長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年6月18日木曜日
梅雨、ホーム内を歩いても、結構、散歩になります
自室の壁に、「有明の海」を貼っている。梅雨で外は濡れている。少しは歩こう、その気持ち。携帯で歩数を計ると、朝、教会へ、ミサ。食堂へ、朝食。洗濯して、数値を見ると、438だった。毎日、午前中、園内を散歩する。1階、2階をまわって自室にもどると、1159になっていた。携帯だから正確な数値ではないが、園内をまわっても結構な散歩にはなる。途中、2階にロビーがあって、新聞を置いてある。ここで休憩する。五島出身の女性たちが、2、3人居て、話が盛り上った。五島の教会の名前が次々と出てくる。なつかしい思い出のある教会ばかりだ。オラショの旅で、数え切れぬほど教会めぐりを行なった。1人が、黒糖の飴(あめ)を1個づつ配った。たった1個なんだが、これが慰めになる。笑いになる。1個のアメをあなどるなかれ、と散歩をつづけた。★最近、「愛とは、何だ?」。普通に語り、手垢のついた言葉だが、妙に心にひびき、気になっている。結局、「愛とは・・・」。ひとり、1人に、「あなたのために」と寄り添う、これが基本でしょう。優しい、まなざしを、そそぐ。チョッと、見る。大丈夫か、の「かけ声」。せい一杯、手を差し伸べる。これらの実行こそが愛ではないですか。でも、でも、これが、なかなか難しい。そんなことを考えております。
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新聞記事で読んだことの受け売りですが、「ボランティアとは自分満足と相手満足の分かち合い」とありまして、なるほど・・・と感じ入りました。手を差し伸べるほうも相手が喜んでくだされば嬉しい、ということなのですね、きっと。飴玉一つをくださった方も差し上げながら嬉しいのでしょうね。読者の皆さんはどのように思われますか。
返信削除みどりさん、お相手に喜んで頂けると嬉しいですね。
削除そして神様が喜んで下さることが1番の喜びでしょうか。
みどりさん、マリア・フランチェスカさん、同感です。落ち込んでいる時に「大丈夫よ!」と声をかけて頂くだけで、元気がでます。飴玉ひとつ、言葉ひとつ、大きな喜びですね。
削除笑顔が増えて、下さった方も幸せな気持ちになることでしょう。
そして神様が、「よし、よし」と頭を撫ぜてくださるような気がします(笑)