長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年6月30日火曜日
残念な1日。自室で静かにしています
ホームの「日帰り旅行の日」。行き先は、島原半島のオバマ温泉・富士屋さん。湯に入って、食事をして、買い物をして夕方に帰る旅程です。富士屋さんだから、当然、申し込んでいました。残念、用心をとって、同行を辞退しました。からだの方は、元気が、出つつあります。職員さんが、よく声をかけてくださいます。
2015年6月29日月曜日
2015年6月28日日曜日
2015年6月26日金曜日
ふぐあいが、つづいています。やすみました
ステントの入れ替えが、からだに、こたえたのでしょうか。毎回、きびしくなるようです。からだの、不具合がつづいています。昨夜から、きょうは、休んでいました。歳を重ねることは、苦しみ、痛み、不安も重なるのですね。ふぐあいが、収まるように、願っています。おまかせの気持ちもあります。聖コルベ館に居た頃に描いた色紙です。「苦しみを、神の愛に、変えさせてください」。小さな思いですが、1つの祈りに変わっています。ホームに入って、8ヶ月、ホームの職員さんたちにも、心配と、お世話をかけています。安らかな日がきますように、お祈りください。
2015年6月25日木曜日
一声かけてくれる、ダイジョウブ、か。うれしいな
先日、ドライブに出かけた「はすの花」です。きのうは苦しい半日だったが、なんとか乗り越えた。これから先、どのように、なるのか、わからない。昨夜は、ゆっくりと眠った。眠るのが、いちばん楽しい。今朝は、すがすがしい気持ちだった。下着に、上も、下も、血がついていた。普段は、下着の洗濯は自分で行なっているが、きょうは量(7枚)が多いので、洗濯の職員さんにお願いした。★パソコンを開いていると、高原修道士が、「どう、ですか。ぐあいは?」と戸をあけて、のぞいた。「ウン、だいじょうぶ」。昨日は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日で、高原修道士の修道士名のお祝い日でもあった。彼にとっては特別な日なのに、修道士に特て別は無い。半日は、病院で、長い時間、待たせお世話になった。車の運転もしてくれる。ありがたい。いまは高原さんが頼りになっている。★「修道者には家族が居ない。ささげ尽くしているから、修道者お互いが面倒をみる」。原爆の当日、「助けなかった」「逃げた」。その体験の原点から、その人にとって「隣人とは、だれなのか?」。自分の人生を暮らす中で、絶えず、貫いてきた言葉は、これだった。「隣人とは、だれか?」。よきサマリア人はどこにいる。ここまで書いたとき、「トン、トン」と戸をたたく音がした。「洗濯物、できましたよ。ここに置いておきますからね」。早ーャい。
2015年6月24日水曜日
ステントを入れ替えないと、生きてはいけない。痛いよ
ステント入れ換えの日です。痛みの日です。午後から、病院へ行きます。午前中は、「礼拝の日」といって、ホームの入居者が、教会へ、お参りの日でした。ステントのことを考えながら祈りました。左腎臓で生きて、65年。その腎臓も病んでいて、ステントが入っている。4ヵ月毎に入れ替えます。祈りながら、痛みのことを考えました。日々、神さまに近づいていく。神さまに出会う日が来るのを意識しました。教会の祭壇には、美しい生け花が飾られています。★午後から、高原修道士の車で、病院へ向かった。明子さんも同行した。「付き添ってあげるから、大丈夫ですよ」。行きの車の中では、話す気持ちがしない。腹部レントゲン、血液検査、尿検査。いよいよ、一見、怖そうなベッドへあがる。「大(だい)」の字に寝せられる。「麻酔をかけますよ」。観念するとは、このことだ。医師の処置が始まる。何が、どうなっているのか、わからない。時々、「グーッ」と、また「グーッ」と、おなかの中で葛藤が起こる。幸い、痛みは、なかった。30分ほど休んで、立ち上がった。帰りの車中では、安堵した言葉も出ていた。このようにステント(腎臓から膀胱へ、つなぐ尿管)を入れ替えて、10何回になろうか。これなしには、生きては、いけない。医師は、腎機能が低下している、と気になる症状を言った。いのちは、神さまのことです。明子さんが、慰め、励ましてくれた。
2015年6月23日火曜日
疲れた1日でした。記者がきた。午後から運動でした
夕べのアンゼラスの鐘がなっている。夕食は終わった。パソコンに向かうのが遅くなってしまった。朝から入浴があった。しばらくすると、電話で予約していた記者がやってきた。東京からで、共同通信社の編集・外信部だと名のった。先ず、わたしが、2つのことを先に尋ねた。①なぜ、どこから、わたしの名前に行き着いたのか。②何について取材をしたいのか。記者は①について出だしを教えてくれた。わたしの著書の、終戦直後の記事の辺りのコピーを出して見せた。②の取材は、終戦直後の頃、アメリカ軍が長崎で、何らかの援助を国民に行なった事情や記録は知らないか、という範囲の内容だった。長崎は原爆で崩壊している。アメリカ軍は、この巨大な被害を隠そうとして、厳しい圧力をかけた。浦上で、アメリカ軍から食料をもらったり、資材や、衣類を受けた記憶は、17歳のわたしにはなかった。ただ、聖母の騎士にはポーランド人の修道者が生活していたので、飛行機が、落下傘で、運動場に、ハム、牛肉の缶詰、チョコレートなど、ドラム缶に入れて、落とした援助は知っていた。落下傘を仰いで、追いかけたが、運動場から大きく外れて、畑のど真ん中に落下した。あの牛肉の缶詰の美味さは、今も覚えて忘れない。記者は満足の表情をみせて、昼前に帰った。★午後からは、ホームの「歩け、歩け、野外活動」で、小型バスで、ごらんの「蓮池」の周辺を歩く活動があった。ホームに来て、8ヶ月になる。からだの力が抜けているのを感じた。疲れました。
2015年6月22日月曜日
父の日に、思うは、父のこと。ふるさとは、どこですか
たった1枚の父・母の写真。これ以外に父の写真はない。原爆で、すべては消失した。親戚の家に残っていた貴重な1枚だった。「ああ、父とは、こんな人か」。想い出せない。7歳のとき、病死したから、記憶に父の姿は殆どない。北朝鮮の町で、胆石と言う病で、手術もできず、亡くなった。46歳だった。家の近くに海があって、防波堤が伸びていた。父といっしょに散歩したことを、かすかに覚えている。厳しい教えを受けても、父は懐かしいだろう。自分にも、何か記憶が有ったらな、と思う。子どもの頃に、親から、スケートや、水泳、将棋も・・・習わなかったことを後悔している。★きょうはホームで、「コールス」といって、20人ほどが集まって、女性職員さんから、童謡を歌い合った。幾つかの歌を取り上げたが、その中に「ふるさと」があった。職員さんが、1人、1人に、「ふるさとは、どこですか」「ふるさとの、いいところは何ですか」と質問した。皆さんの反応が結構、楽しかった。上五島の人もいる。地元の人もいる。佐世保や、島原の人もいた。「いいところは?」と聞かれて、島原の人は「雲仙岳」と答えていた。自分にも順番がまわってきた。「外海です。いいところ?、海がきれい。夕陽が海に赤く沈む風景がすばらしい。有名です。車や、ツーリングで、楽しみに来る人たちがいます」。★外海は父の生まれた村。場所は集落の峠で、近くに遠藤周作文学館が建っている。外海の父と、浦上の母が、どういうロマンスがあったのか、肝心なことは聞いていなかった。惜しいことをしたと思っている。「ふるさと」の歌、いいですね。
2015年6月21日日曜日
父の日は、女性職員さんの「花がさ音頭」で盛り上る
父の日。女性職員さんの「花がさ音頭」で盛り上りました。午後から、皆さんが食堂へ集まった。男性の入居者が主役になる日です。「今度は、何が出るか、楽しみです」。衣装をつけた5人組が、音楽に合わせて、軽やかに踊りながら、食卓の間を抜けていく。拍手が起こり、笑いも起こる。なかには、飾られた花傘を、男性の頭にポンと乗せた。思いがけない行動に、笑いは大きくハジケた。「やるばい、ね」「これが、受けるんだよね」。お父さんたち、苦労したね。和やかな集まりとなった。母の日には、赤いカーネーションを1人、1人がもらった。父の日には、大きなセロハンに包まれた黄色いバラの花束をもらった。小さな包みのお菓子も付いていた。そういえば、始まる前に、みんなで「バラが咲いた・・・バラが散った」の歌を歌ったのだった。「こころに、バラを、咲かせよう」★お年寄りの介護や、お世話で、お仕事は忙しいにです。そのなかで、やっぱり皆さんを喜ばせようと、その熱意とパワーが、胸をわくわくさせるのが伝わってきます。もらったバラは自室に飾りました。★父の日の昼食メニュー。親子寿司。お刺身。ナスの揚げ漬け。すまし汁。スイカ。
2015年6月20日土曜日
久しぶりの明子さん。旅行に出かけておりました
しばらく見えなかった明子さんが、久しぶりに来られた。ご主人の1周忌は、6月4日でした。その翌日、お墓参りに行ったときの写真です。お墓は、ホームの坂をくだって、集落から、少し坂を登ると、墓地がある。車で、数分のところです。明子さんの自宅の近くでもある。毎日、欠かすことなく、お墓参りをつづけているという。十字架と、「絆」の字。家族のキズナを大切にする気持ちが刻まれている。椿も彫られていた。椿原は忘れることの出来ない職場の名前だった。先生を偲び、冥福をお祈りする。次の日曜日には、ご家族が湯江教会に集まって、年忌のミサでお祈りをした。ブログにも、写真を載せている。その後、明子さんは旅行へ出かけていた、と聞いていた。その明子さんが久しぶりに戻って来て、自室で旅行の話をいっぱい聞かせてくれた。★急に、パソコンの画面に、青いバックに英語の文字が沢山ならんで、機能しなくなった。日記が書けなくなるか、心配した。男性職員が修復してくれる。昨日は、213人がブログを見ていてくれた。「ホームで、どんな生活をしているのか」「からだは、大丈夫なのか」「気持ちは、どうなのか」「修道士の身分を意識し、守っているのか」。課題意識は持っております。すぐには、単純に、本心で、即答は、出来ないところであります。
2015年6月19日金曜日
シルバーカーのお世話にならないように動きなさい
人は、歩くのが不自由に成ると、杖をつく。杖が不自由に成ると、小さな車をおして歩く。確かに、これだと楽になる。何と言う名前の「押し車」かと思ったら、「シルバーカー」というのだそうだ。この車の次にくるのが、車椅子になる。からだを動かさないのが一番よくないそうだ。「生活不活発病」というそうだ。座ったままであったり、寝転んでいたり、お年寄りが好むようになると、体力が急に落ちて行く。意識して、からだを動かす。外を歩いてみる。すると、歩けるようになる。室内でも、こまめに動く。嫌がらない。テレビで教えられて、反省すること、しきりだった。確かに、からだが、きつい。ホームの女性を見ていると、こまめに動いている人は、自分の足でしっかり歩き、長生きしている。部屋には余り居ない。歳には関係ない。結論は、なるべく動こう。歩こう。気持ちだけは、そう思うのだが・・・・。★きのうは、2372歩、携帯の数値は示していた。
2015年6月18日木曜日
梅雨、ホーム内を歩いても、結構、散歩になります
自室の壁に、「有明の海」を貼っている。梅雨で外は濡れている。少しは歩こう、その気持ち。携帯で歩数を計ると、朝、教会へ、ミサ。食堂へ、朝食。洗濯して、数値を見ると、438だった。毎日、午前中、園内を散歩する。1階、2階をまわって自室にもどると、1159になっていた。携帯だから正確な数値ではないが、園内をまわっても結構な散歩にはなる。途中、2階にロビーがあって、新聞を置いてある。ここで休憩する。五島出身の女性たちが、2、3人居て、話が盛り上った。五島の教会の名前が次々と出てくる。なつかしい思い出のある教会ばかりだ。オラショの旅で、数え切れぬほど教会めぐりを行なった。1人が、黒糖の飴(あめ)を1個づつ配った。たった1個なんだが、これが慰めになる。笑いになる。1個のアメをあなどるなかれ、と散歩をつづけた。★最近、「愛とは、何だ?」。普通に語り、手垢のついた言葉だが、妙に心にひびき、気になっている。結局、「愛とは・・・」。ひとり、1人に、「あなたのために」と寄り添う、これが基本でしょう。優しい、まなざしを、そそぐ。チョッと、見る。大丈夫か、の「かけ声」。せい一杯、手を差し伸べる。これらの実行こそが愛ではないですか。でも、でも、これが、なかなか難しい。そんなことを考えております。
2015年6月17日水曜日
なぜか、母親の着物姿を載せました。若くして被爆死
なぜか、母親の姿を載せた。今年は原爆70周年になる。母親が爆死して、70年になる。命日は原爆落下の日だった。無残な日と共に、母のことは忘れることが出来ない。行方不明で、遺体も見つからなかった。さびしかったよ。どれだけ泣いたことか。それまで母親に、甘えて育った日々だった。「かあちゃん」と呼んでいた。父は早く病死した。兄弟は、いない。母と2人での寂しい暮らしだった。父が亡くなったとき、母は、35歳。自分は、7歳。母が、着物を着て、よそ行きの格好をすると、「どこか、遠くへ行くのでないか。再婚するのでないか」。心配で、悩んだ記憶もチラ、ホラ、アタマの隅に残っている。働き通しの母だった。戦争中、食べ物のない時代に、苦労した行動を思えば、胸をしめつける。あれから10年後に、45歳で亡くなった。戦争さえなければ、原爆さえなければ、まだまだ長く生きていただろうに、母が痛ましくてならない。母からもらった命。まだ、つながっている。「かあちゃんの血と心は、生きている」。自分の中にあるうちは、母はまだ生きているのだろう。そう思いたい。母からもらったなかに、カトリックの信仰がある。ロザリオも残した。聖母の騎士のルルドへ連れて行ってくれて、マリアさまを示したのも、母だった。「マリアさま、この子をお頼みします」
2015年6月16日火曜日
生き物が気になってならぬ、年寄りの命のせいか
若い頃は、100%、イノチは自分のもの、と思ってきた。歳を重ねてくると、自分のものではない、与えられたイノチ、生かされたイノチと思いようになった。イノチあるものが、いと、いたわしい。散歩で見つけた蝶です。きょうは梅雨で、雨が降っている。あの蝶はどうしているのか。★先日、長崎へ出たとき、あの急な坂を、用心しながら横切っていた。足元の力が抜けたというか、体力のフラつきを感じた。「体力がなくなると、気力も失う」。誰かの声がした。ビクッとしましたよ。★1週間が過ぎるのが、早い。生活して、いろいろ感じることもあります。具体的に書くのには、勇気がいります。
2015年6月15日月曜日
理髪さんとの会話。本当に書きたいのは人の生き方
2ヶ月に1度、理髪さんが、2人か3人で来る。整髪の希望者は多い。前の日の夕食時に男性職員さんが、折った紙を持って食卓をまわり、名前を書く。最後に折った紙を広げると、順番がわかる。自分は5番目。最後の人は15番目だった。「どうも、くじ運が悪い」「運、不運って、あるのでしょうか」。★カガミはないが、布を広げて座ると、なんとなく心が和みます。「写真、撮ってもらって、いいですか」「いい、ですよ」。女性の職員さんに撮ってもらったのが、これです。「ブログに載せるのでしょう」と女性職員さんがいう。「毎晩、楽しみにブログを見ています」とも。理髪さんが「歳はおいくつ、ね」と聞いた。歳を伝えたら、「え?お若い。その歳で、毎日、ブログを書くって、お偉いですね」と誉めた。ホームに居ると、写真を撮るのは気を使う。個人情報、人権があるから、難しい。勝手に写真は撮れないし、記事も書けない。★「本当に書きたいのは、日々の出来事よりも、人間の生き方ですね。歳を取って、ホームに生きて、余生を如何に有効に使うのか。それを書くのが望みです」。人生に運命って、あるのでしょうか。人は、前を向いておれば、運命はない。自分で、自分の人生を切り開いていく。自分に可能性はある。しかし振り返って見れば、人には、人それぞれに「定め」がるように思う。いま、ホームに居ての心境です。「己の、定めを、生きて、行く」。背中を見れば、己には定めがあった。それを生きていくしか、ないのです。
2015年6月14日日曜日
召命のつどい。伝統的な祈りと励ましの会です。参加
「長崎へ出かけるよ」。車で、送り迎え。朝から聖母の騎士修道院へ向かった。司祭や、修道者を育てようと、ミサの祈り、交流の会に出席した。伝統的な会で、主催はフランシスコ在世会の人たちが、長崎市内から、外海、佐世保まで、100人が集まった。今年は小神学生(中学生)が1人いる。毎年、この時期に集いは行なわれているが、一時は、小神学生(中学・高校)が、10数名も並んで、盛んな時代もあった。小神学生と寮生合同で、お祝いされ、出し物もあった。★途中で、自己紹介にと、マイクを持たされる。次のように言いました。「名前は、いくつかあるが、普通は、「トマさん」。文章を書くときは、「小崎登明」です。最近、原稿を書いていない。きょうも、編集者の神父さんから、「2ページでもいいから書いてよ」と言われたところです。半年前から、湯江のホーム聖フランシスコ園で生活しています。ここでは「田川さん」と呼ばれています。ホームの隣には教会もあり、司祭が3人。修道士3人。毎朝、ミサで祈れます。夕方は信徒が集まって、ロザリオも唱えている。若い職員のお世話になって、とにかく食事がいい。おいしいです。87歳になるが、ホームでは若者です。90代でも元気な人がいる。皆さんが長生きされている。ここに居る皆さんも入るなら、早く入った方がいい。毎日、入浴もできるし、買い物にも行ける。皆、長生きできますよ。フランシスコ中村修道士を、93歳で見送った。ポーランド人の修道士ローマンさんは100歳で見送った。残る人生を大切に生きています」。笑いもあった。拍手もあった。帰りには、パンフレットをください、という声もあった。★帰りの車中では、疲れてか、眠っていた。
2015年6月13日土曜日
選手宣誓なし。足腰の痛みを耐えて、がんばります
職員さんたちも大変です。「ミニ運動会があります」。それに向かっての準備。食堂のテーブルを片付けて、万国旗を張り巡らして、それは、それは忙しい仕事の合間に、お世話が大変です。それでも皆さんを喜ばせようと、懸命に準備しました。そのミニ運動会が盛り上った。全員が集まり、車椅子の人も居ります。鉢巻をして、パン食い競争、フーセンのリレー、点数が書いた器に、新聞紙を丸めての玉を入れあう競技など、誰でも出来る、それは楽しい集いでした。赤組、黄色組、青組。職員も色に分かれて、はしゃぎました。園長神父さんが最初に言った。「子どもの頃を思い出しなさい」。老いても、運動会は楽しい競技です。トマさん「パン食い競争を、ごまかしよる」。そんな声も聞いた。★人は、やっぱり助け合う気持ちが大切です。喜び合う心も大切です。明るく笑える日は、肩が「スッー」と軽くなる。
2015年6月12日金曜日
書道教室。他人と比べるな。自分の字を書きなさい
隣の先生は、書くごとに、満足そうに、「おじょうず、ですね」と誉めるんです。やる気を出させるために、おだてているのは、わかります。「いや、我流です。先生に付いて習ったことはありません」。「有明の海」「七夕祭り」など書きました。「部屋に飾りますから、もらっていきます」。自室の「早苗立夏」を外して、「有明の海」を壁に貼った。初夏の気分を出すためです。書道教室は楽しみです。★これまでも度々書いたが、「他人と比べるな。自分らしく、生きよ。それで足れ」。自分の人生だ、大事にしよう。
2015年6月11日木曜日
耳が近いと、いろんな声も入ってくる。よしあし、だな
梅雨の晴れ間、小さな蝶々が、花を乱舞する姿を見つけた。デジカメを向けたが、わかるでしょうか。★食事のとき、「この辺は、スズメが多いね」というと、女性が、「オードカ、もん」と返した。「オードカ」とは長崎の言葉です。何と訳したらいいのか、書きません。想像にお任せします。この女性は「大正15年生まれ」。昭和の元年。その年は12月25日まで大正だった。昭和元年は少ししかない。大正うまれは、さすがにシンの強さを感じる。耳が近いので助かります。老人と話すときは、2度繰返さないといけないので、疲れる。この女性は「向こうの食卓の話も聞こえる」ので語りやすい。社会生活では、いろんな声が聞こえてくる、と教えらることが多い。★きのう、長崎へ出たとき、天主堂の近くを車で通りながら、ガンで亡くなった親友のことを偲んでいた。彼も居なくなった。毎朝、健康のため散歩しているよ、と自慢していた彼は、もう終わった。人間は死ねば、すべて、この世の生は終わると、痛切に感じた。苦しくても、生かされているのが、幸い。生きつづける。前に進む力を失うな。親友が、最後に色紙に書いてくれと頼んだ言葉が、「おおせのごとく、我に、なれかし」だった。
2015年6月10日水曜日
祈りしか、仕事がありません。からだも、なれてきた
教会の祭壇に飾られたリッパな生け花です。毎日、夕方、ホームの信徒が集まって、数々の祈りと、ロザリオが唱えられる。祈りながら、この生け花に目がいきます。祈りは心が落ち着いてくる。車椅子の、90代の女性もいる。耳が遠いのか、小さな可愛い声で、アヴェ・マリアを唱えている。調子が合わないが、皆さんは気にしていない。祈りが終わると、園長神父さん自らが車椅子を押して、ホームへもどっていく。祈る人びとたちは、幼児の頃から家族や教会の祈りで鍛えた女性たちが多いのです。負けますよ。「むずかしい、ことは、わからんが、いのりだけは、となえております」。そのこころ。それで、いいのです。平和であり、よろこびです。★朝から、高原修道士さんの運転で、長崎のヨゼフ・クリニックに定期の診察へ出かけました。トマさんはホームに居るのは惜しい。語り部を務めてもらわないと、という意味の言葉をいただいた。帰りは早かった。昼食が終わる頃には戻った。午後から少し休んで、祈りに行ったところです。職員さんが「水分、補給」といって、ポカリをコップに注いで回っている。ささやかな気配りが、なんとなく、うれしい。
2015年6月9日火曜日
人は1つ苦境を乗り越えて、また1日は生かされる
庭を散歩するとき、出入り口の外側の天井に、ツバメが巣をつくっていた。毎年、つくるらしく、下には白いフンが散乱している。今年も、2、3度、巣にツバメの親がいるのが目についた。親しく見守りたい気持ちになる。巣の下をくぐって、庭の芝生に出ると、スズメがチュウン、チュウン、飛び回っている。最近はスズメが少ないと報道されているのに、ここのスズメは元気そのもの、ツバメの巣の近くでも鳴いている。とうとう、ツバメの子育ては、完成しなかった。ツバメがかわいそうでならない。生物間には厳しい現実がある。芝生で、たくましく生きるスズメを見ると、こちらも憎めない。★きょうも、1日、苦しかった、張り合いがなかった、と思うことはある。しかし1日、また、いのちをいただいた。それは事実だ。いのちを戴いていることの素晴らしさを思えば、元気も出てくる。「生きていれば、いいことも、あるよ」「生きていて、祈れば、さらに、いいこといが、あるよ」
2015年6月8日月曜日
ホームのニンゲンに成りきることが幸せ。足元にある
グランド・ゴルフを楽しんだ日の写真。暑い陽ざしのなか10数人が、芝生に出てきた。玉を打ちながら考えることは、体力に余りがあるか、ということです。玉が飛ばない。転がらない。腕力が知らず知らずに衰えている。口には言わないけれど、「ヤバイな」。★きょうは、朝、5時に起きて、教会へ。朝の祈り。ミサ。今日の福音は「シンプク・ハッタン」でした。「何々する人は、幸いです」という、あれです。本当の幸せは、どこから来るのか。幸せの反対は、ふしあわせ。自分は不幸だろうか。いや、それは言えない。そんなことを考えていました。★朝食後、下着の洗濯をする。9時に、朝の体操。洗濯の職員さんが、「パジャマの洗濯は、いいですか」と声をかけられる。パジャマ、上2枚を頼んだ。園内を1階、2階の廊下を散歩する。10時から、コーラスといって、タオル1枚を使っての体操。歌いながら身体を動かす。園では、いろいろ行事を組んでいるが、出来るだけ参加している。よく以前はテレビなどで、老人の体操や遊びを見て、「こんなこと、できるか」と疑っていたが、いま、それを実行している。原動力になるのは、椿原の学校で、子どもたちと学び、運動した、その経験が、いまの自分を押しているようです。昼食前に、パソコンに向かう。1274歩、歩いていた。★ホームのニンゲンに成りきることが幸せ。幸せは足元にある。
2015年6月7日日曜日
明子さんの亡きご主人の1周忌ミサで冥福を祈る
日曜日。キリストの聖体の祭日。いつもお世話になっている明子さん。ご主人・正則さんの1周忌を、ご家族が集まって、ミサで祈りました。ミサの後、主任神父さんと会話をするなかで、「写真を撮りましょう」と声をかけると、応じてくださった写真です。★正則先生とは、6年間、椿原の中学校で、いっしょに過ごし、子どもたちに向き合った教職員の仲間です。教職・初歩のわたしを助け、時には意見してくださった。信頼していた先生でした。★学校で学ぶ子どもたちの姿、悩み、生き方を見るとき、いちばん感じたのは、人生の基本になるのは「家庭であり家族」の現実的な体験でした。明子さんの話によると、この体験から、家では、「家庭」を最優先した父親でした。★学校では、さまざまな出来事が起こりましたが、正則先生は特に愛をもって子どもたちに接して、1つ、1つ、解決し、心の正しい人になるよう常に教え導いておられたのが印象に残っています。教職を共にしたのは、1985年から、1991年までの期間でした。24年が経過するのに、その熱意が心に浮かんできます。★「いつきしみ深い神よ、あなたの愛のために一生をささげた故パウロ正則さんが、信じる総ての人と共に復活し、永遠の喜びを味わう事が出来ますように」
2015年6月6日土曜日
誕生会です。出し物も楽しみの1つですよ。幸せに
長寿、また歳を1つ重ねて、おめでとう。毎月、その月に生まれた人をいっしょに誕生会として昼食のときに祝います。これが楽しみでね。6月生まれの方は、1人でした。お祝いの言葉があって、お名前を呼び上げて、皆さんで「ハピバスデイ」を歌います。本当に心が和みます。生きてきて、よかったと思います。★今月の職員さんの出し物は、お茶つみ姿の美人女性さんでした。茶摘の歌を歌いました。出し物を見るのも、楽しみで、期待しています。ホームの人たちは、90歳代、80歳代が多くて、人生のベテランで、苦しい戦争を体験し、復興する日本を生き抜いてきた男性・女性たちばかりです。そのお年寄りたちの間を、若い職員さんたちが奉仕してくださるんですね。支えてくれて、助けてくれる。感謝の言葉しかありません。お年寄りも、若い人も、一体になって、すばらしいホームになる。願うのは、皆さんが健康で、お元気で、長生きされて、人生を楽しんでもらうことです。★昼食のメニューは、赤飯、アジの刺身、盛り合わせ、チキンのピザ風、ナスの煮物、スイカ、ジュース、水ようかん、でした。
2015年6月5日金曜日
リッパだな、コチョウラン、ホームの玄関を飾る
2日前に、アメリカ・テキサス在住の洽(こう)子さんが面会に来られて、贈られたコチョウランです。きれいなお花です。ホームの玄関に飾って、皆さんに見られて、喜ばれています。時々「KoKo」さんでコメントをくださる洽(こう)子さんは、アメリカに居て、日記をよく読んでくださっている。会話の節々に、次のような細かい生活の一端がでて、びっくりしました。①冬は、そのお部屋の窓から、美しい太陽がでて、すばらしいですね。②部屋の写真に、天井の電灯から、ヒモが下がっているのが写っていた。おかしくてね。あれ、うちにも有るんですよ。③アメリカから、おみやげに差し上げた無原罪の聖母マリア像が写っていて、ああ、よかったと嬉しかったです。マリア像は石つくりで、重たいです。いつかマリア像を紹介しましょう。④時々、ホームの食事のメニューが載っていて、興味があります。メニューはお祝いのとき、載せています。このように日記をめぐって、細かいところまで話が及んで、嬉しいでした。アメリカに居て、写真は隅から隅まで、しっかり見ているそうです。この度の出会いで、大きな慰めをいただいた。ありがとう。
2015年6月4日木曜日
明子さんのご主人1周忌。ミサで安息を祈りました
週に、2度。ようす見と、話相手と、元気をくれる明子さん。いつもお世話になって、助けられ喜んでいます。ところで、きょう、6月4日は、ご主人の正則さんが、65歳の若さで亡くなられて、ちょうど1年になります。今朝はミサのとき、亡きご主人の冥福を祈りました。子どもさんが3人居られます。ご主人を亡くされて、明子さんは大きな十字架を体験された。言い尽くせない程の苦しみ、悲しみです。こころのうちは明かされない。救いになったのは聖書でした。旧約、新約、聖書を半年で読み終えて、また続いて読んでいます。明子さんは聖書から生きる力をいただいた。「かわってきました。つながり、はからいが、ある。幸せです。神さまに守られて、守り、導いてくださる」。明子さん自身も、重大な病気をかかえておられる。崖っぷちを生きておられる。正則さんは教師でした。「修道院の方々に、わたしなりに、おかえしがしたい、そう思います」。生きていることを感謝しながら、皆さんに、元気を与える、それが夢です、と明子さんは明るい表情をして、昨日も来られました。正則さんは五島出身。明子さんは島原出身。「島原半島の海岸を車で走らせると、風景、自然は変わらないのに、人は変わる。主人はどこかへ行って、また戻るような気持ちです」と語ったのに深いつながりを感じた。写真は半月ほど前に自宅で撮りました。
2015年6月3日水曜日
珍しいお客さん来る。アメリカ・テキサスの洽子さん
ときどき、コメントが載っている。「KoKo」さん。日本語で、洽(こう)子さん。華麗なコチョウランを持って、訪問に来られた。「心配していたのよ。元気になって、よかった」。喜んでくれた。ご主人はアメリカ人。アメリカ・テキサツに住んでいる。実家が長崎県諫早市。ホームと同じ市内だから、見舞いに来られた。6月1日のコメントに長々と出会いの経緯を書いておられるが、実は、5月末から長崎に里帰りしていた。運転は、長崎の白浜さん(写真・左)です。毎年、来られるので親しい交流がある。こう子さんの誕生日が、1946年7月4日で、白浜さんの誕生日が、1946年6月4日、明日なのよ。同じ年の、1ヶ月違い。言わば、双子なのよ。それに、トマさんの誕生日のお祝いもある。3つのお祝いのコチョウランです。そういわれて、それは立派なお花で、職員も喜びました。聖コルベ館で出会ったのが、一昨年か。毎年、里帰り。7月なかばに帰ります。昨年は、メキシコ人のエスペランザさんを連れて来た。エスペランザさんは、日本26聖人と、聖母の騎士のルルドが気に入った。白浜さんと一緒にルルドの清掃もする。沢山の思い出をつくった。その信仰を帰ってから生かしている。その辺の事情は、騎士誌の記事にも載せました。こう子さんは沢山の色紙を注文して、アメリカで配布して喜んでもらっている。ありがたいことです。洽(こう)子さんの面会、ありがとう。
2015年6月2日火曜日
ルルドの清らかなお水。信頼は恵みをもたらす
聖母の騎士のルルドの写真を載せました。マリアさまに、聖女ベルナデッタ、下には、水が出る竹の筒。枯れることなく絶えず流れ出るルルドのお水。手前は広場になっており、祈る人の姿がある。「目に見えないものの気配を感じる。愛のみたま」。★昔から、戦後も、戦争前も、戦争中も、変わっていないルルドです。子どもの時から見ているルルドです。ただ樹木だけが、大きくなったり、台風や、山津波で打撃を受けました。人びとのマリアさまに対する信心も、昔も今も変わりない。静かで、鳥の声がさえずり、祈る気持ちが澄んできます。★コルベ神父さまが開いたルルドでした。1932年5月のことです。時代も、人も変わるけど、ルルドの姿、信心は変わらない。マリアさまからお恵みをいただいた。単純に信じることが出来ます。★きょうは朝食後、入浴し、園内を歩きました。苦労があります。
2015年6月1日月曜日
6月はイエスの聖心の月です、と司祭は告げた
きのう、ルルド祭がおこなわれた聖母の騎士修道院。当然のことながら、この場に立って眺めると、こころが安らぎます。ルルド祭の楽しみは、人びととの出会いにある。修道士の服を着る。これを見ると、一目瞭然、わかる。近寄って来る人たちと、えがお、あくしゅ、の出会い。「元気そうで、よかったね」。いちばん、ありがたい言葉です。聖コルベ館にも入る。ホームの人たちと弁当を食べました。ホームでは修道服は着ていない。皆さんと同じ入居者です。へだたりはない。むしろ、光る何か違った、ああ、この人は違うなというオーラを持たねばならぬ。むずかしい課題も意識する。帰りのバスのなかでは、疲れたのか眠っていました。★今朝のミサで、司祭は、「6月はイエスの聖心の月になります」と言った。
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