さあ、もう退院だ。退院は、いいよな。看護師さんの詰所の前を通る。「お世話になりました。ありがとうございます」。喜びと、感謝の礼を尽くしながら、前を通る。看護師さんたちが並んで、見送ってくれる。「また、お世話になります」。ついでに、言いました。よく来るからね。退院まえの、ひととき。ゆっくりした気分です。お医者さんも様子を見に来た。1泊なのに、ケッコウ、荷物が多いんですね。2人部屋は、代金が必要で、1日、2100円です。2日分の代金を払った。手術費用、クスリ代は原爆・被爆者なので無料です。助かります。退院するのは、うれしいですね。昼ごはんを食べて、準備して、2時に退院した。赤尾院長・神父さんがワゴン車で出迎えてくださる。お手数をかけます。やっと、聖コルベ館へ戻った。1泊2日なのに、なぜか、ながーい、感じがする。さあ、これから、また平常心で、励もう。もう12月で、今年もすぐに終わりだよ。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年11月30日金曜日
2012年11月29日木曜日
病院へ。今夜は入院。3ヶ月毎のステント管の入れ替え
病院から、予約されていた入院でした。腎臓から、ボウコウへ、管(クダ・ステント)が入っている。「3ヶ月ごとに取り替えましょう。術後、熱が出るかも知れないので、入院しましょう」とお医者さん。入院の度に思います。「恵みのなかで生きている。生きる不思議自分でも会得します。人は、なぜ来ない?恨まない。恵みがあるから、ガマンする。やっぱり、神さまに、この苦しみを捧げます。ほかに、捧げるものが無いでしょう。祈りか、善行か、犠牲か、この苦しみを捧げます。10時に病室へ。2人部屋だったが、空いていた。1人の住まいとなる。「運が良かった」と思うか、「お恵みだなあ」と思うか。運が良い、幸運だった、は偶然につながる。恵みだったと思うなら、神につながる。昼食なし。12時30分から点滴が始まる。1時30分、手術室へ。ボウコウから、器械とカメラを入れる。「痛ーたッ」。ここでもガマン。処置術の時間は、僅か。でも、イヤだね。2時30分過ぎには、車椅子で病室へ戻ってきた。小さい点滴を2本追加。夕食は食べていい。食欲がない。番外編の、にぎり寿司を食べる。熱は、7度どまり。ダイジョウブ。あしたは退院できそう。
2012年11月28日水曜日
オバマ温泉から帰る。途中で、幼稚園の神父さんを訪ねる
島原のオバマ温泉から帰る途中で、ブリ神父さんの幼稚園へ寄る。「サカナのブリだよ。タイで、ないよ」と言う面白い神父さんだ。「園児といっしょに写真を撮らせてください」。もちろん、魂胆があっての、お願いです。そのときの写真が、これでした。私が神父さんに、「今まで、色々勉強したり、話しを聞いたりして来たが、今、一番大切に思うことは、母から貰った教えです」と言うと、「そうだよ、そうです」と大いに共鳴してくれる。今は、11月で、死者の月だから、教会の祭壇の下に、最近,亡くなった信徒の写真を飾って、祈っている。その場所に、亡くなったポーランドの両親の写真も飾っている。「愛する両親だよ」。大切に見せてくれた。「お母さんの教えが基本です」とブリ神父さん。神父さんは幼稚園の園長をしているが、保護者や園児たちに教えている内容は、母から教えられたことだという。「神さまが、見ているよ」「善をすれば、天使は喜ぶ。天使が、金の棒で、ハシゴを作って、善が増えれば、ハシゴが天まで延びて行きます」。母の教えの根底は、選んだことなら、最後まで、ガンバリなさい」だった。間もなくクリスマス。恒例の劇は、普通は馬小屋だけだが、今度は、神さまと、アダム、エバの登場から始まるという。市民クリスマス会にも出るそうだ、見に行きたいな。
2012年11月27日火曜日
2日目。天草へ渡る。海の風は気持ちが、いい。素敵な島だよ
温泉の中日、天草へ。フェリーで鬼池に着くと、親友の男性が迎えに来ていた。終戦直後、聖母の騎士でいっしょだった。司祭になる前に、社会に戻った。彼の車に同乗して、天草の道を走る。海の風が心地よい。「神学校に残って、良かったのかのか、なあ」と私。修道士になっても、いろいろ悩みはあったからな。この道で、良かったのか。悩んだ時期もあった。特に、歳を取ってからね。それに答えて、同じ歳の彼も言った。「社会にあっても、いろいろ、あるさ。いい会社につとめ、幸せな結婚をしても、ニンゲンは変わって行く。幾ら懸命に働いても、家庭のどこか気持ちが違ってくると、ボタンが掛けはずれだよ。ハタンしてしまう。一流の会社に勤めても、家族が幸せにならなければ、「なんの、ために、はたらく、のか」。疑問だけが残り、人生は悲しいし、寂しいよ。1度きりのジンセイだからね。誰もが幸せにならなければ、意味が無い。まだまだ、やり直しも出来ると思って、新しい土地で、もう1度、頑張ってみよう。そんなハナシを延々と熱っぽく語り合った。こんなに素晴らしい天地の天草に来て、知り合いに出会うのは、ありがたい。これからも縁をつづけて行きたいと願った。フェリー乗場で、キップを買ってくれる。コートを脱いで、私にくれる。「オイ、オイ、こんなものまで、いいのかよ」「2枚、もっている。小さくなったから」。みやげに、手製の、つるし柿、カンコロ・もち、など呉れた。「ありがとうよ」。ああ、楽しい1日だった。
2012年11月26日月曜日
オバマ温泉へ。死したーの言葉と、湯に、ゆら、ゆら、葉っぱ
2泊3日で出かけます。途中で、シスターの修道院へ寄りました。畑の仕事を終えたのか、1人のシスターが姿をあらわした。黒い衣服に、アタマには、大きな円のヒサシがついた帽子を被っていた。「どこから?」と聞かれたので、「長崎の聖母の騎士の小崎です」と、はっきり言った。よく聖コルベ館でも聞くが、合格の返事は余り無い。すると、シスターが、しげ、しげと見ながら、「ああ、よかった。お元気そうね。ああ、よかった」と大いに喜びを表すではないか。ポカンとなった。温かい思いが伝わってくる。瞬間に思った。ああ、このシスターは騎士誌を読んでいるのだな。最近は、具合が良くないと書いてある。なのに、こんなにゲンキなの。「ああ、良かった。安心した」と、こうなる。それが伝わってきた。思ったね。院長さん、校長さん、偉いシスターは毎日、忙しく、ヒマもないだろう。影で、修道院を支えているシスターは1日の仕事が終わって、祈りも終わって、少々の時間がある。夜のひと時、テレビも見ないし、安価な、騎士誌を手にとって、記事を読んでいる。小崎修道士の記事も、そう大したことは書いていないが、時には面白いこともある。「心配していたんだよ」。ああ、そうだ、このようなシスターが他にも居て、読んでいるかも知れない。ありがたい。少しは、ましな事を書くようにしよう。オバマ温泉の定宿、富士屋さんに着くと、露天風呂に早速、入った。1枚のハッパが、湯に、ゆら、ゆらと、ゆれているではないか。「ろてんぶろ、浮き沈みする、もみじかな」
2012年11月25日日曜日
バッテン、ナガサキ、何とかの町。明かりも寂しくなったよ
夜は、全く、外出しないが、共同の会食があるとういうので、思案橋へ出た。以前と比べて、明かりの華やかさはない。ヒザの痛みを押さえて歩くうちに、昔のことを思い出した。その頃は、若者たちが多くて、修道院でも何かの宴があると、流行歌など歌って欲しいなど、言われた。昔のハナシだよ。流行歌といっても、最近の歌は知らないし、ある先輩は、入る前に覚えた歌を歌った。それが「バッテン、ナガサキ、恋の町」というのだった。それを、ふと歩きながら思い出した。なぜか、「バッテン、ナガサキ、恋の町」を記憶している。口ずさんでいる。その先輩も、ホームで静養して、歌も歌えぬようになった。ニンゲン、老いると、悲しいよね。先日、外国人が私に言った。漢字の「恋ネ。あれ、ダメね」「どうして?」「心が下にあるでしょ。シタ・ゴコロだよ」「なーる程」。恋だ、愛だ、といっても、所詮、不完全なニンゲンが行なうこと、いろいろ行き違いも出てくるだろうよ。やすらぐ愛、目をつぶっていても、何か、ふんわりと感じる愛が欲しいのは、誰でも、そうだろう。
2012年11月24日土曜日
皆さんから声をかけられる。ダイジョウブですか?ええ、大丈夫
金祝、銀祝に、多くの皆さんがやってくる。私も、もちろん、カオを出すわけだが、なるべく、気持ち的に、ピシャっとして、振る舞いも堂々と、歩きも、スイスイと、ゲンキな風に、装っている。私を見ると、いろいろと、声をかけられる。「入院していたの?」「ダイジョウブですか」「騎士誌を読んでいます」「会いたいでした」「カオ色はいいですね」「少しカオが、ムクンデいませんか」「〇〇の教会から来ました。前に、記事を書いてもらいました」などなど、です。やっぱり、調子が良くないようです、と言われると、こたえますね。「いいや、大丈夫ですよ。ゲンキです。いまが、調子はいいようです」なんて、答えています。心配してくれるのは、ありがたいですね。
2012年11月23日金曜日
修道会の金祝、銀祝。見知らぬ人の祈りのおかげですてくれた
お祝いがあった。誓願を立てて、50周年。金祝の修道士が、2人。合わせて、司祭叙階25周年の銀祝者が2人。大勢の人々が集まり、祝賀のミサ、その後、ホールで祝賀会が行なわれる。皆さん、おめでとう。司祭として、25年を過ごすのは、大変だったでしょう。苦労があったでしょう。華やかな祈りのミサが行なわれた。金祝の修道士は、ミサに与り、感謝し、祈っていた。祝賀会で、修道士の親戚・縁者は誰も居なかった。最後に各人が挨拶したが、私には修道士の淡々とした話が胸を強く打った。「50何歳で、ブラジルへ宣教へ出かけた。50年前に、何も知らずに、コルベの名前に惹かれて、ここに入った。最近、ある夜、ふと思ったことがある。これまでレールの上を走ってきた。しかし自分は何を功績にたてただろうか。何も無い。何もないのに、つづけてこられた。これは皆さんの祈り、特に、私の知らないところで祈ってくれている人がいた。その人の隠れた祈りで、今の自分があるのを強く感じた。そして感謝した」と、このように淡々と語った。すばらしいハナシであった。「エライ」「偉い」と心のなかで私は叫んだ。78歳になると、老いて、シワのよった顔の修道士の胸に、大きな赤いお祝いの花が飾られていた。これからも健康に気をつけて、長生きして、神さまのため生きてください。祝いつつ、祝賀の豪華な料理をパクパク食べて、後は知り合いの人たちと、語った。
2012年11月22日木曜日
聖女セシリアの記念日。神父さんのお姉さんの名前の日
ルーマニアのペトロ神父さんは、私と仲良し。数日、長崎で過ごしていたが、もう間もなく東京へ戻るという。それではと、2人だけで、食事に行った。牛肉と野菜の煮込みソース料理を食べる。ペトロ神父さんは喜んで、最後まで食べてくれる。食後に、アンミツを注文した。この日が、あたかも聖女セシリアの記念日にあたっている。2年前、ペトロ神父さんと別れの食事をしたのも、聖女セシリアの記念日だった。予期しないのに、こんなに重なるとは、面白いなと思う。こういうご縁が、実は私は好きなんだ。そして物語も出来る。ペトロ神父さんは双子で生まれた。もう1人はお姉さんで、名前が「セシリア」。この日がお祝いになる。食事の後で、私はペトロ神父を郵便局へ連れて行った。そしてルーマニアの姉の家族のため、若干だが、お祝いを郵送した。ルーマニアの経済は苦しいという。月に、数万円で暮らしていると聞いた。喜んでもらえると思う。ペトロ神父さんが喜んでくれた。「お役に立てば、うれしいさ」
2012年11月21日水曜日
忘れずに、訪ねてくれた家族。困難にめげず、幸せに
「18年ぶりです」と、1家族が訪ねて来た。おどろきの声を上げる。名前を聞いて、思い出した。私も覚えており、名前で「ピン」ときた。いつぞや電話をかけたが、不通になっており、心配して、心にかけていた。「ああ、よく訪ねてきたね」。忘れていないのが、うれしかった。18年前のことを語り始めた。「ここに来て、原っぱのようなところで、弁当を食べた。(多分、ルルドの広場か?)。小崎さんも家に来てくれて、泊まった。木造の教会は今でもミサが行なわれている。家族のなかでも、いろいろ有ったという。結局、「信仰があったから、今がある、救われた」。代々にわたるカトリック。長崎から高速を使って、1時間半ぐらいの町に住んでいる。「人は自分だけで幸せになれない。皆がいっしょになって、協力し合って、幸せになる。先祖が神に出会って、私たちはそれを学んだ。その幸せの体験を持って、家族を保って行きたい」。この世の中には、分からないことが、沢山ある。人間が考えて、歴史で伝わってきたことを、信じるしかない。それで幸せになれば、それでいいではないか。
2012年11月20日火曜日
1年前は、シャキッとしていたな。老いに、負けるな
もう、夕方の4時半だよ。1日が過ぎるのが、ほんとに早いね。聖コルベ館で、あれや、これや、しているうちに、もう、この時間になった。何を書けばいいのか。迷いました。ふと、去年の今日、11月20日は何をしていたのだろう、そう思って、写真の積み重ねを見ると、この写真だよ。カッコウいいじゃないか。白内障の手術の後で、視力がよく見えるようになったので、メガネ屋さんで、新しいメガネを作ったところでした。さあ、世の中を、良く見るぞ。そんな気持ちだったかな。あれから、1年。ああ、いろいろ有った。考えただけでも、身震いするよ。入院、6回だからね。それでお、イノチ、もらった。ありがたい。過去の苦しみ、もう1度って、そうね、ホンネを言えば、もう、ケッコウ、そんな感じです。
2012年11月19日月曜日
イシトク神父さんの家族の話。聖コルベ館へ来て、熱く語った
イシトク神父さんが、家族の写真を見せてくれた。上は、両親の写真。助祭になったときに写した。母親は、6年前に、亡くなった。父親は、3年前に、亡くなった。今度、ルーマニアを出てくるときには、もう両親は居なかった。寂しいよ。その気持ちは、分かります。下は、双子のお姉さんと、ダンナさんと、子供たちです。彼が、司祭になったときのお祝いの写真です。お姉さんが、背が高い。彼は、ほんとに背が低い。「生まれたときは、どうだった?」「生まれたときは、自分が、2.900g。姉が、2.800gあった。自分の方が、少し、おおきかった。13歳のときから、どういうわけか、背が伸びなくなった。兵隊検査のとき、150cm以下は、アウト。彼は、149cmあった。本当はアウト。しかし隊長が言った。お前が希望するなら、入れるぞ。オレも男だ。入隊したい。それで1年間は兵役を務めた。司祭の道に進むとき、背が低いと、許可にならなかった。しかし後で。許可が出た。アジアに宣教へ行くのが、夢だった。それで、日本へ来た。司祭になって、15年。もう、日本で、宣教したい」と、聖コルベ館へ来て、家族の写真を見せて、熱く語った。「人生には、3つの、Sが必要だ。サルーテ(健康)。シェンツア(教養)。サンチティタ(聖性)だよ。これは神学校で、教えられ、目標にしてきた。社会でも、同じさ」「応援しているから、日本語、がんばれな」。43歳、まだ若い。これから、充分、働けるよ。
2012年11月18日日曜日
ルーマニアのオミヤゲだよ。ありがとう。素敵な織物だ
イシトク神父さんが、オミヤゲをくれた。きれいだなあ。ルーマニアの手織りの布だよ。テーブルに敷いてもいいし、椅子の背もたれに掛けてもいい。記念になるよ。ありがとう。感謝の言葉は、ルーマニア語で、なんというんだ?「・・・・・」。言葉が通じないのが、難点だな。イタリア語なら、ルーマニア人には分かるらしい。イタリア語も知らないもんな。長崎の言葉で、「小さい」は、「コマか」という。「大きい」は「フトか」。コマくても、頑張る気力は人には負けないぞ。もちろん争う気持ちは無いけどね。まだ、イシトク神父さんの詳しい正体は分からない。興味はあるよ。ルーマニアにも行ってみたいね。イシトク神父さんに案内されてね。★弁舌、さわやかで、率先して、自分の意見をしゃべる人がいる。うらやましいと思うよ。自分には、そんな弁舌の豊かさは、ない。しかし、しゃべっても、信用できない人もいる。そんな人には、なりたくない。オレにだって、いい所もあるさ。いい所を伸ばしていけばよい。自分の場合、人の話を聞いて、「ああ、ヨカ・ハナシ・ばいね」と思って、ピリ、ピリっと来ると、それを、まとめるのは、ウマイんだよね。その手で、愛の領土を広げていけばいいじゃないか。あせることは、ないさ。そう思いつつ、閉館しよう。
2012年11月17日土曜日
相棒の神父さん、ルーマニアから来たよ。仲良くしようぜ
「来たーッ」。お国は、ルーマニアから、イシトク神父さん。2年ぶりだよ。「いらっしゃい」。オレと、兄弟のようなものだ。今朝、朝食の後で、食堂で、写した。「なんーだ。オレより、少し、小さくなった、じゃないか。背の高さなんて、どうでも、いいさ。ルーマニアって、どこにある国なんだ?知らないよ。まあ、よく来たね。日本が好きになって、日本で、生活・宣教したいんだって。いい、ことさ。がんばってな。しばらくは東京に居て、日本語を勉強するんだろう」。こんな兄弟に会うと、心もなごむよ。仲よく、しようーぜ。イシトク神父さん、双子だそうだ。お姉さんは、ぐーんと、1・5倍は背が高いんだって。神父さんは、心が優しく、声が小さい。もっと、大きな声を出せよ。気合を入れよ。まあ、ぼち、ぼち、親しくなろーぜ。ちなみに、地図をみると、イタリアの東が、アドリア海で、ユーゴスラヴィアがあって、その東が、ルーマニア。人口は、2300万人で、宗教は、ほとんど東方(ルーマニア)正教会。カトリックは少ない。しばらくは、長崎で、ゆっくりしなさい。
2012年11月16日金曜日
千客万来。いそがしい。カラダは1つしかないよ。イラッシャイ
昼食の後で、入浴する。高原・修道士さんが介護。風呂を洗って、お湯を溜め、カラダをってくれる。最近はゲンキになったが、一時は、フラフラして、一人での入浴は危なかった。高原・修道士さんが世話をして、もう2年はなるだろう。介護師の免許を持っているので、手際がよい。今日は、高原・修道士さんの「誕生日」と言った。日ごろ、お世話になっているからね。すぐ、バースデイ・ケーキを買いに行って、感謝の気持ちで贈った。昼食どき、いっしょに食事。みんなで、手を叩きながら、ハッピ・バスデイを歌った。何歳に、なったか?って、それは、ヒミツ。今日は、いろいろと、忙しかった。お客さんが多い。韓国の巡礼団も来るしね。やっと、片付いて、聖コルベ館に庭先に出ると、このカゲだよ。ちょっと、珍しいね。ながーく、尾をひいた夕方の影絵。おもしろいな、とデジカメを出す。夕日は静かに、稲佐の山に落ちていく。何事も、なく、平凡に暮らすのが、幸せさ。
2012年11月15日木曜日
声に、ゲンキあり、カオ色も、いいよ。カラダの調子どう?
いま、大事にしているものは、何ですか?人によって、いろいろ、あるでしょう。私は、健康だね。1日、1日、生きているわけだが、やっぱり心の片隅で思うのは、長生きはしたい。生に固執している。みっともないですかね。生きておれば、楽しいことが、あるからね。何事も、あんまり、とらわれ過ぎると、悩みが、多くなる。ものは、簡潔が、いい。沢山は、持たないようにしている。部屋には、道具が、そんなに多くは、ない。あの人も、この物も、頼りに、しない。自分は、自分です。短い人生ですね。我が道を行きます。固執から、離れると、楽になります。でも、やっぱり、健康は、ほしい。幸い、最近は、カラダの調子は良いようです。暦をめくる中で、生活だけを、考えるか。一歩、踏み込んで、人生を、考えるか。どっちですか?あくせくと、毎日を生きているわけです。もっと自分を見詰めよう。声に、ゲンキがある、と言われる。カオの色が、いいね、と言われる。大丈夫じゃないか、とも。これまで病気や、ガンと言われて、落ち込むことも、あった。真剣になるからね。イノチのことだから。その苦難を、どのように受け止めるか、です。それが人生を考えることです。考え方で、心も、人生も、左右される。「み旨のままに」と、本当に受け止めることが出来れば、恐れはないでしょう。不安にも、ならないだろう。考えてみると、ボクの人生、経験したキーワードは、人間の本性の、助けない、困難が来れば逃げる。敵なる人間は許さない。孤独、病気、ガン、愛と、イノチ。ポーランド、ジンクーエン(ありがとう)だった。
2012年11月14日水曜日
横浜から女子高校生たち、200人が、コルベ神父の愛を学ぶ
長崎へ、修学旅行のゲンキな女子高校生たち。聖コルベ館で、コルベ神父の愛を語って聞かせる。皆さんは、修学旅行の前に、事前学習で、『十七歳の夏』を購入して、読んで準備した。ありたとう。うれしいよ。だから話しにも、熱が入るよ。「話を聞いて、心に残ったことは?」と尋ねると、「ジン、クー、エン(ポーランド語で、ありがとう)」「よく覚えていたね、他には?」「コルベ神父さまが、47歳で亡くなったと聞いて、お父さんが、この歳で亡くなると、悲しいと思いました」「愛があるところ、敵がない。敵がなければ、戦争はない(永井隆博士の言葉・永井先生はコルベ神父さまのお医者さん)」など語ってくれくれました。「ああ、よかったね」。この学校が聖コルベ館に来るようになって、30年近くなる。生徒として修学旅行で、聖コルベ館に来た人が、卒業して、大学に進んで、教師になって、この同じ高校に勤めた先生が、数人もいる。この学校の特徴は、200人、4クラス。聖堂で全員が、「アレルヤ」の歌を、素晴らしい声で合唱した。例年のことながらも、心に残った。それだけ旅行の歴史があるわけです。★実を言えば、泌尿器科の診察・予約の日だった。朝から白浜さんの運転で、病院へ行く。別に変わりはない。月末に、ステントを入れ替えましょう、とお医者さん。調子は良好です。スカ、スカも出ないし、と報告した。
2012年11月13日火曜日
歳をとったぞ、もう、ガミ、ガミ、言うな、ゲンキでな
気持ちは、そう、なんですね。この歳だから、難しいこと、ゴテ、ゴテ、書きたくないよ。それより、かわいいこと、優しいこと、うれしいこと、そんなことを書きたいと、思うよ。だが、これが、わりと難しい。そんなアイデアは簡単には、浮かばない。この間、幼稚園のかわいい子供たちが来て、アメを配った。「こっちの、カゴから、1つ、取りなさい」「あっちは、2つ、ね」。3歳児の年少組になると、これが簡単には出来ない。マゴ、マゴするんですね。また、それが、かわいいところに、なる。いま、悩んでいる。騎士誌の原稿、2013年、来年の1月号を書かねばならないが、「信仰年」ですよ。何を書くべきか。迷っている。1月号を書くと、12月まで連載しなければ、の考えになる。85歳だよ。運転もヤメ。原稿も、そろそろヤメ。それで、いいのでないか。たいしたことは、書いてはいない。難しいことは、書けません。どう、すべきか、悩んでいるところです。
2012年11月12日月曜日
大挙して、巡礼グループ来る。全く、珍しい出来事だよ
「ああ、いらっしゃい。こんなに、1つの教会から、まとまって、巡礼に来るなんて、最近では、全く珍しいことですよ」と、大歓迎しました。九州・福岡のある教会の皆さんです。片道、バスで、2時間はかかりますね。聖コルベ館に来たのは、夕方で、もう最後の巡礼地、帰るところでした。全員で、54人。中型バス2台でした。いちばんお年寄りは、85歳の女性。お元気でした。1つ、上だよ。「ボクが、負けるな」。いちばん歳が若いのは、上の写真の、文太(ぶんた)くん。2歳。洗礼名は「マキシミリアノ・マリア・コルベ」です、とお父さん。コルベ神父の霊名を持っているなんて、うれしいね。「なぜ、コルベって、つけたの?」。お父さんが答える。若いときから、コルベ神父さまが好きでした。「文」は、お父さんが新聞記者だから、文をつけた。「正しい人になってほしいですね」と、またまたお父さん。小3の兄と、小1の姉がいる。「疲れもせずに、よく頑張ったね」。何か、記念になるものは、ないか、と考えた。さっと、思いつかない。こんなときのために、準備しておかないとダメだなと、反省する。結局、マンガの「焼けたロザリオ」を贈呈した。「大きくなったら、また、おいでよ」。去り行く皆さんに、大手をふって、別れを告げた。
2012年11月11日日曜日
騎士誌を読んでください。ルルドの水で、ゲンキになった
聖母の騎士誌の12月号に原稿を書きました。今年は、タツ年で、正月には、今年は自分の年なので、がんばるぞ、なんて決心していたのに、ニンゲンって、なにがあるやら、わからない。今年は、6回も入院して、苦しみをなめ、コテン、コテンにやられました。苦しみも、稔りのうち、と言うけれど、実際、現実に苦しみのドン底に落ちると、美辞麗句は通じない。それでも、神の御手に快く委ねることにしました。どうも、水が良くなかったのか。市販の水を買って飲み続けていたが、すっかり止めて、ルルドの水を飲むのを、一点張りで頑張った。おかげで、全く調子がいいのです。ゲンキが、モリ、モリ、出てきたのです。ルルドのお水は、「タダ」だしね。こんなに、いい水は、ない。まろやかで、口あたりが良くて、匂いもない。水は、ドン、ドン、出ているしね。「マリアさまのお恵みだよ」。素直でなかったのが、玉にキズ。これからは、すっかり改心しました。さて、原稿の記事ですが、好きな言葉が、5つ、ある。①生かされて、今日も、祈る。②「主よ、ここに居られますか」。③苦しみは、神の喜びに、変わる。④「神は愛なり。イノチなり」。⑤受ける恵みに、与える愛、です。
2012年11月10日土曜日
セルギウス修道士さんのゆかりの地にお花を飾ってください
聖コルベ館に、埼玉の女性から、立派なお花が贈られてきた。手紙が添えられて、「セルギウス修道士さんのゆかりの場所においてください」とあった。ポーランド人のセルギウス修道士さん(上の写真)が亡くなられて、2年。2010年12月16日に、103歳で神に召された。覚えてくれて、お花を贈ってくださる方がいらっしゃるんですね。ありがたいです。セルギウスさんは、コルベ神父さまを慕い、愛し、語りべになっていましたから、お花は聖コルベの小聖堂に飾りました。(下の写真)。きっと、セルギウスさんは天国で喜んでいるでしょう。女性は小学生の頃、長崎に住んでおり、セルギウスさんに、度々会っていたそうです。「友人といっしょに、遊びに行き、セルギウスさまから、英語やポーランド語を習ったり、ドーナツを作ってもらったり、畑の手伝いをしたり、楽しい日々を過ごさせていただきました」「教皇さまが聖母の騎士に来られたとき、途中で立ち止まり、私の頭と頬をなでてくださいました。うれしかったよ、とセルギウスさまに話したところ、記念のロザリオをくださったのです」。ロザリオは大切な宝だそうです。人には、いろんな思い出があるんですね。届いたお花を飾りながら、幸せになってくださいと、祈りました。「誰もが、幸せになりたいと願っています。幸せは、どこにあるのでしょうか。それは物質的な富や、宝物や、名誉、名声には、ありません。それは本当の自分を知り、自分を高め、人生を突きぬけ、越えていったところに存在します。幸せは、自分自身のなかに、求めなさい」。103歳を生きたセルギウス修道士の言葉です。
2012年11月9日金曜日
ゲンキが出るぞ。子供たちのパワー。仲よく、するんだよ
幼稚園の子どもたち。70人あまりが、来た。子どもは、ゲンキでなければ、な。これが信条。「コルベ・シンプ・サーマ」「ゼノ・サーン」「マリア・サーマ」。何事も、ゲンキさ。当然、こちらも、エキサイトする。気力が、ワシ、ワシ、湧いてくる。玄関で、あいさつ。ホールで、絵本から、お話し。子供たちの目が、キラキラ、輝いている。聖コルベの居室に案内して、「これが、コルベ・シンプさまのツクエだよ。さわって、ごらん。パワーをもらうんだ」。ここで、みんなで、お祈りして、お歌をうたった。ゲンキな声で。「コルベ・シンプさまが乗ってきたお船だよ」。長崎丸の模型がある。「船長さんの居る場所は、どこかな?」。子どもの夢もふくらむ。みんなで写真を撮って、アメのオヤツをもらった。2つのカゴがあって、「ハイ、こちらから、1つ。こちらは、2つ」。「アメの賞味期限は、来年までだよ」。こんなところにも、気をつかう。子どもは、「ワイ、ワイ」、楽しいなあ。こちらも、楽しいさ。幼稚園の子どもは、まだ純粋だからね。「負けては、おれんぞ、こっちも、ゲンキを出さねばね」。70人に、アメを配って、ホットしたよ。また、おいで。
2012年11月8日木曜日
中学生が理解できる言葉で語ろう。何が、インパクトになるか
関西の中学生が、120人、平和学習にきた。張り切って、話をする。中学生だから、そんなに難しい話はできないだろう。ポイントは、コルベ神父は、なぜ、身変わりの愛を貫くことができたか。常識じゃ、考えられぬことだ。これを中学生が分かるように、どのように語ればいいのか。考え、探る。話す時間は、30分ほど。信仰のことを言っても、通じないだろう。感動しないだろう。思い余って、まとめたのが、次の3つだった。コルベ神父は、①人の痛み、苦しみを分かる心を持っていた。②お礼を求めない心を持っていた。お礼を求めない純粋の愛。③悪に負けない心を持っていた。この3つを強調した。男性が、死刑を言い渡されたとき、「妻よ、子どもよ」と叫んだ。痛む心、悲しい心がある。では代わってあげましょう。男性は、代わってもらったとき、「ありがとう」とお礼を言わなかった。ナチの所長が私語禁止していたので、言えなかった。それでも「大丈夫だよ。安心しなさい。心配いらないよ」と、コルベ神父。お礼を求めない愛があったから身代わりもできた。餓死の地下室で、最後まで生きたことは、悪に負けない。平然と、祈り、励まし、みんなを見取るまで生きた、がんばった。ナチに負けない。悪に負けない。君たち、中学生だから、これからの人生で、いろいろ、あるだろう、しかし悪に負けるなよ、人生に、勇気を持て。そんな気持ちで語ったわけです。中学生たちの心に届いたであろうか。
2012年11月7日水曜日
聖母の騎士。ああ、あそこですか?山ですね。コルベ神父の聖地
彦山(ひこさん・400m)の裾野に見える「聖母の騎士」です。蛍茶屋の電車の終点・停留所から降りて、山を見上げると、「ああ、あそこに」と、すぐ分かるんですね。右の方から、教会、修道院、聖コルベ館、学校が順をおって建っている。印刷の騎士社は、陰になって、わからない。山の近くに見えるので、見学者は近道をして、墓場に迷い込んでしまうんですね。国道の歩道を、まっすぐ、登ってきたほうが、いちばん、いいのです。コルベ神父がこの地に開いたのは、昭和6年、1931年でした。私が最初に来たのは、1941年。10年後ですね。コルベ神父時代の木造・建物が、そのまま残っていた。その頃は、このあたり、夜になると、真っ暗でした。じょじょに建物が近代化し、周りの雰囲気も、すっかり変わりました。若い頃は、歩いて、この坂を、上り下りしたものです。夏など、聖母の騎士に、冷たい井戸があって、水を飲むのが楽しみでした。時代と共に、ヒトの心も、世の中も、変貌したように思います。信仰年は始まりましたが、信仰とは何ですか?宗教とは何ですか?宗教とは、「善く生きる指針と、チカラ」なんですね。コルベ神父の愛は、貫いて行きたいと願っています。
2012年11月6日火曜日
むかしの思い出。1人旅。長崎ベンで、東欧ぬすっ人をゲキ退
思い出した、むかしの話しですけどね。ヨーロッパの列車には、ローカがあって、各部屋があるでしょう。駅に、列車が着いたので、ボクが乗った。すると両脇から、少年とも、青年ともいわれぬ男が入ってきて、はさみ打ちになった。ボクのカラダには、カメラ、バッグが下がっていた。金目のものだからね。地元の人じゃない。他国から流れて来ているジプシーかな。ボクのソバにきて、奪い取ろうとする。ゴウトウだよ。取られたら、タマランね。お客は目に入らなかった。荷物を奪われたら、アウトだからね。思わず、叫んだ。身を守る方法だった。「ナンバ、スット、カッ」(なにを、するの、かッ)。長崎ベンは、きけたね。大声で、わめいたので、強盗は、びっくり。オジケずいて、急いで、降りて、逃げて行った。「ざまー、みろ」。安泰だった。1人旅は、恐ろしい。油断が、ならぬ。一瞬、何が起こるやも知れぬ。それにしても、強盗たちは、ナンバ、スット、カッは、なんて聞こえたんだろうね。よく聖コルベ館に、東欧1人旅をしてきた、という人が見学にくる。最初に聞くのは、「1人旅ねえ、ダイジョウブだった。スリや、ぬすっ人に会わなかった?」。心配になって尋ねるよ。「大丈夫でした」「ああ、それなら良かったね」。旅は危険がイッパイだよ。
2012年11月5日月曜日
子どもの喜ぶ品々を買った。ヤル気が出てきたぞ。構えの姿勢
夢がある。昨日、町へ出たとき、買った品物です。かわいい風車は、聖コルベ館に、幼児がきたら、「さあ、あげるよ」と、回して見せる。プレゼントする。すると、子どもは喜ぶからね。黄色いワンちゃんのメン、これも使う気持ちがある。絵本が、いい。コオロギは、カマキリや、トンボ、リンゴさん、セミなど、いろいろな小動物に出会うが、返事が出来ない。かわいそうだね。最後のページを開けると、「チ、チ、チ」と、コオロギが実際に鳴き出すんです。仕掛けが、してある。そこが、いいんだな。クマさんは、「何、見ているの?」「アヒルを見ている」。アヒルはウマを、ウマはカエルを」ネコに、イヌを。最後には、お母さんを、となる。親子のキズナを深くする。意味深の、絵本を買いました。もちろん、やる気があるか、どうか。近々、使おうとしているので買いました。前向きの気持ちになってきたから、「ヤルばい」
2012年11月4日日曜日
楽しい計画を1つ持つと、ヒトは明るく生きられる
日曜日です。午前中から、町へ。気晴らしに出かけました。たまには、いいでしょう。本の買い物をして、昼食は、長崎和牛を食べました。思わず写真を撮りました。「おいしそうだな」。この間、長崎で、全国和牛大会があって、長崎の和牛も入賞したのです。自慢していい、長崎県産の和牛です。食感がいいですね。1枚の焼肉が、手のひらの2倍ほどもありました。びっくりした。キャベツが敷いてあり、肉汁が、下のご飯に、たっぷり、染み込んで、色が着いていて、ご飯がポロポロ、うまく、箸に乗らないのです。1.800円でした。さて、牛肉を食べた後は、野村万斎の、ヒョロ、ヒョロ、映画を見た。時代劇。農民を抱え込んだ小さな城が、大軍の関白軍を見事にやつける話しですね。フ、フ、フと、暗闇の中で、笑いましたよ。日曜のせかい、満席だった。「農家を大事にせよ」。そんなイメージもあった。ぐっさん、の演技が抜群だった。万斎は能を舞うんですね。外に出ると、雨が降っていた。帰ったのは、3時頃です。いつぞや、聖コルベ館に来た、悩める女性に、こう言い聞かせた。「苦しいとき、なにか、いいことを1つ、考え、望むんです。すると気持ちが楽になる。励みになる」。これは本当です。ちょっと、町へ出て、外食して、映画を見る。少しは、のんびり、楽になったようです。「ヒトは、1つでも、楽しい計画を作っておくと、明るく生きられる」
2012年11月3日土曜日
墓参り。誰もが、老いて、病んで、死んでいく。覚悟あれ
11月はカトリックで、死者の月。墓参りに出かける。長崎・浦上の赤城のカトリック墓地にある。修道会、司祭・修道士の納骨堂。39人の修道名・名前が刻まれている。連なる故人の歳を見れば、私より歳上の故人は、5人いた。「みんな、若くして召されているのだなあ」。いちばん若い故人は、18歳。彼は神学生で、同級生だった。いちばんのお年寄りは、有名な、103歳で亡くなったセルギウス修道士さん。殆どの故人を知っている。ただ、2人だけ、戦争中に亡くなった修道士と、シベリアへ抑留されて亡くなった神学生だけを、知らない。自分も古いニンゲンになったといえる。いろんな死に方の思い出が浮かんでくる。夕食に焼肉を食べて、満足して、その夜、「イエス、マリア、ヨゼフ」と唱えて亡くなった者もいる。なかには「死ぬのは、怖い」といいながらも、92歳まで長生きした修道士もいる。「誰が、いちばん、価値ある生き方をしたか、天国へ行ったらわかる。この世の価値と、天国の価値は違うもんな」と言った者もいた。死んでしまえば、みな善人だよ。彼らの安息のために、ロザリオ1連を祈り、サルべレジナを歌った。死者のため、祈りながら、考える。「これから先に、課題が、3つある」。その1、老いていくこと。その2、病気に耐えること。その3、安らかに死ぬこと。歩んできた人生は長かったが、これから先の人生は短い。信仰の基本は、そもそも何か?①神の存在を信じること。②聖書の出来事を信じること。③永遠のいのちを信じること。見えないものを信じて生きるか。見える確実なものだけ掴んで生きるか。納骨堂を前にして、秋の日差しを受けていた。
2012年11月2日金曜日
長崎のヒトは皆、親切ですね、と旅の女性はほほえんで言った
50代の女性が1人で、聖コルベ館へ見学に来た。「2泊3日の旅です。あした、帰ります」。長椅子に腰掛けて、旅をねぎらうと、女性が言った。「長崎のヒトって、みな親切ですね」「え?どうして?」。女性が言うには、きのう、長崎へ着いて、いちばん最初に、かの有名な「チャンポン」を食べた。店に入って、「おいしかったですよ」。サイフをあけて、チャンポン代の支払いに、1万円札を取り出した。店の人に渡した。すると店の人、「1枚、くっついていますよ」と、1万円札を戻してくれた。新札だったので、重なっていたらしい。「戻ってきて、ああ、ありがたい」。女性は、東京だったら、こうは、行かなかっただろう、そのように、つぶやいたようだった。旅の初めだからね。女性は感激したわけだ。「長崎のヒトは、みな親切ですね」と、こう、なった。「ああ、よかったね」と思わず、よろこび、ほほえんだ。1人旅が、皆というわけではないが、背中に重荷を抱えたヒトもいるだろう。そういう人が旅の合間に、心が折れては可哀想だよね。長崎のチャンポンは本当に、オイシイ。旅の女性との話は、長々とつづいた。いい思い出つくって、帰ってください。
2012年11月1日木曜日
11月が始まる。さあ、これから冬の期間、4ヶ月頑張る
長崎・黙想の家の食堂にあった小さなご像。ふと、目にとまった。さて、今年は、タツ年で、私の年。がんばるぞ、と張り切っていたら、6回も入院して、ダメージを受けた。やっと、なんとかして、立ち直った。そして、11月1日を迎えた。いまの心境は、「11月」「12月」「1月」「2月」の、4ヶ月を、頑張りたい。冬の期間にあたる。老人は、寒さに弱いから、この期間を、なんとか、ガマンして、乗り越える。なぜ、4ヶ月かというと、4ヶ月経った、3月1日は、誕生日で、85歳になる。1日、1日、イノチを与えられるのは、うれしいです。生きている。呼吸している。喜びを感じる。昨日は韓国人の巡礼者たちが、閉館まぎわに、夕暮れに、27人来た。ガイドさんは「自分が初めてです」という。初めて来て、ガイドが、なんで出来るのか、と少々、クビをひねったが、手助けして、説明して、ガイドが訳した。普通は、説明はしていない。ビデオも見せて、全員で写真も撮って、最後に、歳を言うと、みな、手を叩いて喜んでいた。みなが帰った後は、満足した気持ちになった。「それで、いいーのだ」。生きているから、よろこべる。イヤな気持ちも、キズつき、ツマズクこともあるが、また、いいことも、あるよ。
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