で決まった、コクな競技もあった。まあ、女性職員は多いので、色々考えるわけです。入居者も女性が多いので、こんな競技は受けますね。出来上がったのが、この姿です。まあ、この写真を見ても、楽しさはわかるでよう。最後には白い袋に入った「おみやげ」のお菓子も頂きました。こんな楽しい日、笑える日は、毎日来るといいね、と思いました。園長神父さまから、代表で、私がお菓子をもらいました。


2017年10月13日金曜日

農村の刈りいれ。盗む少年、昔の人は情が厚かった

秋の稲刈りどきです。先日、山のシスターの修道院へ行ったとき、車の中から写真を撮った。「たまらなく、いい風景だなァ」が実感です。実りのとき、収穫のとき、この日を迎えるには、農家の人びとの苦労や心配が多々あったでしょう。
★この地区は、私にとって思い出が深いところです。修練の一番大事な時に、結核になって、25歳、この場所を通って、山の養護施設・修道院で療養をはじめた。よく、この辺は、来ていた所です。36歳まで、11年間も、山で生活しました。懐かしい場所です。
★あの頃の古い記録が、A4ノートに残っているのを引き出してみた。今の人には解らない作家と思うが、「倉田百三」の本や、エックハルトの「離在」を愛読しました。特に、倉田百三の言葉をメモしてある。「人は、罪をつくらずには生きていけない。罪は精神的死を意味する。人間の良心は、罪に耐えない。いかに人間は罪から救われるか。それが必要なのが、懺悔の意識である」。若い心には、ビン、ビン、響きました。
★20代の若い頃に、病気で悩み、罪の意識に迷い、孤独に苦しんだ。しかし絶望はなかった。案外、気楽に、病気・結核にも無頓着であり、施設の少年たちと交わる明るい気持ちで過ごしていた。
★当時は、まだ食料不足で誰もが苦労し、餓えていた。施設に親交のある農家から、新米が収穫されると、修道院の者は夕食に呼ばれて、ご馳走になった。その時は、お寺の坊さまもご一緒した。その時の「お米ご飯」の美味は忘れない。
★一方、施設の少年たちは、ひもじさを、もろに感じた。いま稲刈りをしている写真の農家に忍び込んで、食べ物の盗みを働くのであった。中でも、農家の芋釜(穴を掘って来年の種芋を置いて、ワラで、とんがり帽子型に囲んだ)に手を突っ込んでは、少しづつ盗んだ。次に来た少年が、「これ位なら、いいだろう」と、また盗む。結局、春になって、種イモを植えようと開いて見ると、中は空っぽだった、そんな事件もおこった。
★農家の人が施設に、怒鳴り込んで来た。指導主任のペトロ石橋先生(修道士)は、この少年たちの事情をコンコンと説くと、農家の人は感動し、先生や職員たち、シスターの苦労を察して、食料を大きな袋に入れて、寄付した話題も残っている。昔の人は、情があったと、いま思います。

2017年10月12日木曜日

ネコのみかん君。かわいい目。運動会のポスター紹介

夕食を終わって、何やら賑やかな笑い声がする。自室の前を通る人に聞いたら、ネコを連れてきているという。早速、デジカメを持って、介護の詰所に行った。
★男性職員さんが連れてきた、ネコです。小さな生き物。「かわいい、かわいい」と思わず顔もほころびる。この職員さんは、前にもネコを飼っていて、日記にも取り上げたことがある。「はな」ちゃんといった。痛ましくも1歳で、白血病で亡くなった。今度の「名前は、何?」「ミカンです」と思いがけない返事。「え?みかん」「毛がミカンの色に似ているから」「オスね、メスね?」「オスです」。生まれて2ヶ月ほどになる。小さなミカン君は、目をパッチリさせて「ここは、どこだろう?職員さんたちは若いが、後はお年寄りばかり」と戸惑っているに違いない。
★ネコは、実家から4匹もらってきた。ネコ好きな彼です。心の優しい彼です。「時々、連れてきて見せてよ」
★2、3日前から、「運動会」(室内)の組み分けの名前が貼られた。土曜日の午前に行なわれる。ホームの全員が、赤組と黄色組に分かれる。赤組は37名。職員が13名。大曾神父さま、西山神父さま、谷村神父さま、それにトマが入っている。他方、黄色組は36名。職員は14名。夜勤の勤めや交代の職場の人は含まれていない数です。黄色組には、瀧神父さま、村山修道士、それに山内園長神父さまが含まれている。
★楽しいじゃ、ないですか。ホームの全体が、ワクワク、モリモリ、愉快で気持ちがスッキリします。パン食い競争は必ずある。要領のよい者も必ず居る。以前は広い庭で実施していたが、車椅子が多くなった。土曜日を楽しみにしています。
★朝食後、ラジオ体操をして、浴場に行った。毎日、午前中に、男性は入れます。入江さんは、もう風呂から上がって、衣服を着ていた。中にはキリエさんが居た。久しぶりにキリエさんから背中を流してもらった。午後からは、歯科医院へ治療へ行く。ホームの職員が送り迎えしてくれる。車で15分かかる。ジマンじゃないが自分の歯です。入れ歯はない。1時間かけて、歯石を取り、洗浄し、手当てをしてくれる。満足して、いまホームに帰ったところです。

2017年10月11日水曜日

聖ヨハネ23世教皇の日。大改革を行なったパパ様

いつものように4時45分に起きる。教会へ入るのは、5時15分。決まっている。浜田神父さまと、車椅子の男性が居る。席に座ると、「毎日のミサ」の本を開く。今日は、「聖ヨハネ23世教皇さまの日」(任意)と記されていた。
★今日は水曜日で、始業早々、職員さん自室の掃除をしてくれる。終わってパソコンを開くと、この絵が出てきた。切手であろうか。「右側」のパパさまが、聖ヨハネ23世教皇さまで、左側は、聖ヨハネ・パウロ2世教皇さま。この教皇さまには出会ったとこがあり、アタマも撫でられた。
★今日、日記で、聖ヨハネ23世教皇さまを取り上げたのは、時代を読み取って、教会も大きく改革するため、第二バチカン公会議を開催されたからです。その改革は、下々の修道士にも理解がわかるほどの大変革でした。
★例えば、司祭は1人1人ミサを捧げていた。ミサ使いをする修道士も大変でした。ミサはラテン語で、ミサ使いもラテン語で答えました。教会に祭壇は限られており、1人のミサが終わるまで次の司祭は待っていました。ミサも信者席に背を向けて捧げた。教会の祈り「聖務日課」もラテン語で、読むのに苦労しました。それが自国の言葉で、ミサをささげ、聖務日課も唱えることになった。聖体拝領台といって、祭壇と信徒席を分ける仕切りがあって、内陣がはっきり示されていた。それが取り除かれた。こうした変化に、とまどいを感じたのも確かです。
★公会議が終わって、50年が過ぎました。90近い修道士にとっては、人生の前半分は古い以前の仕来たりであり、後半が今の典礼、祈りを続行しています。以前のラテン語のミサ曲や、豪華な刺繍の入った祭服などが、今は懐かしい。子供の頃に覚えた「公教要理」が今も自分の信仰の理解の背骨になっているのは確かです。
★人は、「神から出て、神に帰る」存在でしょう。過去を辿れば、霊的には決して自分はリッパとは言えない。だが、清められて、ふさわしい人間になって神に帰りたい。弱い自分だが神に信頼し、神はいつも私と共に居られる。度々聞かされた。「神は愛して下さっており、必ず善いように導いてくださる」。もちろん神から与えられる試練もある。歳を取ると共に苦痛は増してくる。それもイエスの苦しみ、マリアの悲しみに寄り添って、受け入れて行きたいと思う。感謝と祈り。いつまで生かされるか、どんな苦しみが来るか、分からないが、すべては神の計らいに希望のうちにお任せしよう。2人の聖人に取次ぎの祈りをささげた。

2017年10月10日火曜日

10月8日は終戦後、聖母の騎士に入った記念日

昨日から、ポーランド人の画家、モルガさんを紹介していますが、彼は、アシジの聖フランシスコ(色つき)の聖絵も描いています。その格好のモデルとなったのが、フランシスコ中村修道士さんでした。聖絵の両手と、中村修道士さんの両手が似ている。
★中村修道士さんは、ここのホームで神に召された。懐かしい写真なので、載せました。いま、この聖フランシスコの聖絵がどこに飾られているか、分からない。
★過ぎ去りましたが、先日の10月8日は、トマが聖母の騎士に入った記念日でした。度々日記にも書きましたが、雨降る日でした。受付で、ゼノ修道士に迎えられた。母が、原爆で死んだと言うと、ゼノ修道士さんの青い目から、涙がこぼれました。1945年(昭和20年)、原爆・終戦になって、2ヵ月後のことでした。もう72年の昔になります。それから今日まで生かされてきた分けですね。
★朝食のとき、隣の瀧神父さまに聞いた。「神父さまは、いつ入会したの?」「1956年(昭和31年)4月、聖母の騎士に入った」「それまで何をしていたの?」「奄美(鹿児島県)で、教会のお手伝いをしていた」。聖母の騎士で、志願期、修練期を過ごした。
★昭和31年というと、トマは、山の施設の修道院で療養していた。瀧神父さまは、その頃、志願者のとき、ロムアルド修道士に連れられて、山の施設・修道院へ1度行ったことがあるという。「トマに会ったかも知れないね」。今朝の会話でした。
★昼の食事のとき、また瀧神父さまに尋ねた。「修練の時は、何人でした?」「22人だった」「その内、何人、司祭になりましたか?」。しばらく数えていたが、「5人」。5人の司祭というと、良好の結果です。ここで、こうして瀧神父さまと一緒にホームで暮らし、三度の食事も共にするのも、神さまの導きと、力強さを感じています。
★モルガさんが描いた絵が、山の修道女院の聖堂の壁画と額縁の絵が残されている。コルベ神父が福者に挙げられた頃で、わざわざポーランドから来て描いたのでした。トマはポーランドへ行ったとき、モルガさんの家を訪ねて、彼にも会い、お礼を言った。彼の部屋には、日本のテレビ(ポーランドでは珍しい)や日本の製品が多々見受けられた。

2017年10月9日月曜日

「願いがあれば、ヨゼフの所へ」。旧約聖書にもある

山の修道女院に、聖ヨゼフ小聖堂があるのは知っています。トマ自身、何度も巡礼者を案内したこともある。ところが最近、この修道女院から季刊誌として発行している「愛」を読んでいることがあり、そこに、「3月、聖ヨゼフの月に、長崎教区の高見大司教さまが、ご自分の霊名が『ヨゼフ』なので、お祝いのミサをお捧げになった」と記されていた。そしてお説教の一部分も掲載されている。その中に、次の言葉があった。
★「信仰の基本は、イエスさま、マリアさま、このお2人の働きに、ヨゼフさまは『脇役』を求められていることを自覚して、もっぱら実行の人ととして生きられました」。この「脇役」という言葉が心に残っていたのです。脇役を完全に務めることも人生には大切です。
★そこへ計らずも、野々村さん、美樹さんと行くことになった。修道女院の外れにあるので、今はシスター松下さんに案内してもらった。ポーランドの画家、モルガさんが描いた素晴らしい壁画で飾る小聖堂です。右の上に聖コルベ。右下は小聖堂。左下に施設の「みさかえの園」など描かれている。ちなみに、長崎・聖コルベ館の玄関の大作も、館内の、いつも写真を撮るバックの額縁の絵も、モルガさんの作品です。
★小さな聖ヨゼフの聖堂だが、シスターたちの熱心な祈りによって、数々の恵みが叶えられている。「願い事があれば、ヨゼフの所へ行け」と旧約聖書にも記されている。
★「愛」誌掲載によれば、毎月、20人前後の人が、聖ヨゼフへの感謝の祈りをささげて、ご厚志が送られている。今日の日記(ブログ)には、昨日、訪問した聖ヨゼフ小聖堂の印象が深かったので、それを記しました。お願い事があれば、聖ヨセフによる取次ぎのお祈りをお勧めします。下の写真は堂内と、入口の壁画の写真です。