10人が「雲仙の間」で三食の食事をとります。男性が4人。女性が6人。介護の職員さんが1人付いています。静かです。会話がありません。黙々として、人が居ないような静寂さで食べています。これもエレベーター拡張工事の影響です。6月の終わりには、食堂で食べられるでしょう。すると、また賑やかになるでしょう。
★昼の食事は、三色麺でした。色が付いたのは、ソバです。白いのは、ソーメンです。手羽先に、ご飯も少々ありました。余り静かなので、職員さんに、「お家は、何人住まい?」なんて聞きます。余り聞いても、スカンでしょう。詮索するようで、イヤでしょう。「雲仙の間」の由来は、この部屋からテラスに出れば雲仙岳が見えるからです。
★静かな食事の雰囲気の中で、言いました。「きょうは雲仙・普賢岳に火砕流が押し寄せて、犠牲者が出た日なんですって、ね」「ああ、そうなの」。会話が続かない。食事が終わって、テラスに出て、きょうの雲仙岳を眺めました。雲仙岳は曇っていました。あの岳から流れた火砕流のテレビの画面を強烈に覚えています。この後、新聞を探しました。
★雲仙・普賢岳が噴火したのは、百何十年ぶりで、1990年11月と書いてあった。その時、私は小長井の椿原・学校に居た。雲仙の天辺から、噴火の雲が真っ直ぐに立ち上がった。はっきり覚えている。
★その次の年、91年の4月、私は長崎・聖コルベ館に変わった。同じ年の91年のきょう、です。6月3日です。テレビで火砕流の恐ろしさを知った。もく、もくと、立ち上がる巨大な雲、煙じゃないんですね。高熱のカタマリが、高速で降りてくる。逃げても、逃げ切れない。何十人の、市民、消防団員、写真家、確か火山研究に来ていたフランス人夫妻も犠牲になった。恐怖の火砕流でした。あれから28年になる。
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