長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年8月31日土曜日
黙想、6日目。新たな出発をしよう。まだ前途は有るぞ。良し
2013年8月30日金曜日
黙想・5日目。告白は、あの司祭にしよう。来たッ、その人が
2013年8月29日木曜日
黙想・4日目。ルルドのお水にチカラを得る。み旨に従う
2013年8月28日水曜日
黙想・3日目。今の世は、隣の人を真に理解するのは、難しい
2013年8月27日火曜日
黙想・2日目。カトリックで生きるしかない。それが幸せ
2013年8月26日月曜日
黙想・1日目。小さいことでも、大きな意味がある。初日の遅れ
2013年8月25日日曜日
過去の落ち度を、くよくよ、後悔するな。キズも意味がある
騎士誌10月号のため、記事を書き上げた。東京へ行ったこと。「東京へ・出会いの・一人旅」です。東京では、赤羽教会・修道院の下村コルベ修道士さんに、大変、お世話になった。全然、歩くことなく、運転のクルマで、あち、こち、連れて行ってもらった。「ありがとう」。感謝です。そのことも記事に書きました。★人生には、きれいごとでは、すまされない、現実があります。歳をとれば、よく分かる。心に、キズを受けたニンゲンは、人の痛みや、気持ちに、寄り添えることが、できるでしょう。★久しぶりの夏休みで、赤羽に、こだわったのには、意味があった。昔を思う。40年前です。1970年代、赤羽で、4年間、暮らしたことがあった。あの頃を思い出した。カトリック・グラフの編集を勤めていた。あの頃は、若かった。失敗も、あった。「赤羽には、痛悔とナミダの思い出があります」。それでも、赤羽の教会で祈ったとき、清められる気持ちがした。過去の落ち度を、くよくよと、後悔するな、の思いがある。心のキズは癒された。カンシャの気持ちで、記事を書きました。★騎士誌、10月号は、9月10日頃、発売になります。読んでくだされば、ありがたいです。
2013年8月24日土曜日
老人は、過去に、若者より、長く生きている。ゆとりだよ
2013年8月23日金曜日
内科と、皮膚科へ。待合所に患者が多い。時間が、かかります
午後4時になった。日記を書くのが遅れたよ。朝から、内科へ予約の診察へ。2週間ほど前だったか、「ノド」の調子が、なんとなく「つまる」感じ。最初は耳鼻科へ。ノドのカメラ。「異常なし」。次に、内科へ。女医さん、「いつ、胃カメラ、しました?」「10年まえ」「では、1度、検査しましょう」。数日後、胃カメラ。「2箇所、つまんで、精密検査に出しましたから」「ビック」とする。「食道は、どうです?」「異常なし、です」。胃の粘膜、つまんだ、その結果が今日だった。「良性でした。心配いりません」「ほかに、CTも、超音波も取りました、あれ、どうですか?」「石も、あります。写っている」「肝臓は、どうですか」「上の部分が、(どうの、こうの)と説明有るも、よく理解できない」「ビールスが多いらしいですよ」「数値、5までのところ、6.9ですね。確かに多い」「でも、10数年来、肝臓の数値は平常なんです」「普通なら、インターへロン、打つところでしょうが、もうお年ですからね」「大丈夫です、このままで」「ピロリ菌、取る方法もある。もうお年ですから」「ありがとう。これからも、よろしくお願いします」「年に、2回は、検査をしましょう」★内科を出て、次に「皮膚科」へ回った。足のスネに、数ミリのシミが出来ている。皮膚科・医師「クスリを塗って、1週間後、また来てください」。それが、今日だった。「もう1週間、塗って、また診察へ」。それや、これやで、遅くなったのです。2013年8月22日木曜日
去年の今ごろ、何していた?度々の入院で苦労していた、でも
去年の今ごろ、どんな写真があるのかなァ、とアルバムを調べてみたら、こんな写真があった。ゲンキな男の子。名前は、なんと言ったかな。そう、そう、コウタ、と言った。どんな字を書くって?わからん。思い出せない。むつかしい字だったよ。こんなゲンキの子が好きだね。少々、ワンパクの方が、いい。自分自身が、ワンパクだったからね。意地になるところがあった。負けん気もあった。★さて、去年の今ごろは、度々の入院で、大変だった。昨年は、6回、入院したからね。それにしては、ボクの顔はやつれていないね。まだ余力があった。でも、1年を経過すると、カラダも弱るよ。だから、声だけは、やせ我慢で、大きな発声を心がけている。まだ、まだ、くたびれんぞ。気合、入っとる。歩く早さが、遅くなったね。★来週は、1週間、黙想の家で、会の「年の黙想」が行なわれる。参加します。実りのある黙想が出来るように、お祈りください。
2013年8月21日水曜日
25人が、修道士に出会って、何を感じましたか?赤羽で
今朝、騎士誌の原稿を書き上げた。東京への旅のことを書きました。「東京へ出会いの一人旅」が題です。7月の最後の日曜日。朝ミサの後で、ブログを読んでくださる皆さんと、出会って、短い時間でしたが、言葉を掛け合いました。うれしかったです。25人の皆さんと出会った。そのとこを書きました。考えてみると、これは小崎修道士の方から、一方的に書いたのであって、「25人の皆さんが、修道士に出会って、何を感じたか。それは書けていない。皆さんの側から考えたとき、さまざまなドラマがあったのでは、ないですか。いろいろ有ったと思います。後で、いくつか手紙や、ハガキが来ました。お2人、ご夫妻で写っている上の写真は、世田谷の安部先生ご夫妻で、ご主人、奥さんも、両方ともお医者さんでした。「頂いた色紙《苦しみは、のちに、愛の喜びに、変わる》。素晴らしいお言葉に、感謝です。勇気を与えてくれます。トマさんが元気そうでした。異常気象のなか、無理をなさらないでください」。下の写真は、渋谷の佐藤さんの写真で、コメントと共に送られてきた。「色紙は飾らせて頂きました。これからもブログを綴ってください」と、励ましのお言葉を頂きました。2013年8月20日火曜日
売れている、オラッショ、キリシタンの、2冊の本。好調です
東京の出版社から電話があった。「おたくの本、オラッショの旅と、キリシタンの旅、2冊を読みました。有望な本ですので、うちの出版社でも出せるように、相談に乗ってくれませんか」。これで、2度目の問い合わせだった。次のように返答した。「ありがたいお言葉ですが、実は、この2つの本は好評で、わが社で一番売れている本なのです。県外から長崎へ修学旅行へ来る際、毎年、この本を各人が購入して、事前学習して、旅行に望む学校も出ています。おかげで、毎年、100冊、200冊と、まとめて販売して、売れているので、オラッショの方は、20刷り近く、キリシタンの方も10刷り近く刷り直して、出ています。従って、この件につきましては、ご遠慮させていただきます」。小崎修道士が、30年ほど前に、実際に、案内して、ガイドして、説明をしていた内容を活字に起こしたもので、思い出話なども掲載されていて、興味深い本になっている。「そのほか、どんな本を出していますか」。出版社の人には、「小崎登明の部屋」で検索してください。参考になります、と伝えた。★騎士誌の原稿を書いている。東京への旅をまとめてみよう。2013年8月19日月曜日
8月の半ばになる。暑さのためか、入館者が少ない盆休み
2013年8月18日日曜日
神さまのパンで、チカラを得る。ゲンキを出そう、ファイト
「これ、なんですか? 」。ホスチア焼き、といって、白いパン、ご聖体を焼く道具です。出津、といって「シ・ツ」と読みます。外海のド・ロ(神父)さまの時代に、救助院で使われた。この間、建物を訪ねた。改修工事を終わって、新しくオープンしたのです。その中に展示されている。目に留まりました。めずらしい、品物ですよ。デザインが、いい。大きな方は、司祭用。小さい方は、信徒の拝領用。焼くときには、下の写真のように、火鉢で、炭(すみ)で焼いた。1枚、1枚焼いて、それを小さく切ったから、作業は大変でした。むかしの人たちは、こういう仕事を丹念に、心をこめて行なったわけです。ありがたいですね。★個人の信仰、大事にしなければ、いけません。基本ですよ。神さまとの「つながり」。1人、1人のつながり。それが大きな束となって、教会の信仰のチカラとなる。ホスチアを頂いて、老いも、若きも、ありがたく、真剣に神さまへの道を歩んでいった。ご聖体を頂くと、チカラになります。清められます。人生の目的も、わかります。人間は弱いからね。シ・ツへ行ったら、ぜひ、見てください。2013年8月17日土曜日
2013年8月16日金曜日
滝の観音の手延べ冷やしソーメン、4度目の夏。抜群ウマイ
2013年8月15日木曜日
人生の、8月15日。思い出、いろいろ。幸せは何処に?
終戦記念日。我が人生で、この日をどのように迎えたか。①13歳。戦争中だった。浦上では、この日を「ふくれ・まんじゅうのお祝い日」と呼んだ。白いコナで、大きな「ふくれ・まんじゅう」を作って、家族に食べさせた。食料が乏しかった時代だ。ご馳走だった。旧・浦上天主堂に参詣し、平和を願っていた。②14歳。病気になって、大学病院へ入院していた。いつも見舞いに来るお嬢さんが居た。永井博士の妹さんだった。きれいな女性だったよ。慰められた。③17歳。原爆の廃墟の丘で、この日を迎えた。戦争が終わっても、虚脱感だけが残っていた。これからどうなるのか、不安だった。浦上天主堂は完全に崩壊し、希望は全く失せていた。④あれから68年、85歳のこの日、「生かされて、今日も、祈ります」。それだけです。⑤先日、NHKのテレビで、「北朝鮮から、終戦後、脱出する苦悩、危険な旅」を放映していた。脱出に際して、多くの民間人が死んだ。北朝鮮から大量に韓国へ逃げた。韓国のアメリカは、ソ連に、脱出を阻止するように秘密に依頼したという。怒りが、こみあげてくる。もし、病気にならずに、北朝鮮で終戦を迎えたら、生きて、帰れたか、全くの不明である。早く帰国したから、逃亡の苦労は逃れた。しかし原爆の苦しみは体験した。「なにが、良くて、なにが、困るのか」。人生における采配は、むずかしい。ただ、ただ「生かされて、カンシャ」である。
2013年8月14日水曜日
聖コルベの祭日。悪に対しても、善と、愛で返した現代の聖人
2013年8月13日火曜日
ライモンド。気分は、どうだね?暑い日、熱中症に気をつけよ
2013年8月12日月曜日
餓死の地下室。コルベ神父の最後の姿。悪に負けない、耐える人
殉教の日が近づいた。14日が、その日です。コルベ神父が、殉教死をした日(聖人になり、祭日になっている)。1941年、昭和16年のことでした。今日は、12日で、いまが一番、餓死の地下室で苦しまれている時期です。食事も、飲み物も、いっさい与えられない。しかも裸で、地下室へ入れられた。現在、地下室の写真を見ると、ローソクの火で、壁が、真っ黒に、すすけており、内部が、はっきり分からない。アウシュヴィッツの案内人(ポーランド人女性)は、写真のような部屋だった、と教えてくれた。右下の箱は、トイレです。しかし餓死だから、使われなかった。それほど悲惨な刑でした。この部屋で、コルベ神父は最後まで、耐えて、意識があったまま、毒の注射で殺害された。殉教です。ナチの悪に負けない。いま、聖母の騎士では、毎朝のミサの後で、聖コルベの小祭壇の前で、9日間のお勤めを果たしています。このお勤めに参加できる幸せを感じています。いろんな話を聞いてきたが、コルベ神父の餓死の地下室での体験・苦しみは、真実であった。それだけは、信じます。アウシュヴィッツで、コルベ神父はこのような姿をしていた。(これは絵です)。★コルベ神父は何を教えるか。①家族、特に母親に深い愛を示していた。②1人の男性の為ならと、見知らない人なのに、イノチまでも捧げた。③誰が偉い、誰が貧しい、ではなく、みな平等の心で生きた。多くの修道士から慕われた。④長崎で、多くの苦しみ、困難があったが、失望することなく、受け入れ、耐えた。⑤神さまと、けがれなき聖母マリアさまに総てを奉献し、愛を貫いた。⑥神さまを知らない人たちに、活字を通して、ニンゲンの幸福を教えた。★「茨城の空」さん、コメント、ありがとう。赤羽で、会いましたね。以前、聖コルベ館で会った時よりも、輝いていて、変わったなあ、と思ったよ。2013年8月11日日曜日
夢の実現ならタダでも良く、他者への奉仕もタダで生きれる
日曜日。司祭が、ミサのお説教で、昔の思い出である、ポーランド人のマチア修道士が、騎士誌を抱えて、市内に宣教へ行く足音や、年老いた日本人の中村修道士が、黙々と祭壇の準備や、お掃除をしている手を、語った。「ああ、そうだった、な」と、なつかしい思い出に納得した。彼らには、無償の働き、があった。修行のためとはいえ、タダで、労力を惜しまず働いた。人は、自分の夢の実現のためには、収入は犠牲にしても、よい。また他者への奉仕のためには、無償の働きをする者も、いる。そういうニンゲンも、実際、居たのです。「人の歩みは、小さな足跡だが、大きなチカラが、常に、守ってくださり、導いてくださる」。今日は、それを思いました。無償の働きは、修業の結果でもあるが、それでも、心は満たされ、幸福を味わい、満足するニンゲンも、いるのです。「神に捧げたニンゲンは、人が成しえないパワーを生きる」。今の自分にとって、生きる意味は有るのか、の問題でしょう。あの修道士たちは、もう故人となったが、幸せだったと、いま思っております。
2013年8月10日土曜日
6月、広島の桃園を訪ねた。収穫の素晴らしい、モモが届いた

2013年8月9日金曜日
長崎・原爆の日。小・中学生たちに語り部を勤める。ヘイワを
2013年8月8日木曜日
病院へ。午後は韓国・テグの中高生たちを、冷菓で歓迎する
2013年8月7日水曜日
サルも、木からスベリ落ちる。ジンセイには色々悩みあり
2013年8月6日火曜日
20年前の新聞記事。原爆・語り部デビュー。今は引退
朝のお勤めを済ませ、食事の後、洗濯物を干しているとき、「ウー、ウー」とサイレンが鳴った。「ああ、8月6日、広島・原爆の日」と、手を合わせて、鳴り止むまで、アタマを垂れて、黙し祈った。「2度と、原爆が無いように」。その願いをこめて。あと3日たつと、長崎・原爆の日になる。思い出したよ。20年前の、この日。原爆の語り部となった。自分が体験した破壊力、多くの悲惨な死者と、助けを求めて叫ぶ負傷者たち。現実は余りにも厳しかった。「原爆を落とし、多くの市民を殺傷したアメリカは、なぜ謝らないのだ。ダメだよ、こんな武器を使っては。誰もが、そう思う」。その中で、行動した自分の行ないは、またザンネンだった。ニンゲンの弱さと言うのだろう。悲しい体験が、そこに有った。それらも含めて、若い少年・少女たちに、また青年たちに、語り継いでいこう。率直な願いから、語り部を10年ほど続けた。「死んだ者も悲しいが、生き残った者も、心に深いキズを受けたのです」。生きても苦難、死んでは悲惨だよ。結果として、よく、まあ、原爆を生き抜いてきたと思う。放射能より恐ろしいものは、この世にない。原発事故、2年が経過しても、まだ汚水が解決していない。1日も早い収束を望む。2013年8月5日月曜日
からだの総点検をしてください。予約を入れましょう
2013年8月4日日曜日
1週間前の日曜日は、東京・赤羽のミサだった。歳月、早い
2013年8月3日土曜日
海風に吹かれて、気分は爽快。休みの1日を過ごしました
2013年8月2日金曜日
原爆の日を前に、両親の墓参り。孤独に耐え生きるしかない
2013年8月1日木曜日
旅の効能。出会いと、ホンモノに接し、自分の変身にあり
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