2018年6月30日土曜日

若さは、もう戻れない。タンタンと生きております

今朝、ミサのとき、豪雨となる。激しい音が包み、雷光が2、3度、ステンド・グラスに閃いた。もう梅雨も終わり頃だろう。写真は、洗濯物です。朝、肌着やシーツを洗濯場の入口に置いておくと、昼前には、このように立派に仕上げてくださる。洗濯職員さんの心遣いが嬉しい。
★朝、体操の後で、入浴した。6月も今日で終わる。「早いものだね、今年も半分は終わった」。入江さんと、他に男性1人が入っていた。入江さんは「耳が遠くなった」という。男性は、「7月で、まる2年になる。このホームを50年前に建てた神父さんは、偉か人ですな。いい場所に建てた」と満足そうに体をこすっていた。
★ここ10日間に、2人の女性が亡くなった。2人とも100歳だった。その中の1人は、私が入所したとき、既に車椅子だったが、自分で車を回して、廊下や事務室前を小マメにゆったりとした時間を過ごしていた。耳が遠いのが難点だったが、話好きの女性だった。「自分は若い頃、心臓が弱かった。四国の八十八箇所巡りをして、丈夫になった」と誇りにしていた。最近、食事中の姿を見たが、「顔が小さくなったな」の感じがした。数日の内に、逝去した。2人ともカトリックではない。1人は、ホームの湯江教会でカトリックのお通夜、お葬式・告別式をして、見送った。1人は家族が眠る姿のまま、車で引き取った。皆さんとは祈りの中で、玄関でお別れをした。
★今日の昼食です。「鶏肉のバーべキュゥ風、野菜の酢味噌添え、野沢菜づけ、豆腐・わかめ汁、スイカ」。それに「カステラ」が付いていた。故・100歳の家族さんからですと知らされた。
★100年を生きる。戦争、食料難、敗戦の混乱、人は時代にもまれて、なおも生きる。あの若さは、もう戻れない。あの汗は、もう出ない。涙も出ない。タンタンと、生きております。風呂に入り、洗濯を頼み、介護を受けて、生きております。ただ、ただ「ありがたいです」

2018年6月29日金曜日

瀧憲志神父さんの「ペトロ」のお祝い日。おめでとう

聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日。ペトロ瀧憲志(たき・けんし)神父さんの修道名のお祝い日です。今朝の湯江教会でのミサは、瀧神父さんが司式しました。両脇に、院長の浜田神父さん。園長の山内神父さん。「瀧神父さん、おめでとう」。ホームの1階、瀧神父さんの部屋の近くに、談話室があり、小祭壇が置かれている。その場所で、写真に撮りました。昭和6年5月生まれ、87歳になられます。ホームには昨年の4月に入所。まる1年2ヶ月が過ぎました。
★「日記」にも、時々、瀧神父さんが登場するので、皆さんもお名前はご存知でしょう。司祭叙階は、昭和40年3月、53年前になる。金祝は、長崎・聖母の騎士修道院でお祝いされた。トマの誓願金祝と一緒にお祝いました。
★「ホームに来て、楽しみは何ですか」「日帰り旅行だね。去年は大村に水仙を見に行った。今年も大村・三彩の里でした」「何か、考える事って、ありますか」「毎日のように振り返る。これまで大勢の人に、支えられてきた。司祭の務めを十分に果たしていない思いもある。ここに来て、一番いいのは、24時間、自分の時間です、反省できる」「愛読書は、ありますか」「教皇フランシスコの講話集だね。毎日、1話づつ読んで黙想している。希望、喜び、慰めを与えられている」「司祭になってのモットーは何ですか」「仕えられる為ではなく、仕える為、イエスさまの御言葉だね。だが、その通りに成らなかった。反省している」「健康の方は、大丈夫ですか」「座っていると、いろんな可能性を考えるが、歩いて、動くと、キツイね」
★トマも、瀧神父さんが来られて、心強くなった。朝は、ミサで、午後は、ロザリオで一緒に祈り、食卓も隣同志で一緒に語り合い、近くに居られるので安心です。瀧神父さんは話上手で、話題に富むから学ぶことも多い。トマも、瀧神父さんも、いつまでも元気で居たい、そう思う今日でした。皆さんも見守ってください。
★今夜は、隣の修道院へ、瀧神父さんとトマも夕食に呼ばれている。6時、アンゼラスの鐘と共に、6人(司祭3人、修道士3人)で「教会の祈り(晩の祈り、寝る前の祈り)」を唱えて、お祝いの会食になります。

2018年6月28日木曜日

「赦す心」今の社会で本当に赦せるか。安易ではない

絵は、しおうら・しんたろう・作の「焼けたロザリオ」マンガの1部です。原爆の日、負傷者の中に、私を叩いた、イジメた先輩工員が、重症を負って横たわっていた。それを見下ろして、17歳の私は言った。「いい気味だ。ざまーァ、みろ」。原爆の話の時に、いつも「助ける心」「逃げない心」。そして「赦す心」を説いている。私は許さなかった。でも、赦さなければ、平和は来ない。この話をするとき、先日、小学校で話した時もそうだった。「果たして、人間は赦せるのか」。これの話をする時、いつも心に『わだかまり』抵抗を感じている。
★いま社会では、余りにも事故、事件、詐欺が多い。「何となく」とか「誰でも、よい」感覚で、他人を殺し、傷つけ、ダマす、事件、事故、オレオレ・サギ。被害者の身になって考える時、「絶対に赦さない」「赦せない」と叫ぶのは当然であろう。だから、原爆の話でも、「赦す心」を言う時、チカラ強くは言えないのです。一般常識では通用しない問題でしょう。子供たちに話す時、いつも、ひっかかる。だから、その時、はっきり言う。「イジメは、ダメだよ」と。
★社会の常識では、赦せない。許して、いいのか。本当に、赦せるか。殺傷されたら、被害者は、本当に赦せるか。当然、社会では赦せない。もし赦せるとするならば、常識を超えないと、赦しは、ない。もう、相当むかしの話だが、民放のテレビが、カメラと共に来た。「カトリック信者の被爆者を取材したい。原爆に遭ったとき、どう感じたか、発言して欲しい」。原爆を落としたアメリカ軍も憎かったが、いま出会った、私を叩いた、この先輩が憎かった。カトリックだって、怒った。憎んだ。しかし我々の先祖は、迫害されても、憎まず、怒らず、耐えて受けた。そういう信徒たちも居た。だから、この苦難を受けて、耐えて、これから明るく頑張ろう。そう思ったが、勿論、打ちひしがれた人も居たのは事実です。それは当然のことです」。私は、テレビに映るのを拒否した。テレビは残念と言いつつ、帰っていった。
★いま、テレビが来たら、どう言うだろう。「憎んで、当然。恨んで、当然。仕返ししようと思って、当然。だけど、コルベ神父のような人もいる。人間には、とても出来ない。しかし出来る人もいる。そこに人間に失望するのでなく、希望がある。常識では、出来ない。常識を超えなければ、人間には出来ない」。そう答えて、出来た人を示すだろう。私も、そういう人になりたい。

2018年6月27日水曜日

ホームの1日ドライブ。大村を廻る。楽しさイッパイ


昨日は、語り部で疲れたが、1晩眠ると、ゲンキが出た。ホームの日帰り旅行です。春と秋の2回しか実施されない。もちろん参加しました。ゲンキなうちは動きたい。ホームのバスで、園長神父さん入れて職員は5人。皆さんが11人。滝神父さんも同行しました。行先は「大村」です。★「三彩の里」では、皿か、コップに、絵付けを行なった。トマは、皿に、こんな絵を描きました。「あれ、90歳なの?」。女性職員からの、そんな声も聞こえた。1ヶ月後に仕上がり届けられるそうです。職員も入れて、皆さんの作品が出来るのが楽しみです。園長神父さんは何を描いたのかな?
★昼食は、和風の食事処で、ゆっくり休憩して、戴いた。「花、さん、さん」という店です。既に足元に電気が灯っていて、これなら夜になると雰囲気の出る店だろうな、と想像できる。天井が高く、床の間、障子に畳敷きで、机に椅子の接待でした。長い廊下があって、縁側があって、緑の木々が茂っている。心が安らぐ気持ちです。外国人は喜ぶでしょう。料理も普段に見ないお造り。火を燃やして、鉄の輪に器を乗せて、よく見るでしょう。大抵、牛肉か豚肉か、野菜を煮て食べる。それでは、なかった。器に、珍しくチーズ。火で温めて、野菜を混ぜて、最後にパンで奇麗に食べる。美味しい料理に満足しました。足は、ヨロ、ヨロ、だが、生きておれば楽しい事はイッパイある。
★「道の駅」にも、2ヶ所で、トイレ休憩をした。トイレには苦労するよ。ボウコウ・ガンで、袋が小さいからトイレが近い。念のため「おしめ」をはめて、用心していたが、未使用で大丈夫でした。老人は、これだけでも苦労するから、安全なら楽しく安心する。9時にホームを出て、帰りは3時30分でした。男性職員の1人が運転する。ご苦労さまでした。安全運転で、春の楽しみも無事に終わった。
★昨日は、小学校。今日は、ホームのドライブでしたが、この後は、しばらく、ゆっくり過ごせるでしょう。

2018年6月26日火曜日

小学校で「平和学習」原爆体験の語り部を努める


あいにくの雨でした。高原修道士さんの運転で、飯盛西小学校へ向かった。45分かかった。ゆとりをもって準備しました。小1から小6年まで、70人の小学校です。体育館に皆さんが集った。10時からでしたが、7,8分前には全員集合した。「小1の時に、お父さんが病気で死んだ。兄弟は居ない、1人っ子。お母さんと一緒に楽しく暮らしていた」。皮切りの言葉です。お母さんの話は皆さん大好きです。子ども達の目の輝きが素晴らしい。久しぶりに子ども達への言葉です。チカラも入るね。小1の子も黙って聞いている。絵を見ている。原爆の日の朝、お母さんと一緒に起きて、朝食も食べたのに、夕方、帰ってみると、家は燃え尽き、お母さんは居ない。原爆の風で吹き飛ばされ、死んだ体も見つけない。「悲しいよ、ね。どうして?戦争だったから。原爆が落ちたから。2度と、戦争、原爆が有っては、ならない」。隣の家の3人の女の子の話もしました。どこもケガをしていなかった。「よかったね」と思ったが、恐ろしいのは「ほうしゃのう」です。小さい子から次々に死んでいった。「悲しいよ、ね」。話の最後に、またお母さんが出てきた。お母さんの声がした。「困った人を助けなさい」「困難があっても逃げない人になりなさい」「赦す人になりなさい。これが一番難しい」「イジメはダメだよ」。平和は、こういう心の人が広がる処にある。「平和のモト、原点といいます。平和の原点は、人の痛みを分かる心にあります」。小6年の中に、1人の女の子がいました。高原さんが、東長崎・幼稚園のバスの運転手をしていた時、この女の子は園児として、バスに乗って通っていました。その子が小6になって、この小学校で高原さんと女の子は再会したのです。人が成長していく。本当に、よい再会ですね。この女の子にとって、幼稚園も、バスも、今日の話も、きっと忘れないでしょう。女の子、いいカオしているね。高原さんも。

2018年6月25日月曜日

叱りとばしていた中3の頃の思い出。そうか、な?

今年の1月、ポーランド国外務省から名誉勲章を貰った時に、NHKのニュースに出た画面です。次の説明があった。「17歳の時、被爆した小崎さんは、原爆によって家族を失った後、昭和初期に長崎で布教活動を行なったポーランド人のコルベ神父が、長崎市へつくった修道院へ入り、50年以上にわたって修道士として、コルベ神父の生き方や自らの被爆体験を伝える活動を行なってきました」
★左の写真は、小神学校入学当時の、昭和21年春、中3の同級生たちです。私は中1、13歳から病気で、回復後は爆弾作り工場の工員だったので、中3で、18歳でした。後列の一番左、メガネが私です。
★当時、どんな中学生だったのだろうか。自分で書いたのでなく、後年、同級生の1人が書いた記事が残っている。それを今日は書いてみます。
★「田川幸一(小崎)の最初の記憶は、炊事場と小神(学校)の食堂の間の空き地で、ジャガイモをむきながら、中1を叱りとばしていたことである。以来、彼の姿の焦点は、いつも下級生を叱りつけているところに定着する。しかし彼ほど下級生に慕われたものも少ないのは不思議である。彼の得意は、理数科。彼に頭があがるものはなかった。それに字がうまかった。ペンでも、毛筆でも、もってこいだ。彼はよく下級生にスズリの水を汲ませたあげく、「よし、そこにおいて、さっさと出て行け」とシリをけとばしていた。M(のちに神父)など、この手で何度もけられた組である。負けん気で、卒業の時、優等賞をボクにさらわれて、口惜しがった。他の賞状で、机を叩いていたのを、昨日のように思い出す」
★シリを蹴飛ばしたのは、「ホントウか」と思うが、日頃の態度が好ましくなかったので、先生から見込まれず、優等賞は逃した。他の賞を貰ったのは覚えている。戦争をくぐり抜けた9人の同級生だったが、神父に残った者は3人、私が修道士として残った。テレビに、こんな写真が出るとは、本当にびっくりしたよ。

2018年6月24日日曜日

高原修道士さん、おめでとう。お世話になっています

朝、5時過ぎに、教会の扉を開けたのは高原修道士さんでした。私は1番のりに入った。玄関で「高原さん、おめでとう。アンタの、修道服姿の写真、撮ったことが無かったね。ここで撮ろう」と写したのが、この写真です。今日は日曜日だが「洗礼者聖ヨハネの誕生」の祭日をお祝いする。洗礼者ヨハネ高原晃(あきら)修道士さんの修道名のお祝い日でもある。
★朝、6時のミサの司式は、滝神父さまでした。ミサの初めに、高原修道士さんの修道名のお祝い日です。高原さんのために、お祈りを捧げましょう、とお知らせがあった。
★高原さんには、いつもお世話になっている。毎度の病院行きには、車の運転を頼んでいる。買い物や、入院中の介護や、若さがあるから(と言っても、59歳です)、頼りにしている存在です。登明日記にも、度々「高原修道士さん」の名前は出てきます。ホームに入居の際から、高原さんには本当にお世話になっています。
★熊本の出身で、高校卒業後、社会で働いていた。熊本のシスターの勧めで、聖母の騎士修道院へ入った。今は湯江修道院で奉献生活をしている。毎月、私が長崎へ定期のクリニックの診察へ行くとき、運転の高原さんから、車の中で、お父さんの話を聞かされます。
★今夜の夕食には、湯江修道院でお祝いの会食があるでしょう。

2018年6月23日土曜日

眼科と歯科の治療。今週は多忙だった。来週に期待

「何事にも、クルマ。車」。運転しないので、お世話にならないと生きては行けない。「まつお眼科」で、右の目をレーザー治療をして1週間目、高原修道士さんの車で送ってもらった。「長崎に用件がある」と、帰りのタクシー代を渡して、車は去った。眼科の受付は、ホームの職員さんが順番を取ってくれていた。4番目だった。眼圧、視力の検査。右の目の視力は回復していた。白髪の先生の診察を受ける。右眼の「カスミ」は取れている。先生へ告げた。「ナミダが、よく出るんですけど」。先生は、液が入った注射器を右眼に刺した。「痛ターい」。液が鼻へと流れぬけた。左眼も、同様にした。涙腺が詰まっていたのかも知れない、と思った。幾分、ナミダの流れは止まった。帰りのタクシー代は、ホームまで、3.700円だった。
★今日は、午前中、歯科へ行く。ホームの職員が送ってくれた。ここの歯科は、1時間はかかる。歯の磨き方を検査して、丁寧に教えてくれる。差し歯と、被せ歯は何本かあるが、32本、全部揃っている。歯は大事にしたい。2本、抜きたい歯があるらしいが、「痛みもないので、そのままにして欲しい」と願った。歯石や汚れを落として、洗浄して、仕上げてくれる。終わってホームへ電話する。迎えに来てくれた。15分かかる。丁度、昼食の前だった。「お帰りなさい」「お帰りなさい」と何人からも声がかかった。
★今週は色々有った。月曜に、飯盛西小の女性先生が「語り部の申し込み」に来た。火曜は、小長井の山の修道院で昼食会があった。水曜は、長崎・ヨゼフ・クリニック診察。木曜は、修道会の集会。金曜が「まつお眼科」。土曜が、歯科。
★さあ、来週の火曜日が、小学校の「語り部」だ。張り切って、努めるぞ。楽しみだ、な。

2018年6月22日金曜日

修道者が21人集った。祈り、喜び、笑い、楽しむ

不思議な雲が現われた。コンベンツアル聖フランシスコ会では、お互いを「フラテル(兄弟)」と呼ぶ。兄弟のような雲がワゴン車の窓から見えた。1人、1人が兄弟だ。
★昨日は、修道者たちの集いに参加する。湯江からは、ワゴン車に、6人が乗った。会場に着くまでに、40分はかかる。その間に突然、見た雲の姿だった。皆んなは兄弟。その集まりに車は走る。会場はカトリック信徒のレストランだった。いつもお世話になる店で、奥に特別席がある。4地区、長崎、東長崎、湯江、小長井から、21人がにこやかな顔を揃えた。
★先ず、全員で唱える「教会の祈り(晩の祈り、寝る前の祈り)」。この時が一番楽しい。やっと修道士に戻れる。祈りの声も揃うが、心も揃うのを、しみじみと感じる。最後にラテン語の聖母賛歌「サルべ・レジナ」をチカラ強く歌った。本当に気持ちが、いいよ。
★働く場所は、それぞれが違う。教会(3)、幼稚園(2)、高校(1)、老人ホーム(1)、養護施設(1)、他に、修道院の印刷所=騎士社、志願院、修練院、聖コルベ記念館などがある。報告があり、各人のお知らせがあった。湯江の院長・浜田神父さんは、「谷村神父と、村山修道士を神の御元へ見送った。お祈りや協力に感謝します」と述べた。次いで東京から転任してきた水浦征男神父さんは、先日行なったアシジの巡礼と、東京で「北原怜子(さとこ)」さんの小さな資料館が出来る。200万円が必要です。北原怜子さんの列福運動は、コンベンツアル会で促進すべきです、と強調された。
★「トマさん、何か無いですか?」と請われたので「昨年、湯江小で語り部をして、湯江小の先生が飯盛小に転任したので、語り部を頼まれ、来週、努めます。いま自分に必要なのは『気力』です。『気力』は失いたくない」と告げた。
★修道士は、兄弟の修道者と一緒に、祈り、笑い、飲食し、希望を語るのが一番の幸せです。むかしの思い出、バカばなしで盛り上った。そのように17歳から何十年も生きてきた。幸せを、生き甲斐を感じてきた。ホームに居るのは寂しい。だが、ホームの生活も、いいんだな。自室に戻ると、落ち着くんだな。ホームにも幸せは、あるよ。

2018年6月21日木曜日

「はな」ちゃん、来る。こんなに育ち可愛くなったよ

「はな」ちゃん、覚えていますか。昨年の10月に載せた。それ以来です。ホームの職員、絵里さんの長女。絵里さんは北海道の出身。高校卒業後、何かに導かれるように、長崎へ。18歳でホームの職員となった。21年前です。3年前に、湯江教会で結婚式を挙げた。皆さんから祝福された。日記にも載せました。平成28年3月2日に、はなチャンが生まれる。「こんなに成長しました」。満2歳と4ヶ月になる。
★子どもの成長って早いね。「はな」という名前が、優しくて、いいね。呼びやすいし、書きやすい。ホームで幼児の声や動作を見ると、ホホがほころびる。
★昨夕、夕食後、自室でくつろいでいると、「はなが、来たよ」と絵里さんが連れてきた。「おお、来たか。待っとったぞ」。はなチャンは、広い廊下をゲンキよく走り回る。先日、磨きをかけて、ワックスを塗ったばかりの廊下だからね。子どもの「アンヨ」には、冷たくて、心地よいのだろう。「こっち、来なさい」。こないんだよ、な。目が輝いている。夢がある。希望がある。「はな」ちゃんの成長が楽しみです。どんな女の子になるんだろうね。「はな」ちゃんも、ここは、ジイチャン、バアチャン、ばかり居て、おかしいな、と思っているんだろうね。そのうち、ここは、どこだい?ママは、どんなお仕事?しているか、わかるよね。
★今日は、2ヶ月に1度の、本会修道会4地区の合同集会があります。午後3時に出かけます。20数人位の本会の修道者が集り、祈りを唱え、お互いの地区の報告をして、夕食を共にする予定です。ホームに帰るのは、夜の9時頃でしょう。

2018年6月20日水曜日

診察日。雨の中を長崎へ。帰りの会話に、ギョギョ


定期の診察日。長崎市へ。雨が激しい日になった。梅雨前線の刺激であろう。この日の朝食は、いつも修道院でお世話になる。ホームの朝食は、8時15分からです。8時には、高原修道士さんの運転で、出発します。「朝食後のクスリを飲むのを忘れないように」と看護師さんから念を押される。湯江修道院のヨゼフ橋口修道士さんも一緒だった。降りしきる雨の中を車は走る。1時間程で、ヨゼフ・クリニックへ着いた。雨の影響か、待合室に患者さんは3,4人がいた。早々と、先ず「橋口ブラザー」と先生の大きな声で呼ばれる。橋口修道士の診察は、余談が多いと自慢する。次に、私の名前と「ブラザー」と声がかかる。診察室の壁には「聖ヨゼフ」の聖絵。コルベ神父がポーランドから持参した由緒ある聖絵で、高木先生が開院のときに贈った。今も掲げられている。クリニックは聖ヨゼフと幼いイエスに見守られている。患者も安心です。「心電図を撮りましょう」と先生。大学医学部で心臓外科専門の先生だった。お任せすれば、心臓に心配はない。「ブラザー、心臓は上等だよ」「不整脈はないですか」「大丈夫だね」。私の後で、「高原ブラザー」が呼ばれた。
★診察は早めに終わった。橋口修道士さんは用件で別行動になった。高原さんと2人、車は雨の中を走る。行きの気持ちは重いが、帰りはホッと楽になる。2人の会話もはずむ。信仰の話も出る。洗礼の話になった。「洗礼を受ける人が少ないね」「家族や、宗教の違いもあるからね」「でも進んで働きかけないと、効果は出ない」「信頼されることが必要だね」「洗礼、センレイ」と話ていると、横にトラックが追い抜き、雨にぬれたガラス窓の向こうに、なんと、トラックに「センレイ」と書いているではないか。「オイ、見ろ。センレイ、だぞ」。あたかも洗礼を勧めるかのように、タイミングよくトラックに文字が現われようとはーーしばらく「センレイ・トラック」と並んで走った。その不思議さに、2人は車の中で大笑いした次第でした。

2018年6月19日火曜日

9人の修道会員が集った。楽しい昼食と会話だった

小長井町の修道院で、昼食のご馳走があった。湯江から2台の車で出かけた。山へ向かって、10Km。樹々に囲まれて、養護施設があり、教会、修道院がある。集ったのは、9人。(小長井の3人と、湯江の6人=司祭が5人、修道士が4人)。ベルナルディノ萩原神父さん、パウリノ山下神父さん、洗礼者ヨハネ高原修道士さん、3人の修道名のお祝いのご馳走だった。修道者の経験を重ねて、話題も豊富だった。
★この修道院へ来ると、トマには昔の思い出が湧き起こってくる。2度にわたって、この修道院で暮らした。
★最初は昭和29年から11年間で、その時は療養のためだった。体が回復すると、小・中学生たちに理科や算数を教えた。男子ばかりの施設で140人が居たから、毎日が事件の連続だった。忘れないのが、夏休みに、東望の海で、小舟の漕ぎ方を教えた。山の中の環境だから、退屈になった4,5人が、一団となって施設を抜け出し、海辺の町に下りて、小舟を盗んだ。有明海に乗り出し、海上で御用となった事件もあった。あの頃は「自分で生きる」迫力に満ちた子どもが多かった。
★次は、昭和60年から6年間であった。施設の中に私立の小・中学校があって、毎日、学校に勤務した。小学校に児童50人、中学校に生徒50人が居て、賑やかだった。山の空気が澄んでいて、森の精気があったのだろう。1日も休まない。健康に恵まれた。町の小学校4校の合同運動会で、投げる競技で記録をつくったり、走る競技で一等になったり、全国作文では建設大臣賞になったり、子ども達の間に、楽しい思い出が沢山できた。中学生の女子は郡の合同バレーボール大会で活躍した。
★今は施設は静かな、たたずまいを見せている。子どもの人数も少ないという。樹木だけが生い茂っている。おナカは満腹になり、胸には清らかな空気をいっぱいに吸って、山を去った。

2018年6月18日月曜日

いよいよ小学校で原爆・語り部の出番が来るか

「車で、40分、かかりました」と、飯盛西小学校の女性の先生が、お1人で来られた。小学校では「平和学習」の担当をしておられる。ホームの応接室で、運転の高原修道士さんも同席して聞いた。
★先生の説明によれば、この小学校では、6月の最後の週を、平和学習に当てている。26日、火曜日の午前中に、児童たちに、「原爆の語り部をお願い出来ませんでしょうか」と申し込まれた。興味は「どうして私の事を知ったのですか」である。昨年、湯江小学校で、語り部を努められたでしょう。その時、話を聞かれた男性・先生が、飯盛西小学校に転任されて、知りました、の返事だった。
★昨年の湯江小学校が、最後の語り部になると思ったのに、こうしてご縁をつないで下さるのは有り難い。1年が経って、やはり体力というか、口元のガク・リョクというか、劣っているのは確かです。それでも声がかかるのは有り難い事です。頑張りますと、引き受けました。
★原爆の体験者で語り部を努める人は、90歳以上は、もう殆ど居ない。このまま核兵器の恐怖を忘れ去っていいのか。今の核兵器は、私が体験し、見て、感じた、すさまじい威力よりも、何十倍も、何百倍も増加している。もし核兵器が爆発したら、人類はどうなるか。その恐ろしさを後世に伝えて、反対して行かねばならぬ。
★子ども達の心に、小さな灯かりが点もれば、幸いです。題は、「助ける心、困難が来ても逃げない心、赦す心」。これらの心が、学校に広がれば、集落に広がれば、都市に広がれば、日本に、世界に広がれば、地球に平和は来るでしょう。心は大きく持ちましょう。
★平和の原点は「人の痛みを分かる心を持つこと」にあります。
★今日の日記の書き込みは夕食後になり、遅くなりました。

2018年6月17日日曜日

父の日、父を想う日。北朝鮮に父の墓。墓参は不可

今朝の日の出です。ミサへ行こうと、自室を出たとき、廊下から、丁度、素晴らしい日の出を見ました。5時20分頃でした。日曜日のミサで、司祭が「父の日」でもあるのを告げました。家族の父親、天の御父の事にも触れました。
★今日は自分の父親の事を考えました。「とうちゃん、なんで、早よー死んだと」。小1で、7歳のとき、父は出稼ぎの地、北朝鮮・羅津で病死した。46歳でした。朝鮮の墓は、お椀を伏せたように土を盛るのです。今、あの墓が、どうなっているのか、分かりません。戦後1度はお参りに行きたかった。叶いませんでした。
★父親の名前は、松吉。霊名は、トマ。明治22年7月25日、外海・黒崎村で生まれた。貧しい農家の3男でした。電気はなく、吊り下げる石油ランプの家は上等の方で、一般は『ことぼし』という灯火の生活でした。『ことぼし』とは、細長い木の上に灯油のカンを乗せた灯です。電気が点いたのは戦後でした。長男だけを家に残して、次男、3男、4男は北朝鮮へ出稼ぎに行く。
★浦上出身の母と、どうして縁があったのか。黒崎の父の姉が、隣の男性と結婚して、出稼ぎへ朝鮮(韓国)で商売をしていた。母の方も、姉が結婚して、夫妻で朝鮮(韓国)で商売をしていた。母は、結婚前に、その家に子守の手伝いへ行っていた。父、松吉は、その縁で、見合いに朝鮮へ出かけた。「朝鮮へ見合いに行って、相手は目の細い女だった」という話が、黒崎の家に残っていた。確かに母は、目が細く、丸い顔をしていた。
★父、松吉と、母、ワサは、大正15年(1926年)3月13日に結婚した。父は、37歳。母は、26歳。11歳も年の差があった。結婚式を挙げた頃の写真が1枚残っています。父親の写真は、これ1枚しかない。母が立っており、父が座っている。父は足に少しばかりの障害があったそうです。父親の死後、母親は苦労した。10年後、その母親も、故郷の浦上で、原爆で行方不明となった。45歳でした。父親の遺骨もない。母親の遺骨もない。外海・黒崎の墓には、この1枚の写真を納めています。
★90歳になったトマは、父親トマ松吉に言いたい。「なぜ、とうちゃんは、はよー死んだとね。とうちゃんの思い出、なんーも、なかよ。サビしかバイ。とうちゃんから、なーんも教えてもらわん、やった。かなしかバイ。それでも、北朝鮮の墓に眠って、とうちゃんもサビしかろう。かわいそうや、ね。祈りは忘れません」

2018年6月16日土曜日

父の日の集い。優しいお父さん。女性職員たちの熱演


父の日の集い。皆さんが食堂に集まる。全員で「バラが、咲いた。真っ赤なバラが」を歌った。飲み物と、ミルキー・クリーム・パンを食べて、次に期待し楽しみにしているのが、(母の日は、男子職員の演技だったが)、父の日は、女性職員の出番でした。演目は「6人の放蕩ムスメ」。聖書の「放蕩息子」から取った。父の日ですから、お父さんの物語です。黒メガネがお父さん。お腹が大きい。お金持ち。「6人も女の子が居るが、ヨメにも行かず困ったモンよ」。優しいお父さんは、6人のムスメに大金をくれて、旅に出した。帰ってきた6人は、スッカラ、カン。ボーっとして、お金を失う。オレオレ・サギに会う。イケメン男と遊ぶ。ハラ・ペコになって食べないが、痩せないよ。様々な理由を抱えて、お父さんの元へ戻って来た。優しいお父さんは抱きかかえて赦してあげるンですね。ここで拍手喝采だよ。「お父さんの愛に支えられ、過去のアヤマチは何度でも赦され、心も元気になっていくのです」との解説で締めくくられた。人は何度も過ちを犯すが、父なる神さまは「7度を70倍するまで赦してくださる」。赦されて、立ち上がって、前へ、神さまの方へ進むのです。最後に男性だけに、お花をもらった。小さなカードもあった。名詞の大きさで、黄色いリボンで結ばれ、周囲の飾りの中に、2行の字が書かれていた。「きょうは素直に、ありがとう」

2018年6月15日金曜日

レーザー治療、イッパツで見える。感動の日だった

昨夕、丁度、夕食の時でした。食卓の傍に、看護師さん、栄養師さん、高原修道士が(屋外)に居た。その時に、事務所の職員が、毎月、ホームで診てもらっている女医さんから、「まつお眼科」への紹介状が届いた。「これは幸いだ。早い方が、いい」。今日、診察に行くことに、看護師さんと高原修道士さんと話が決まった。
★「まつお眼科」は患者さんが多い。診療開始の9時には、4、50人の患者さんで待合室は満席です。栄養師さんが、早朝に、順番表に、私の名前を書いてくれるという。今朝、ミサ後、自室に、スピーカーが知らせた。「順番は、4番です」。8時過ぎの朝食が終わって、高原修道士さんが車で「まつお眼科」へ。着いたのは9時だった。もう47番目まで名前が連なっていた。私の名前は、4番目にあった。
★初診なので、1枚の紙に、状況を書いた。しばらく待つと、視力検査、眼底検査を終わり、順調よく診察室に呼ばれた。「7年前に、両眼の白内障の手術をしました。最近、左の目がカスンで、よく見えません。本が読めません」。真っ白の髪の多い先生。「長崎は、どこですか?」「本河内です。聖母の騎士です」「山手の方ですね。行ったことが、あります。○○神父さん」と言ったが、その名前の司祭は居ない。黙って頷いた。「レーザーで治療しましょう」。(え?もう、するの?)内心、ちょっと驚いた。しばらく待合室で待っていた。看護師さんが、2度、点眼にくる。別の部屋へ導かれる。目を診る機械が並んでいた。奥の席で待っていた。白髪先生が来られて、「浦上は、どこですか?わたしは山里小学校の近くです」「え?私は山里小学校の門の前ですよ」。(なんで、こんな話になるんだろう?)。レーザーの治療が始まった。赤い線が走る。「ボリ、ボリ」と音がした。なにか網を切っている感じだった。2分ほどで終了した。「1週間後に、診せに来てください」「目薬は?」「いま使っている薬で、いいです」
★11時に、「まつお眼科」を車で出発した。車内から、左目を閉じて、風景を見る。「おお、カスミは取れているぞ。目は元に戻ったぞ。神に感謝」。新聞の題字も、見えなかったのに、題字は勿論、文章の活字も読めるようになった。「こんな事って、あるんだな」。感動したよ。昼食のとき、看護師さんが食卓に来た。報告すると、喜んでくれた。栄養師さんが女性職員さんに連絡して、その人が「番取り」に行ってくれたそうです。高原修道士さん、看護師さん、栄養師さん、番取りの女性職員さん、ありがとう。皆さんのお陰で、スムーズに行きました。
★こうして半日で、右のカスミは取れて癒されました。グット、デイ、でした。

2018年6月14日木曜日

落ち込んだ時に受けたアドバイス。ヒトリ、これ大事

苦境にあって、自らの人生を振り返ったとき、「あれを成した」「これを果たした」。それらの自慢が、なんと、ツマラヌものなのか。実は、なにも成してはいない。苦労して働いた日々は、沢山のアワに思えた。ニンゲン、なんの功績があるか。誇れる実りがあるか。霊的にも落ち込んだ。
★あるとき、私はふと思い直した。「私が働いたのではなく、神さまの恵みが働いた。神さま、バンザイ。神さまに感謝。それで、いい」。我は、無益のシモベなり。
★その折だった。私にアドバイスした長崎出身の司祭がいる。司祭の言葉が、私に生きるチカラ、希望を与えた。その言葉が、次のような件(くだり)だった。「神さまから『イノチ』を戴いて、神さまに生かされて、神さまにお返しする。弱さも、あったろう。自分の無も知る。ひとえに、すべては神の恵みだったことを知る。神さまは、トマさんに存在を与えた。神さまは、トマさんを通じて、(沢山、書いているでしょう)、他の人に恵みを与えた。弱さはあったにしても、神さまは、この人との目的があった。神さまは、賢い。沢山、ニンゲンが居る中で、トマさん、ヒトリ、(この、ヒトリ、が大切だよ)、見つめておられる。トマさんも、ヒトリで、神さまを見つめる。神さまに呼びかけて、助けを求め、自分が無であることを、告げてください」
★落ち込んだ時、生きれる言葉になった。ありがとう、神父さん。聖書に曰く、「神の恵みによって、今日のわたしが、ある。わたしは多く働いた。しかし働いたのは、わたしではなく、神の恵みなのです。(コリント・15・10)」
★オマエの人生、オマエのもの。雨も、嵐も、贈り物。オマエが、自覚し耐えるしかない。神さま、御身は、見えませぬ。触(さわ)れませぬ。しかし、何かの霊的な、手ごたえが、苦しみを耐えることの中にある気がします。「心のうちに、愛を宿せば、宿すほど、苦しみの必要性を感じるようになるでしょう」。聖コルベの言葉を覚ゆべし。

2018年6月13日水曜日

山の女子修道院のシスターの誓願60年50年祝い


ホームから車で15分。山の女子修道院がある。シスターたちが6,70人、神への奉献生活を続けている。誓願を立てて60年(ダイヤモンド祝)=6人、50年(金祝)=3人のお祝いが行なわれた。ホームから高原修道士の運転で、トマと、滝神父さん、湯江修道院の浜田神父さんが参加した。他にも司祭2人、修道士1人が居た。女子修道院の教会で、お祈りと、立・誓願者たちの「誓願を決意を新たにする文」が唱えられた。その後、集会室において、祝賀会があった。とにかくシスターたちは皆、明るいのです。笑いがあり、優しさがあり、手作りの料理、ご馳走で、和やかに、感謝しながら祝いました。これだけの大勢のシスターを見るのも珍しいです。60年、50年と、苦労して来られたシスターたち、本当によく頑張って来られました。人生には、いろんな生き方があるでしょう。だがシスターたちは家族も青春も総てを残して、神に奉献する生活を望み、果たしているのです。幾つもの大きな福祉施設を経営しているので、施設で働いている。祈り、働け、です。ポーランド人3人、韓国人2人、ベトナム人2人も含まれていて、歌も披露された。「ウサギと大黒さま」の小劇や、外海・出津の「わらべ歌」も紹介された。最後は皆で輪になって、歌い、踊りながら、廻りました。皆さんの心は、神さまにおいて、マリアさまにおいて1つです。楽しい、ひと時を過ごし、満たされ、自分も励まなくては、と心に新たに誓いました。こういう雰囲気は、ここにしか無いですね。信じる者は幸いなり。

2018年6月12日火曜日

右目に、レーザー治療が必要です、と眼科の女医さん


最近、右の目がカスムようになった。視力が落ちている。目については心配になる。毎月、ホームには眼科の女医先生が診察に見えている。その度に診てもらっている。「3月に来られたが、また視力の検査に来なさい」と言われた。高原修道士さんの運転で、諫早市内の女医先生の医院へ出かけた。視力の検査、眼底の検査、眼圧の検査、ホームでは検査が出来ない目の内部のフラッシュ焚いての検査、薬を時間を置いて点眼しての検査など、時間をかけて丁寧に診てくださった。7年前に、左右の白内障の手術をしたが、右の目にカスミがかかっている。レーザーの治療が必要、ここでは出来ない、他の眼科に紹介状を書きます、と言われた。レーザーを掛けると、治癒するそうです。
★眼科医院で遅くなり、正午ちかくになった。ホームに電話して、昼食を断った。ホームに帰る途中に、小さな食事処がある。「コーヒー・ショップ」。かわいい家だ。いつもと通る道すがらだが、1度も入ったことはない。高原さんは入ったという。ホームの職員も時々利用するという。それではと、入った次第です。ハンバーグ定食を注文した。窓から、「白いカモメ」特急が一瞬、走り抜けるのが見えた。「白い、はずなのに、胴体に何か書いてある?」。高原さんの説明。長崎サッカーの応援の色彩らしい。

2018年6月11日月曜日

理髪屋さんから語り部、ボケのテストまで、まだOK

ホームに、2ヶ月に1度、夫妻で理髪屋さんがくる。髪を切り、さっぱりするのは楽しみでもある。希望者は15,6人はいる。朝食のときに、事務職員から順番を告げられる。「なんと、1バンだった。初めてだよ」。ビックリ。やっぱり最初とは、嬉しいね。先月まで「お父さん」の3人で理髪していたが、[お父さん」は89歳。さすがに、来なかった。
★トマは、いつもダンナさん。会話をするうち、ダンナさんの子供の頃の友達が、湯江小学校の校長先生という縁で、声を掛けてもらって、昨年の今頃は、湯江小学校で、原爆体験の語り部を努めた。今日は、ダンナさんに言ったよ。「お陰で、今年は、飯盛(いいもり)西小学校(車で45分は離れている)から、語り部のお願いがあった。6月の末に実施します。湯江小の先生が、飯盛西小に転任したのか、飯盛西小の先生が湯江小に来たのか、何かの『連携』があったのでしょう。これも理髪屋・ダンナさんのお陰です」とお礼を言った。「それは、よかったですね」。喜んでくれた。求められれば、チカラ有る限り尽くしたい。
★だが、89歳の語り部の気力と、90歳の元気とは、やはり違いますね。45分、立って話せるかな?声が十分に出るか?の心配もあります。廊下で、すれ違いにA看護師さんから「アタマの体操しますから」と、いきなり言われた。「100から3引いて、野菜の名前10個言って」の、あれですよ。「ちょっと、待ってよ。この次にね」とその場を逃げた。こっそり野菜の名前を暗記した。大根、人参、カボチャ、さつま芋、サトイモ、トマト、キュウリ等々。スラ、スラ、言えるように覚えた。2,3日経って、B看護師さんに急に医務室に呼び込まれた。早速、始まった。「歳は何歳?今日は、何年何月何日、何曜日?ここは何処か?3つの数字、反対に言え。5つの数字、反対に言え。野菜の名前を言え(さあ、きたぞ。アタマに整理していた名前を一気にペラ、ペラ答えた)。看護師さん、びっくり。次は、梅、犬、自動車、後で聞きますよ。100-7=?、また7引く。最後は、箱に小物を5つ入れる。フタをして、ハイ、答えなさい」
★ぜんーぶ、できました。マンテン、でした。まだ、ボケて、いません。語り部は十分出来るぞ、と気合を入れています。

2018年6月10日日曜日

廊下、ピカ、ピカ。心も、貧しさで、ピカ、ピカなれ


日曜日に、男子の職員が7、8人、総出で、ホームの床の清掃を行なっている。「ウン、ウン」と音がする床磨き機、汚れを拭き取って、ワックスを塗る。扇風機で乾かす。「ホームを奇麗にしたい」、一念からの作業です。1階の床と、私の前の廊下、3階を丹念に磨いた。2階は先日行なった。「ご苦労さま」。本当に、ピカ、ピカになりました。業者に頼めば、相当な金額がかかるでしょう。少しでも費用を浮かしたい。床がピカ、ピカに輝けば、暮らす人の気持ちも安らかになるし、来客があっても、その美しい廊下、環境に感動するでしょう。これもホームの皆さんの為を思っての作業です。歩きながら感謝しています。
★朝食が終わる頃、食堂に長崎の白浜さんが訪ねてきた。ルルドの水10本と、日記をA4の紙に起こした1か月分を持ってくる。「長崎・修道院で、10時半から、召命の集いがある」と言って、早々に帰った。召命の集いとは、毎年、いま時、市内の信徒(在世フランシスコ会・騎士会)が聖母の騎士に集って、修道会・本会の志願院の学生たちを励ます集会です。何十年も続いている。目指すはフランシスコ会の修道士になるか、司祭の道に進むか、「貧しく生きる」のが、本会の、神さまの召命へ招きです。
★以前に、簡素な生活をし、清貧の生き方を追求した作家に(故人)中野幸次さんがいた。著書「清貧の生きかた」(1993年・筑摩書房刊)の編者で、その中に、私の「長崎のコルベ神父」の一章、「清貧との出会い」を収録させていただいた。その彼が次のように言っている。「ものがあっても、心は満たされない。大事なことは、人が見ていようが、見ていなくても、自分で律していく。自分が正しいと信じた道をゆく。人の目は気にしない。もっと単純な生活、シンプル・ライフ、ものを持たないが、心豊かに内容のある生き方、それが清貧の原理です」
★心も、貧しさの中で、真の貴重な宝を発見して、ピカ、ピカに輝け、ということでは、ないでしょうか。

2018年6月9日土曜日

室内で運動会。万国旗の下で、盛り上る、笑い、喜び


楽しい室内・運動会。賑やかに、子ども心になって、騒ぎ、喜び、拍手を何回もして声援しました。「お祈り」から始まって、園長神父さんの挨拶、車椅子の男子、女性による「国旗掲揚」もあった。それから競技に入る。皆さん、65人程が、赤組、黄色組に分かれた。職員も25人程、2組に分かれた。皆さんはハチ巻、職員は色別のシャツを着ていた。先ずは、パン食い競争でしょう。これは、いつも、やります。パン食いは要領がある。モタ、モタしていたら恥かしいからね。大きな口をあけて、2つ入ったパン袋を狙った。次は、団体競技で、ゴム風船の丸い輪を、次々の人に送って行く。赤組が早いか、黄色組が早く終わるか。黄色が2勝、赤は1勝だった。ホームといえども、バンザイだけは、チカラが入る。嬉しいんだね。水分補給もあって、冷たい水も配られる。職員の細かい配慮もあるわけだ。最後は、サカナ釣りです。これが中々難しい。サオの糸が長いので、サカナの丸い針金に入らない。園長神父さんも苦労していた。こうして1時間30分楽しんで、チッシュと、ポカリを貰いました。西山神父さんは赤組。瀧神父さんは、故・谷村神父さん、村山修道士さんの納骨式のため長崎へ出かけて不在でした。
★三食全部食べて、大のトイレが毎日あって、夜はよく眠って、目もメガネなしで見える。耳もよく聞こえる。自分の足で歩けるなら、それが一番の幸せです。

2018年6月8日金曜日

子供の頃は、イエスの聖心の絵が、ふしぎに思えた

イエスのみ心の祭日。長崎・聖コルベ館のコルベ神父居室の聖絵です。野々村哲さんが写した。「トマさんのことば」からの転載です。
★子供の頃、家庭祭壇に、この聖絵があった。胸に、心臓が描かれていて、痛ましく思える。長崎・浦上の、どの家庭にも、この聖絵が飾られていた。信仰を表現する印しの絵だった。
★コルベ神父は、イエスのみ心の聖絵の下に、必ず無原罪の聖母マリアのご像を置いた。「マリアを通して、イエスへ」が、コルベ神父の信念である。聖コルベ館で、この壁の配置を見ると、懐かしいというか、コルベ神父の思いが伝わってくるのを覚える。
★眼科の女医先生の診察日。右の目の視力が落ちた。カスミが、かかっている。右の目だけでは、新聞の字は読めない。壁の大きな墨字も読めない。名前を呼ばれて、診察を受ける。眼圧の検査、熊の絵を見せる検査、熊が、ぼやけて、見えずらい。女医先生の診察。「右の視力が、落ちています。カスミが、かかった状態で、字が読めません」。心配になる。幸いに、左目が健在なので、メガネなしで、聖務の字や、聖書の字は、かろうじて読める。「3月に目の検査は、しているが、また医院に来なさい」と言われた。ホームの老人たちには、目の不自由な人が多い感じがする。歳と共に、目の状態は、どうなるのだろうか。

2018年6月7日木曜日

食堂での会話から、古いメモを思い出した。魂の存在

今朝、自室の前の廊下の窓から見た「朝焼け」の風景です。梅雨というのに、この空。日中は、曇りでした。今から、ミサへ教会に行く。1日の始まりです。
★食堂で、左隣は、瀧神父さん。右隣が、入江さん。入江さんは耳が遠いので、会話が困難です。瀧神父さんと、よく話す。入江さんの機嫌も損なわないように気にしている。
★瀧神父さんが、自分のiPadから話題を提供する。「大江健三郎が、原爆被爆者の証言を残す会を立ち上げたそうだよ」「ノーベル賞の作家ですか。被爆者の年齢も老齢化しているからね」。当時、5歳、7歳の体験者が語り部を努めている。もう10年もすれば、居なくなるだろう。大江健三郎さんは何歳か知らないが、証言を残す会とは賛成です。
★大江健三郎、といえば、私は1枚の古いメモを持っている。1999.9.14。大江健三郎氏(ノーベル賞作家)が言った。「人間には、頭で考える、心で感じる、生き方の技術(テクネー)があって、それを統合する、まとめるもの、集める力がある。それが魂だ。自分は今、魂のことを考えている。魂のことをする場所を考える。今は、魂の存在が分かりにくい時代になった。若い人に聞いても、半分位が手をあげる。魂は、まとまった力で、まとまったものとして、未来に向かって押し進めていく。経済、国際、文化、連続性が有ること、一貫性が有ることを魂(タマシイ)と呼びたい。場所をつくるコムニケーション、一番重要なことに汗を流す」(日付はあるが、残念ながら出処=新聞か雑誌かラジオか、を記していない)
★我ながら、よくぞ、このメモを残していたモンだし、ノーベル賞作家は、人間の根源を見ている、考えている気がする。古いメモが役に立った日になった。

2018年6月6日水曜日

古い写真を見つけた。修道士の農作業。苦労多し頃


古い写真が見つかった。写真の裏に「1955年5月、長崎修道院の畠仕事」とあり、修道士の霊名だけが記されている。戦争が終わって、10年が経った時の修道士の労働です。場所は、ルルドへ登る坂道の左手側、現在はロザリオの玄義のレリーフが、1留、2留、3留と立っている、あの場所です。当時は畑で、農作物を作っていた。食料が不足の時代でしたからね。修道服を着たままの作業ですよ。汗と、埃まみれになり、厳しい仕事でした。
★「神さまの為に働きたい。自分を捧げたい。神さまのことが好きです」。そんな真っ直ぐな思いから10代終わりから、20代前半の若者たちが集った。気持ちは本当に最初は純粋でした。だが神に一生を捧げるのは難しい。長い人生には、迷いもあれば、疑いも起こる。それを乗り越えて人生を貫くのは、大変な勇気と忍耐と決断が入ることです。
★写真の裏に、書かれた修道士の名、1人は「ボナベンツラ」と記されている。今年の4月、ボナベンツラ修道士さんは、91歳で神に召された。ホーム「聖フランシスコ園・事務長」を勤めたこともある。幼稚園勤務で、バス運転や環境整備に尽力した。園児たちから親しまれる。「継続は宝なり」というが、神に助けられての人生であっただろう。長崎修道院には、司祭よりも修道士の数が多かった。ポーランド人の修道士も健在だった。
★私たちは、彼の事を短く「ボナさん」と呼んだ。ボナさんが召されて、修道会・日本管区(60人が居る中で)、最年長者は、大曾神父さん、91歳となり、次がトマ修道士の90歳となった。次に2人入れて、5番目が瀧神父さん(87歳)になる。
★1955年5月、写真の当時、私は何をしていただろう。修道服は着ていたが、病気療養で、小長井町の山中の修道院で暮らしていた。まだ誓願は立てていなかった。誓願を立てたのは、それから10年後の1965年3月になる。修道士だが、農作業の苦労を知らない。この写真を見ると、私は病気の苦労はあったが、楽な道だったのか。なぜか、私の心は痛む。

2018年6月5日火曜日

入用ならば、私を、使ってください。奉仕の精神です

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。
★朝、5時半には、前の席に6人の修道者たちが音もなく座る。司祭が3人。修道士が3人。トマ修道士はその中の1人。彼らを見渡すと、なにやら心強い。朝はもう明けている。辺りは静かな雰囲気。ジッと、祭壇を見ると、心が落ち着いてくる。今朝は、しきりにウグイスがさえずっていた。なき方が、うまい。鳥も、朝から忙しい。
★今朝のミサは、初めに司祭が「ミサは谷村神父さまのため祈ります」と告げられた。アルナルド谷村達郎神父さまの死去の悲しみは大きく広がっている。故・神父さまのためミサ依頼も多く寄せられた。谷村神父さまと、ヨハネ村山安治修道士さんの遺骨は、長崎・聖母の騎士教会に安置されている。今週の土曜日、9日に納骨式があります。
★入院が近くなると、悲痛な顔をしていたが、帰ってきたら、明るい顔になった。修道服を着て、湯江教会で祈ると、また自分の中に、アシジの聖フランシスコや、コルベ神父の生き方が甦ってくる。心が燃えてくる。嬉しくなるのだ。生きる道は、これしか、ない。
★以前に読んだ雑誌に、こんな1文があった。「廊下の片隅に、チリ箱が置かれていて、『Use Me!』と、紙が貼り付けてある。『私を、使ってください』」。なんと、いい言葉じゃないですか。「入用ならば、どうぞ、ご自由に、使ってください」。奉仕の精神です。アルナルド谷村達郎神父さまは、そんな司祭だった。気安く人びとを訪ね、慰め、その人の望みを叶えてあげる司祭だった。
★自分も、今から何かのお役に立つだろうか。