★あるとき、私はふと思い直した。「私が働いたのではなく、神さまの恵みが働いた。神さま、バンザイ。神さまに感謝。それで、いい」。我は、無益のシモベなり。
★その折だった。私にアドバイスした長崎出身の司祭がいる。司祭の言葉が、私に生きるチカラ、希望を与えた。その言葉が、次のような件(くだり)だった。「神さまから『イノチ』を戴いて、神さまに生かされて、神さまにお返しする。弱さも、あったろう。自分の無も知る。ひとえに、すべては神の恵みだったことを知る。神さまは、トマさんに存在を与えた。神さまは、トマさんを通じて、(沢山、書いているでしょう)、他の人に恵みを与えた。弱さはあったにしても、神さまは、この人との目的があった。神さまは、賢い。沢山、ニンゲンが居る中で、トマさん、ヒトリ、(この、ヒトリ、が大切だよ)、見つめておられる。トマさんも、ヒトリで、神さまを見つめる。神さまに呼びかけて、助けを求め、自分が無であることを、告げてください」
★落ち込んだ時、生きれる言葉になった。ありがとう、神父さん。聖書に曰く、「神の恵みによって、今日のわたしが、ある。わたしは多く働いた。しかし働いたのは、わたしではなく、神の恵みなのです。(コリント・15・10)」
★オマエの人生、オマエのもの。雨も、嵐も、贈り物。オマエが、自覚し耐えるしかない。神さま、御身は、見えませぬ。触(さわ)れませぬ。しかし、何かの霊的な、手ごたえが、苦しみを耐えることの中にある気がします。「心のうちに、愛を宿せば、宿すほど、苦しみの必要性を感じるようになるでしょう」。聖コルベの言葉を覚ゆべし。
小崎さんのコメント心に響きました。
返信削除師父聖フランシスコの呼びかけ
すべての善を主にお返ししように
繋がると思いました。
感謝のうちに