祈りも、そうですが、食べるのも、大事です。毎食、20人余りの食事を、3度、準備するのは、大変です。何を食べさせようか、悩むでしょう。3人のシスターが居ると聞きました。最後の夕食になった。サシミが出ました。かたわらに、ワインが入ったゼリーもあります。小型のパイもある。実は、語りたいのは、料理もですが、これを作っているシスターにご縁がある。もう30年ぐらい前ですか、イスラエル聖地巡礼へ行った。ある司教さまのご案内、説明で、すばらしい思い出に残る旅行でした。男子は少なく、シスターが多く参加の旅でしたが、そのとき、1つの思い出が起こった。飛行機のなかで、どうゆうワケか、弁当が1つ足りない。2人が、同じ弁当を、分け合って食べることになった。そのシスターが、この黙想の家に勤めているのです。もう何年も、ここにお世話になって、シスターとの思い出を、繰り返しています。ニンゲンって、ふしぎなモンですね。小さな出来事なのに、なぜか、この思い出が、いつまでも残っている。安否を確かめ合って、「長生きしてね」と、2人で、玄関で写真も撮ったが、それは載せません。ほかのシスターのご苦労も合わせて、「毎食のごちそう、ありがとう」。こうして無事に、年の勤めの黙想を終えて、聖コルベ館に戻ったのでした。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年8月31日土曜日
2013年8月30日金曜日
黙想・5日目。告白は、あの司祭にしよう。来たッ、その人が
黙想の家・聖堂の「祈るキリシタン」。この前で、祈りました。黙想も最後に近づいた。きょうは、告白をしよう、と朝から決めていた。講話の司祭も居られる。会の司祭も、10人も居る。誰に、告白しても、いい。自由に出来る。告白を頼むのも、チャンスが要る。聖堂に、来てもらうからだ。それでも告白は、黙想の最後には、必ず行なう。いろいろ考えて、あの司祭に頼もうと、決めた。午後、休息の後で、講話の30分ほど前に、余裕をつくって、聖堂へ行った。2人の司祭が黙して祈っていた。しばらく、すると、音がして、もう1人の司祭が入ってきた。チラッと、見ると、なんだ、あの意中の司祭ではないか。ヒザまずいて、ロザリオを唱えている。運よく、2人の司祭が、次々に出て去った。すぐ立って、声をかけた。「告白、お願いします」。なんで、こんなに、うまく、事が運ばれるのか。1つの恵みを感じた。神さまが、ちゃんと、準備してくださる。ご配慮を強く感じた。告白台へヒザまずき、心中を順々に述べる。司祭は又、順々と諭した。告白での語りは秘密で、公にされないが、次のような気持ちを感じた。「足りないところ、神さまは、知っておられる。いただいた恵みを感謝するように、してください。騎士誌の記事は、読まれている。お恵みがあるから、感謝して、つづけてください」★司祭の講話。自分と神さまの、つながり。求めている。しかし個人だけが救われるのでない。隣の人も神さまに「つながって」いる。その救いをも、望む。教会の集うもの、救うのを神は望まれる。タテのつながりの熱心さに、ヨコのつながりも大事です。共同体に求められるもの、「共感力」です。自立は、教育でも大切だが、本当の自立は、共感するチカラを育んでいく。神が人となられた、これも共感力でしょう。
2013年8月29日木曜日
黙想・4日目。ルルドのお水にチカラを得る。み旨に従う
朝、早く、修道会員だけの祈り。これもお恵みです。心が、みな、合い通じるというか、気持ちが違うんですね。信頼を持って祈りました。こころは嬉しいが、カラダは、キツイ。身体的に、苦労が重なるのを覚えます。夜中も、ほとんど眠れなかった。まあ、歳も年だし、眠れなくても、そう気にはならない。飲み水が、カラダに合わない。電話をかけて、白浜さんに、「ルルドの水」を持参してもらった。これで、やおらゲンキが出る。★司祭の講話。見えない神さま。この日常生活のなかに、神さまは居る。神さまの基準で、考える。神さまが、こう望んで、おられるでしょうから、ワタシは、こう、したい。欠点を知る。神と出会うために。自分をカラにする。イエスと出会うために。結婚者は、相手に、忠実を尽くします。奉献者は、神さまに忠実を誓って、独身を守ります。忠実では、同じことです。コインのウラ・オモテのようなもの。忠実であるのが、大切です。★自分が、いつも中心。自分が中心というのは、罪の深いところに、ある。エデンの園で、人祖が、木の実を食べた。まんなか、みむね。これは神のみむねを、人間が自分の考えで置き換えた、ことを表わしている。弟子は、アミを捨てて、イエスに従った。この「捨てる」と、己を捨て、我に従えの「捨てる」は、日本語は同じ単語だが、原文は、単語が違っている。★そこで問うた。イノチを「捨てる」は、どうですか?この捨てるには、抵抗がある。捨てる、余分だから、カスだから、いらないモノだから「捨てる」。イノチは、合わない。「捧げる」がよい。司祭は言った。この「捨てる」。単語が違います。
2013年8月28日水曜日
黙想・3日目。今の世は、隣の人を真に理解するのは、難しい
子どもの時から教えられた信心は、「いのりバ、せろ」「スラごと(偽り)くる、より、ロザリオ、繰れ(くれ)」「善業バ、せろ」「犠牲バ、せろ」「死者を想え」。それに、もう1つ。「神父さまバ、大事に、せろ」でした。「祈りや、善業をすると、天国にタカラを積む。煉獄の霊魂を助けます」と教えられた。単純に、そう信じて、せっせと、カラダを動かした。こんにちでは、「個人の信心だけでは足りない。共同体で、隣人の救いに活動しなさい」と言われる。確かに、そうでしょうが、でも、どうしても、個人の信心は捨てきれません。講話の司祭は言う。「隣人を(近い人)を愛しなさい。遠い人ではない。近い人、隣の人、これを愛するのが、むずかしい」。現代は、マンションに住んで、隣の部屋が、誰かも分からない。孤独死しても、数日は分からない。そういう時代に生きている。真に理解し合った隣人になる。これは、ひじょうに、むずかしい。受難であり、十字架でも、ある。★神と共に居る。イエスは「共に居てほしい」と願っている。講話の司祭が言った。「ある老人が居てね。仕事へ出かける前に、教会へ寄って、末席で、じっと前を見つめて、しばらく黙っている。教会を出て、仕事へ。帰りに又、同じことをしている。少年が聞いた。おじさん、何をしているの?わしはな、神さまが、わしをジッと見つめて居られるので、わしも、ジッと見つめておるのだよ」★病気のとき、孤独のとき、主は、ここに居られます。
2013年8月27日火曜日
黙想・2日目。カトリックで生きるしかない。それが幸せ
黙想の家の、食堂から見た、長崎の港です。眺めが、いいですね。この港から、五島行きのフェリーが出ています。黙想が、始まりました。司祭の講話は、午前と午後の2回。信仰生活で、いま、考えていることは、度々の病気で、入院しては、1人で苦しんできた。その中で実際に悩むことは、「主よ、ここに、あなたは、居られますか。居てくれますか。それが分かれば、孤独じゃない。ひとり、でない」という問いかけです。神は目に見えない。声も聞こえない。日常生活のなかで、神を肌で体験していく。いかに築くか。むずかしいテーマでしょう。一生涯、追いかけて行くテーマでしょう。すぐに答えは出ない。それの答えが、司祭の講話を聞いて、少し分かった気がする。聖書に、イエスが「共に居る」という箇所がある。マタイ・ゲツセマニの園での祈り。「主は言われた。わたしと共に居てください。弟子たちは、いっしょに、居ない。イエスが、共に居てくださいと言われるのに、弟子が居ない。そう言われる主が、ここに居ない分けが、ない。そこに突破口が有るように思われた。次の悩みは、「なぜ自分だけが、苦しむのか。そういう迷いも実際に、あった」。それに付いて司祭は、イエスのゲツセマニの園での祈りをあげた。イエスでも、「このサカズキを、取り除いて、ください」と言われた。最初から、受け入れることが出来ますように、とは言わなかった。苦しい時、病気のとき、すぐ受け入れる、でない。サカズキを取り除いてください。イエスも、そう願った。次の祈りで、変わる。「あなたの、みこころが、行なわれますように」と、神のみむねを選んだ。最終的には、「みむね、ならば」と受け入れる。常に考えることは、自分の意思ではなく、神のみむねは何か?いま、神は何を望まれるか?★先祖は代々、カトリックを信じてきた。そこへフランス人の宣教師が来て、カトリックを教えた。信仰は、より強いものになる。カトリックの家族に生まれ、幼児の洗礼を受けている。当然、カトリックの教えを守って育ち、老いるまで勤めてきた。どんなことがあっても、この教えで行くしか、ないでしょう。迷いも、つまずきも、ありません。ある人は、せっかく教会に導かれても、教会のなかに入ると、信者同士の様々な出来事に、「わたしは、この共同体に入れない」と去って行く人が居ると聞く。本当に悲しいですね。教会へ導かれたのも、お恵みなのに、ザンネンに思います。そう思いながら、この夜は休みました。
2013年8月26日月曜日
黙想・1日目。小さいことでも、大きな意味がある。初日の遅れ
月曜から、土曜まで、年の黙想です。修道会のお勤めです。長崎市内の、山の上、黙想の家で行なわれた。18人が集まった。司祭が、10人。修道士が、8人。修道士は少ないので、こんなに8人も集まるのは、めずらしい。司祭の1人は、兵庫県から、軽自動車で、やってきた。修道士の1人は、名古屋から、クルマでやってきた。「ゲンキが、あるんだなァ」。遠くは、東京、鹿児島県・奄美大島、沖縄からも、来た。最初の日は、皆さん、それぞれの道で、神に呼ばれたことを確認し合う。「イエスが、いま、あなたのソバを通りすぎようと、している。さあ、あなたは、どうするか?叫ぶか。ムシするか。ジーッと見るか」。1つの問題が、浮かび上がる。斉藤修道士が、「お元気ですか?」と声をかけられる。久保神父さんが、「記事を書く、アイデア、浮かぶね?」と声をかける。黙想に来て、最初に何を感じましたか。「自分が、やっていること、いかに、小さいことか。小さいことに、こだわって、あくせくしている。小さいことでも、大きな意味を持っている、そんなことを考えた。導入の講話が、夜にあった。うっかり、ベッドに横になっていたら、気が付くと、15分、過ぎている。「やりとばした」。これから講話をするのは、白いスータンで、黒髪の若い司祭だった。長崎出身だそうだ。
2013年8月25日日曜日
過去の落ち度を、くよくよ、後悔するな。キズも意味がある
騎士誌10月号のため、記事を書き上げた。東京へ行ったこと。「東京へ・出会いの・一人旅」です。東京では、赤羽教会・修道院の下村コルベ修道士さんに、大変、お世話になった。全然、歩くことなく、運転のクルマで、あち、こち、連れて行ってもらった。「ありがとう」。感謝です。そのことも記事に書きました。★人生には、きれいごとでは、すまされない、現実があります。歳をとれば、よく分かる。心に、キズを受けたニンゲンは、人の痛みや、気持ちに、寄り添えることが、できるでしょう。★久しぶりの夏休みで、赤羽に、こだわったのには、意味があった。昔を思う。40年前です。1970年代、赤羽で、4年間、暮らしたことがあった。あの頃を思い出した。カトリック・グラフの編集を勤めていた。あの頃は、若かった。失敗も、あった。「赤羽には、痛悔とナミダの思い出があります」。それでも、赤羽の教会で祈ったとき、清められる気持ちがした。過去の落ち度を、くよくよと、後悔するな、の思いがある。心のキズは癒された。カンシャの気持ちで、記事を書きました。★騎士誌、10月号は、9月10日頃、発売になります。読んでくだされば、ありがたいです。
2013年8月24日土曜日
老人は、過去に、若者より、長く生きている。ゆとりだよ
回転寿司に行きました。いつも、飲んだり、食べたり、している写真ばかりのようですが、そうじゃないです。今朝は、使徒の祝日で、聖務のときには、「賛美の賛歌」を大きな声で唱えました。お勤めは、きちんと果たしております。回転寿司は、9人の仲間といっしょです。賑わいました。高齢者が、若者と居ると、なんだか、寂しさを感じるんですね。こちらは、2年、3年の前途で生きている。若者たちは、10年、20年の長い未来に生きている。ずれが、あるんですね。それを思うと、寂しい。ダメだよ。「死ぬより、生きる不思議を、考える」。回転寿司では、タイ、ヒラメ、アジ、イワシ、ヒラス、キンフグ、など食べました。若者は前途がある。老人は、未来が少ない。しかし過去を振り返るとき、50年、30年前は、この若者たちは、この世に存在していなかった。それだけ高齢者は恵まれているのです。「生きる不思議を考える」。大切と思いますよ。「両手を合わせて、大きなチカラに向かって、見守ってね、と祈る。これがニンゲンの原点で、心の支えです。それに人助け、ですね。これがイチバンです。そんなことを今朝は考えました。「きょうも、おだやかに、過ごせた。カンシャします」
2013年8月23日金曜日
内科と、皮膚科へ。待合所に患者が多い。時間が、かかります
午後4時になった。日記を書くのが遅れたよ。朝から、内科へ予約の診察へ。2週間ほど前だったか、「ノド」の調子が、なんとなく「つまる」感じ。最初は耳鼻科へ。ノドのカメラ。「異常なし」。次に、内科へ。女医さん、「いつ、胃カメラ、しました?」「10年まえ」「では、1度、検査しましょう」。数日後、胃カメラ。「2箇所、つまんで、精密検査に出しましたから」「ビック」とする。「食道は、どうです?」「異常なし、です」。胃の粘膜、つまんだ、その結果が今日だった。「良性でした。心配いりません」「ほかに、CTも、超音波も取りました、あれ、どうですか?」「石も、あります。写っている」「肝臓は、どうですか」「上の部分が、(どうの、こうの)と説明有るも、よく理解できない」「ビールスが多いらしいですよ」「数値、5までのところ、6.9ですね。確かに多い」「でも、10数年来、肝臓の数値は平常なんです」「普通なら、インターへロン、打つところでしょうが、もうお年ですからね」「大丈夫です、このままで」「ピロリ菌、取る方法もある。もうお年ですから」「ありがとう。これからも、よろしくお願いします」「年に、2回は、検査をしましょう」★内科を出て、次に「皮膚科」へ回った。足のスネに、数ミリのシミが出来ている。皮膚科・医師「クスリを塗って、1週間後、また来てください」。それが、今日だった。「もう1週間、塗って、また診察へ」。それや、これやで、遅くなったのです。
2013年8月22日木曜日
去年の今ごろ、何していた?度々の入院で苦労していた、でも
去年の今ごろ、どんな写真があるのかなァ、とアルバムを調べてみたら、こんな写真があった。ゲンキな男の子。名前は、なんと言ったかな。そう、そう、コウタ、と言った。どんな字を書くって?わからん。思い出せない。むつかしい字だったよ。こんなゲンキの子が好きだね。少々、ワンパクの方が、いい。自分自身が、ワンパクだったからね。意地になるところがあった。負けん気もあった。★さて、去年の今ごろは、度々の入院で、大変だった。昨年は、6回、入院したからね。それにしては、ボクの顔はやつれていないね。まだ余力があった。でも、1年を経過すると、カラダも弱るよ。だから、声だけは、やせ我慢で、大きな発声を心がけている。まだ、まだ、くたびれんぞ。気合、入っとる。歩く早さが、遅くなったね。★来週は、1週間、黙想の家で、会の「年の黙想」が行なわれる。参加します。実りのある黙想が出来るように、お祈りください。
2013年8月21日水曜日
25人が、修道士に出会って、何を感じましたか?赤羽で
今朝、騎士誌の原稿を書き上げた。東京への旅のことを書きました。「東京へ出会いの一人旅」が題です。7月の最後の日曜日。朝ミサの後で、ブログを読んでくださる皆さんと、出会って、短い時間でしたが、言葉を掛け合いました。うれしかったです。25人の皆さんと出会った。そのとこを書きました。考えてみると、これは小崎修道士の方から、一方的に書いたのであって、「25人の皆さんが、修道士に出会って、何を感じたか。それは書けていない。皆さんの側から考えたとき、さまざまなドラマがあったのでは、ないですか。いろいろ有ったと思います。後で、いくつか手紙や、ハガキが来ました。お2人、ご夫妻で写っている上の写真は、世田谷の安部先生ご夫妻で、ご主人、奥さんも、両方ともお医者さんでした。「頂いた色紙《苦しみは、のちに、愛の喜びに、変わる》。素晴らしいお言葉に、感謝です。勇気を与えてくれます。トマさんが元気そうでした。異常気象のなか、無理をなさらないでください」。下の写真は、渋谷の佐藤さんの写真で、コメントと共に送られてきた。「色紙は飾らせて頂きました。これからもブログを綴ってください」と、励ましのお言葉を頂きました。
2013年8月20日火曜日
売れている、オラッショ、キリシタンの、2冊の本。好調です
東京の出版社から電話があった。「おたくの本、オラッショの旅と、キリシタンの旅、2冊を読みました。有望な本ですので、うちの出版社でも出せるように、相談に乗ってくれませんか」。これで、2度目の問い合わせだった。次のように返答した。「ありがたいお言葉ですが、実は、この2つの本は好評で、わが社で一番売れている本なのです。県外から長崎へ修学旅行へ来る際、毎年、この本を各人が購入して、事前学習して、旅行に望む学校も出ています。おかげで、毎年、100冊、200冊と、まとめて販売して、売れているので、オラッショの方は、20刷り近く、キリシタンの方も10刷り近く刷り直して、出ています。従って、この件につきましては、ご遠慮させていただきます」。小崎修道士が、30年ほど前に、実際に、案内して、ガイドして、説明をしていた内容を活字に起こしたもので、思い出話なども掲載されていて、興味深い本になっている。「そのほか、どんな本を出していますか」。出版社の人には、「小崎登明の部屋」で検索してください。参考になります、と伝えた。★騎士誌の原稿を書いている。東京への旅をまとめてみよう。
2013年8月19日月曜日
8月の半ばになる。暑さのためか、入館者が少ない盆休み
お盆をはさんで、1週間もの休みが終わった。新しい週が始まる。過酷な猛暑のためか、今年のお盆は、聖コルベ館の入館者が少なかった。合わせて、55人ほどが、居た。そのなかで、ちょっと珍しかったグループがあった。それが写真の若者、子供たちです。「こういうグループが来るのが、いいね」。歓迎しますよ。今朝、長崎に着いて、真っ先に聖コルベ館へ来た。お昼のお弁当も、ここで食べた。修道士は、張り切って、説明したよ。「あまり長く話さないでね」「これから、どこへ行く?」「坂本竜馬の屋敷。4時30分までが入館時間です」。クルマ3台で、去った。★修道士の話は、いつも、決まっている。原爆の話、内容は同じ。コルベ神父の話、筋書きは決まっている。ワクが、あるわけだ。固定観念ですよ。ニンゲンには、これが、あります。それ以外には、出ない。固執しているのか。どうしたら開放できるか。意見を受け入れる、こと。読書が有益でしょう。それと、もう1つ、気になることがある。人の気持ちには、浮き沈みが多い。機嫌のいい時は、ゲンキ・ハツラツ、明るくなり、疲れたり、心配なことが起こると、落ち込む。目に見えて、あらわれるのが現実です。明るさ、暗さが、大きく振幅するわけです。ニンゲンって、定まらないモンですね。(写真の皆さんのことではない)。我が身に、それが、秘かに、ある。2,3日前が、そう、でした。
2013年8月18日日曜日
神さまのパンで、チカラを得る。ゲンキを出そう、ファイト
「これ、なんですか? 」。ホスチア焼き、といって、白いパン、ご聖体を焼く道具です。出津、といって「シ・ツ」と読みます。外海のド・ロ(神父)さまの時代に、救助院で使われた。この間、建物を訪ねた。改修工事を終わって、新しくオープンしたのです。その中に展示されている。目に留まりました。めずらしい、品物ですよ。デザインが、いい。大きな方は、司祭用。小さい方は、信徒の拝領用。焼くときには、下の写真のように、火鉢で、炭(すみ)で焼いた。1枚、1枚焼いて、それを小さく切ったから、作業は大変でした。むかしの人たちは、こういう仕事を丹念に、心をこめて行なったわけです。ありがたいですね。★個人の信仰、大事にしなければ、いけません。基本ですよ。神さまとの「つながり」。1人、1人のつながり。それが大きな束となって、教会の信仰のチカラとなる。ホスチアを頂いて、老いも、若きも、ありがたく、真剣に神さまへの道を歩んでいった。ご聖体を頂くと、チカラになります。清められます。人生の目的も、わかります。人間は弱いからね。シ・ツへ行ったら、ぜひ、見てください。
2013年8月17日土曜日
2013年8月16日金曜日
滝の観音の手延べ冷やしソーメン、4度目の夏。抜群ウマイ
さすがに、手延べは、ソーメンの成り立ちが違うんですね。強いネバリ気があって、麺に厚みがあって、それでいて、口あたりが滑らか、と言うか、ススル感じに、リズム感がある。最初の一口で、吸い込まれて、いく。「ああ、うまいなあ。おいしいなあ、マンゾクだ」と、こういうふうになる。毎年、お盆ですから、調理のお手伝いさんもお休みです。それで、毎年、お盆には、夕食は、この冷やしソーメン。もう4回目かな。クルマで、30分。町の郊外の、山のなか、奥ふかく、滝の観音さまが居る処。清流が流れていて、小川のほとりに、ソーメン屋がある。客は我々入れて、3組だけ。涼しい処でした。ここは、店の構えが、いい。大きな石のテーブルがある。黒い巨岩ですよ。表面を平らに広く削って、10人分の、丸い、なべ底のような穴を掘っている。中央から清水が、細いミゾを伝わって、なべ底を冷水で満たす。竹のつつに入ったソーメンを冷水に浸して、手に持った薬味につけて、スルスルっと、一気に流し込む。マンゾクだよ。「トマさん、食べる時は、ゲンキやなあ、イキイキしている」。★主よ、あなたは、共に居られますか。あなたが、共に居られる神であることを、今日も、現わしてください。よろこびます。うれしいです。希望も、湧いてきます。苦しむ人、病気の人、貧しい人を、主の愛で、チカラづけてください。
2013年8月15日木曜日
人生の、8月15日。思い出、いろいろ。幸せは何処に?
終戦記念日。我が人生で、この日をどのように迎えたか。①13歳。戦争中だった。浦上では、この日を「ふくれ・まんじゅうのお祝い日」と呼んだ。白いコナで、大きな「ふくれ・まんじゅう」を作って、家族に食べさせた。食料が乏しかった時代だ。ご馳走だった。旧・浦上天主堂に参詣し、平和を願っていた。②14歳。病気になって、大学病院へ入院していた。いつも見舞いに来るお嬢さんが居た。永井博士の妹さんだった。きれいな女性だったよ。慰められた。③17歳。原爆の廃墟の丘で、この日を迎えた。戦争が終わっても、虚脱感だけが残っていた。これからどうなるのか、不安だった。浦上天主堂は完全に崩壊し、希望は全く失せていた。④あれから68年、85歳のこの日、「生かされて、今日も、祈ります」。それだけです。⑤先日、NHKのテレビで、「北朝鮮から、終戦後、脱出する苦悩、危険な旅」を放映していた。脱出に際して、多くの民間人が死んだ。北朝鮮から大量に韓国へ逃げた。韓国のアメリカは、ソ連に、脱出を阻止するように秘密に依頼したという。怒りが、こみあげてくる。もし、病気にならずに、北朝鮮で終戦を迎えたら、生きて、帰れたか、全くの不明である。早く帰国したから、逃亡の苦労は逃れた。しかし原爆の苦しみは体験した。「なにが、良くて、なにが、困るのか」。人生における采配は、むずかしい。ただ、ただ「生かされて、カンシャ」である。
2013年8月14日水曜日
聖コルベの祭日。悪に対しても、善と、愛で返した現代の聖人
ミサで祈りながら、ふしぎなご縁を感じました。いま、こうして、この教会で祈れるのは、どうしてだろう。コルベ神父さまのおかげです。あの有名なコルベ神父さまですよ。アウシュヴィッツで愛のためイノチを捧げた聖人の直接のおかげです。はっきり、認めます。コルベ神父さまが、ポーランドから宣教に出るとき、一応、東洋へと、大きな目標は決めていました。細かいことは、けがれなき聖母マリアのお望みに従うまでです。それが本当の気持ちでした。けがれなき聖母マリアは、長崎をお望みになったのです。長崎に定着し、聖母の騎士を創りました。確実に、けがれなき聖母マリアのご意志です。コルベ神父さまは、ここで6年間、苦労しながら、病気をしながら、宣教しました。アセも、ナミダも、沢山、染み込んでいる場所です。こうして準備された、その場所へ、少年は導かれて、トマ修道士になった。そう考えると、ありがたい、ふしぎなご縁を強く感じました。恵まれたジンセイではないですか。コルベ神父さまの生き方を、愛を忘れてはいけない、そう思った日でした。★明日は、コルベ神父さまが、全生涯をかけて熱愛した、けがれなき聖母マリアの被昇天の祭日です。大きなお祝い日です。その前日に、コルベ神父さまは殉教されるなんて、これは偶然でしょうか。ふしぎと思いますよ。マリアさまのお恵みではないですか。そいう不思議さが、コルベ神父の生涯には多々あるのです。
2013年8月13日火曜日
ライモンド。気分は、どうだね?暑い日、熱中症に気をつけよ
朝、お祈りが終わって、食堂へ来ると、扉の屋外に、ちゃんと、おりこうに、ライモンドが待っている。ライモンドの今朝の表情です。スリムになったな。いいカッコウだぞ。オレは、な。東京へ行って、1.5kg体重が増えたよ。あれから、もう半月だよ。今朝は少々減量して、53.9kgになっていた。もう少し減らしたい。このところ、毎日、魚料理の残り物があるので、ライモンドは大いに満足しております。★聖コルベ館に見学に来た人に、「やあ、いらっしゃい。一応、見学しました?ゆっくり、お話し、できますか?あなたが、ジンセイで、経験した、苦しかったこと、1つ、何か、教えてください。あなたに、1つ、学びたい。これも、1つの出会いです」★苦しみが、あった。逆境も、あった。それらを,ハネのけて、来たのです。だから、今が、ある。今が、有ることが、尊いのです。過去に、耐えてきました。生きてこそ、イノチです。耐えてきた歴史に、それは小さな歩みかも知れないが、尊い現実です。あなたが、ワタシが、生きてきたアカシでも、あるからです。大切なのは、いま、有ることです。
2013年8月12日月曜日
餓死の地下室。コルベ神父の最後の姿。悪に負けない、耐える人
殉教の日が近づいた。14日が、その日です。コルベ神父が、殉教死をした日(聖人になり、祭日になっている)。1941年、昭和16年のことでした。今日は、12日で、いまが一番、餓死の地下室で苦しまれている時期です。食事も、飲み物も、いっさい与えられない。しかも裸で、地下室へ入れられた。現在、地下室の写真を見ると、ローソクの火で、壁が、真っ黒に、すすけており、内部が、はっきり分からない。アウシュヴィッツの案内人(ポーランド人女性)は、写真のような部屋だった、と教えてくれた。右下の箱は、トイレです。しかし餓死だから、使われなかった。それほど悲惨な刑でした。この部屋で、コルベ神父は最後まで、耐えて、意識があったまま、毒の注射で殺害された。殉教です。ナチの悪に負けない。いま、聖母の騎士では、毎朝のミサの後で、聖コルベの小祭壇の前で、9日間のお勤めを果たしています。このお勤めに参加できる幸せを感じています。いろんな話を聞いてきたが、コルベ神父の餓死の地下室での体験・苦しみは、真実であった。それだけは、信じます。アウシュヴィッツで、コルベ神父はこのような姿をしていた。(これは絵です)。★コルベ神父は何を教えるか。①家族、特に母親に深い愛を示していた。②1人の男性の為ならと、見知らない人なのに、イノチまでも捧げた。③誰が偉い、誰が貧しい、ではなく、みな平等の心で生きた。多くの修道士から慕われた。④長崎で、多くの苦しみ、困難があったが、失望することなく、受け入れ、耐えた。⑤神さまと、けがれなき聖母マリアさまに総てを奉献し、愛を貫いた。⑥神さまを知らない人たちに、活字を通して、ニンゲンの幸福を教えた。★「茨城の空」さん、コメント、ありがとう。赤羽で、会いましたね。以前、聖コルベ館で会った時よりも、輝いていて、変わったなあ、と思ったよ。
2013年8月11日日曜日
夢の実現ならタダでも良く、他者への奉仕もタダで生きれる
日曜日。司祭が、ミサのお説教で、昔の思い出である、ポーランド人のマチア修道士が、騎士誌を抱えて、市内に宣教へ行く足音や、年老いた日本人の中村修道士が、黙々と祭壇の準備や、お掃除をしている手を、語った。「ああ、そうだった、な」と、なつかしい思い出に納得した。彼らには、無償の働き、があった。修行のためとはいえ、タダで、労力を惜しまず働いた。人は、自分の夢の実現のためには、収入は犠牲にしても、よい。また他者への奉仕のためには、無償の働きをする者も、いる。そういうニンゲンも、実際、居たのです。「人の歩みは、小さな足跡だが、大きなチカラが、常に、守ってくださり、導いてくださる」。今日は、それを思いました。無償の働きは、修業の結果でもあるが、それでも、心は満たされ、幸福を味わい、満足するニンゲンも、いるのです。「神に捧げたニンゲンは、人が成しえないパワーを生きる」。今の自分にとって、生きる意味は有るのか、の問題でしょう。あの修道士たちは、もう故人となったが、幸せだったと、いま思っております。
2013年8月10日土曜日
6月、広島の桃園を訪ねた。収穫の素晴らしい、モモが届いた
リッパなモモ(桃)が届いた。上の写真、今年の6月に、広島を訪ねた。山地、広島空港の近くの山に、桃の園があった。知り合いの若者が、1人で、山にこもって、桃を育てていた。ちょうど、桃の花に、保護のための袋を付ける作業をしている時で、「収穫は、8月、楽しみですよ」と言っていたのが、その桃が、すばらしく、でかく、美しい色をして、届けられた。「ありがとう」。若者が頑張って、アセを流して、育てている。大学を出て、この山で、自分の生き方を見つけた。あと、見つけるのは、「嫁さん、だけ」と言った。感謝をもって、食べるよ。いい嫁さんに出会うよう祈りつつ、食べるよ。★「トマさん、どうして修道士になったの?」と聞かれる。ニンゲン、方向を決めるのは、さまざまです。幼いときから、宗教への傾きがあった。傾きは、どうしようも、ない。神学生たちが、祈る姿を見て、「ああ、いいなあ」と感じて、憧れた。ポーランド人の神父さんに、「ボクも、神学生になりたい」と申し出た。「いい、ですよ」と応援して、後を押してくれたが、「オマエには、お母さんが居る」と反対する者がいて、頓挫していた。原爆で、母が召された。ボクは1人になった。そこで、この道に入ったのです。入っても、いろいろ苦労はあったが、やっぱり、この道に留まった。★ニンゲンの道って、そう、なるように、なっていく。人生は、そんな出来事の連続と思うよ。★原爆の日のすぐ後に、こんなモモの話を書いて、すみません。モモ、いただいて、うれしかったのです。
2013年8月9日金曜日
長崎・原爆の日。小・中学生たちに語り部を勤める。ヘイワを
8月になって、いちばん暑い日が来た。長崎・原爆の日です。生涯で、この日だけは、忘れない。母・田川ワサの命日である。この日は特別に過ごしたい。そんな気持ちがある。3ヶ月ほど前から、長崎市内の、私立の女子小・中学校の教頭先生から、原爆体験を語ってください、と頼まれた。「体調が、よかったら、勤めましょう」。心配していたが、健康は大丈夫だ。朝、教頭先生が迎えに来て、学校へ行く。子供たちを前に、久しぶりに燃えた。少女たちは、熱心に聞いていた。前の列が小5、小6。後方が、中学生たち。まる1時間、立ちっ放しで、最後は、顔が高潮してくるのを覚えた。「まだ、まだ、ゲンキは、あるぞ」「くたばって、たまるか」。我が原爆体験は、廃墟と化した丘で、18日間を過ごした。風呂に入らず、汗にまみれ、水を飲み、煮炊きして、眠った。そこには、語り尽くせぬ、なまなましい現実があった。いまでは、とても考えられない体験の数々だった。それを語れば、話の途中で、何人かの女の子が気分が悪くて、退場した。それでも、語るよ。「原爆の日の朝、お母さんと一緒に朝食を食べた。かあちゃん、行ってくるからね。お母さんは、その日、悲しそうな表情をしていた。家の外へ出て、また声をかける。行ってくるケンね。お母さんは、行ってイラッシャイ、と言わなかった。ただ、やさしいホホエミを与えてくれた。それが別れだったのです。68年たっても忘れない。原爆、2度と有ってはならない。戦争も2度と起こしては、ならない。皆さんの時代には必ず平和になるよう、皆さんの努力で築いてください」。話した後、大きな疲れを覚えた。疲れはあったが、今日は、いい、役目を果たしたと、気分は爽やかだった。
2013年8月8日木曜日
病院へ。午後は韓国・テグの中高生たちを、冷菓で歓迎する
誰が、20年も、原爆の日になると、被爆者の母親の命日のために、お花を必ず送ってくれる人が居るだろうか。継続が、すばらしい。北九州の大神さんと、お母さんから、今年の夏も、お花が届いた。これが届くと、「ああ、原爆の日か、母親の命日か」と実感が湧く。もう、20年ですよ。きっかけは、長崎・原爆資料館で語り部を勤めていたとき、北九州から、小学生の修学旅行が来た。そのなかに大神さんがいた。原爆の話が印象に強く残ったという。感動した少女は、中学生になっても話を忘れず、千羽鶴を折ることを決意する。その千羽鶴を原爆老人ホームに修道士が運んで、お年寄り10人に配った。新聞の話題になる。あのとき以来、母親の命日になると、大神さんと、お母さんの名前で、お花が送ってくる。ありがとう。★午前中、からだの点検、病院へ。女医のお医者さんから、胃カメラで調べてもらった。腹部のCT。肝臓のエコー。血液検査。腎機能は、赤枠「3.8」だったのが、青枠「1.2」に好転していた。ふしぎなモンですね。まだまだ生かされております。★韓国・テグの中高生のため、アイスクリームを40個買って、準備している。5月に、韓国・永井隆博士・全国作文コンクール入賞者たちです。韓国で、いっしょに写真も撮りました。「待っていますよ」。午後、さっそく、彼らはやってきた。玄関で、記念の写真を撮った。中学生、7名、高校生、9名。数名の大人たち。冷房がきくホールで、アイスクリームを配った。皆さん、大いに喜んだ。よかったなあ。
2013年8月7日水曜日
サルも、木からスベリ落ちる。ジンセイには色々悩みあり
写真は、夏の花、サルスベリです。おサルが木に登っても、スベルのか、木が、スベスベしています。赤い花が咲いている。白い花の木もあります。東京・赤羽のサルスベリは、赤い木でした。「小崎サン、修道士でも、悩みは、あるんですか?」と聞かれた。「そりゃ、ニンゲンだもの、悩みや苦しみ、迷いも、ありますよ」。普通の修道士には、無いかも知れないが、小崎には、あります。①病気になれば、痛みがあり、行き先、不安になります。②周囲の人間関係も、気になるし、悩みになる。気が合う人ばかりではない。ニンゲンの住む所、必ず摩擦があり、強い、弱い、高い、低いが、ある。どの辺が、自分の位置か、それを分かって、納まれば、平和になる。③能力の悩みも、ある。劣等感というか、自信が持てない。弁舌がヘタだ。アタマの回転が、にぶい。仕事が、うまく、行かない悩みも、ある。④ある時は、教会で祈っても、答えが浮かばない。数えれば、悩みに、きりが無いが、ただ1つ言えることがある。お金や、モノに執着しない、シンプルな生活をするならば、悩みは少しは軽減されるようです。「弱いところ、ばかりでない。いい所も必ず有る。いい所を伸ばせば、それが、いい。希望を持って、少しは、他者のため、奉仕の生活がしたいと、考えては、どうか。そう願った朝でした。
2013年8月6日火曜日
20年前の新聞記事。原爆・語り部デビュー。今は引退
朝のお勤めを済ませ、食事の後、洗濯物を干しているとき、「ウー、ウー」とサイレンが鳴った。「ああ、8月6日、広島・原爆の日」と、手を合わせて、鳴り止むまで、アタマを垂れて、黙し祈った。「2度と、原爆が無いように」。その願いをこめて。あと3日たつと、長崎・原爆の日になる。思い出したよ。20年前の、この日。原爆の語り部となった。自分が体験した破壊力、多くの悲惨な死者と、助けを求めて叫ぶ負傷者たち。現実は余りにも厳しかった。「原爆を落とし、多くの市民を殺傷したアメリカは、なぜ謝らないのだ。ダメだよ、こんな武器を使っては。誰もが、そう思う」。その中で、行動した自分の行ないは、またザンネンだった。ニンゲンの弱さと言うのだろう。悲しい体験が、そこに有った。それらも含めて、若い少年・少女たちに、また青年たちに、語り継いでいこう。率直な願いから、語り部を10年ほど続けた。「死んだ者も悲しいが、生き残った者も、心に深いキズを受けたのです」。生きても苦難、死んでは悲惨だよ。結果として、よく、まあ、原爆を生き抜いてきたと思う。放射能より恐ろしいものは、この世にない。原発事故、2年が経過しても、まだ汚水が解決していない。1日も早い収束を望む。
2013年8月5日月曜日
からだの総点検をしてください。予約を入れましょう
朝から、泌尿器科の予約・診察へ。普通よりも、20分は早く呼ばれた。「なにか、気になることは、ありませんか」とお医者さん。「あります」。最近の状況を説明した。「胃カメラをしたのは、いつ頃ですか?」「10年前に、なります」「それでは、1度、診てもらいましょう」。内科の女医さんへ回された。上半身、裸になった胸に、ていねいに聴診器を当ててくれる。「こんなお医者さんは、めずらしい」と胸の中。複雑な病歴に、おどろいていた。内科を、1度、すみから隅まで調べてほしい。仲間の被爆者も次々に亡くなっている。女医さんは、パソコンで、次の予約の診察日を決めた。その後、血液を5本、たっぷり採取される。次は、レントゲンへ行き、胸のCTを撮影した。痛みがないのが、ありがたい。大腸ポリープも、何度か取った経験もある。遠い昔になる。なにや、かやで、1日は、暮れた。★ひまわりは、色紙に描こうと思って、撮影したものです。東京・亀有カトリック教会の庭の「ひまわり」です。
2013年8月4日日曜日
1週間前の日曜日は、東京・赤羽のミサだった。歳月、早い
1週間前は、赤羽でした。早いですね。教会に、信徒さんはイッパイで、祭壇には、ミサに奉仕する大人、子どもさんが、これ又、大勢おりました。祈りも、聖歌も、皆さんが声をあげて、心は、神さまへ、真っ直ぐに登って行きました。ミサの最後に、主任司祭・ニコラオ神父さん(アメリカ人)が、「長崎の、修道士、学者の人」と紹介があった。「学者」なんて、とんでもない、と思った。すぐ立ち上がって、周辺に目を泳がせ、ニッコリ笑って、礼をしました。食堂で、神父さんが、「なにも、言葉が、ないでしたね」「マイクが無いです。言わないです」。本当は次のように言いたいでした。「長崎・聖母の騎士の修道士です。聖コルベ館に勤めております。長崎へ巡礼に行きましたら、ぜひお立ち寄りください」。このミサの前と、後で、ブログを見てくださる人と、出会いを楽しんだのです。沢山、集まってくれた、と感謝している。★渋谷の佐藤さんからハガキがあった。「赤羽教会でお会いできて、本当にうれしかったです。できれば、もっとお話をお聞きしたかったです。頂いた色紙、飾らせて頂きました。大切にしますね。これからも、トマさんの喜び、悲しみ、笑顔、迷い、ひかり、闇、をブログにつづってください」★赤羽で、修道服で出会うか、シャツのまま出会うか、迷いました。修道服を持参して、良かった。正解だった。この1週間は悔いなく、東京の思い出の余韻で、生きております。
2013年8月3日土曜日
海風に吹かれて、気分は爽快。休みの1日を過ごしました
「オーィ、広い海だぞ。きれいな海だぞ。誰も居ない海だぞ」。クルマで門を出て、約25分で、いき付けの海岸に着いた。「夏休みだから、1度ぐらいは、泳ぎに行こうよ」。意見が、まとまって、7人で出かけた。何年ぶりか、な。例年通り、ここの海岸は、泳ぐ人は、チラ、ホラ。よかったね。「海に浸かると、カゼを引かない」を思い出して、「よし、海に入るか」。波にもまれて、「気持ちが、いいな」「夏ヤスーミ」と言った感じでした。本当に満足です。桟敷代は、1人、800円。スナック菓子、ウドン、オニギリ、焼きソバ、ハンバーガーを、売っています。お客は少ないから、貸切、みたような、もんでした。遠くに、薄く見えるのは、天草です。海風に吹かれて、大らかな気分になりました。東京へも行ったし、まだ夏休みの気分が抜けませんな。
2013年8月2日金曜日
原爆の日を前に、両親の墓参り。孤独に耐え生きるしかない
8月に入り、間もなく、9日の長崎・原爆の日が来る。毎年、この日だけは、忘れない。母親、クララ田川ワサの命日でもある。45歳。若くして、原爆の恐ろしい火に燃え尽きた。悲しいかな、遺体も、骨も、拾えなかった。残酷さに嘆いた日でもある。今年で、68年になる。父親の故郷、外海・黒崎の墓参りに出かけた。一族の墓は、集落の中央にある。もとは畑だった段々の丘を、教会の墓地にした。写真上に、遠くに見えるのが、地元で「城(じょお)」と呼ばれている岬の山。その向こうに、海・五島灘が広がる。この日の海は、青々としていた。遠藤周作の名作「沈黙」は、あの城(じょお)の傍らの海から、宣教師2人が夜陰にじょうじて上陸した。そこから物語が始まる。★8月9日は、母親の命日であると共に、1人の少年が孤児になり、修道士の道へ進んだ運命の日でもあった。神に呼ばれたわけだが、余りにも代価は深刻だった。17歳、自分で、行くべき道を決めた。少年の人生は、そこから本格的に始まったといえる。★クチに出して、言うたら、いけない。心のなかで、思うのです。ニンゲンって、孤独なんです。他人は、お前のこと、誰も気にして、いない。自分のジンセイだろう。自分で耐えるしか、ない。お前のジンセイ、満足だったか。満足して、死ねるジンセイが、幸いです。
2013年8月1日木曜日
旅の効能。出会いと、ホンモノに接し、自分の変身にあり
1週間の夏休み、東京から、無事に、帰って来ました。トウキョウ、と言えば、スカイツリーでしょう。そりゃ、ソバまで行きましたよ。行ったからには、登りたい。キップを買いに受付へ。「50分、待ちです」と言われ、しかも、その日は、「夜に、隅田川・花火大会があり、午後2時で終業ですよ」と念を押されて、「ダメだ」と、写真だけ撮って、あきらめました。それが、この写真です。★さて、旅を振り返って、イチバンの印象は、多くの人に出会ったことです。まず①赤羽の3人のフランシスコ修道者たち、お世話になった。次に、②ブログを見てくださる23人の出逢いです。嬉しかったね。喜んだね。皆さん、この修道士を見守ってくださる。修道服を着ていましたよ。ブログに前もって、出会った人たちに、「手描きの色紙を差し上げます」と書いていた。15人分を用意すれば、充分でしょう、15枚持参した。「足りなかった。貰えなかった人には、ごめんなさい」。③本所の95歳、93歳の老夫婦と家族たちにも出会った。長生きのパワーを貰いました。④中学・高校のときの同級生にも会った。幾つもの病気で苦しんでいた。知能明晰、弁舌さわやかだったが、ニンゲン、歳老いれば、こういうフウになるんだな、と孤独を感じた。「お互い、長生きしようや」と別れた。⑤最後は誰に出会ったって?自分自身だね。旅には、3つの効能がある。第1は、ホンモノを見る。第2は、現地の人と出会う。第3は、自分を振り返る。自分を好転させていく。旅に出ると、日常の細かい悩みが、本当に小さな出来事に感じられるのです。さあ、今日から聖コルベ館で、大らかな気持ちで頑張るぞ。