イエスのみ心の祭日。写真は、長崎・聖コルベ記念館のコルベ神父の居室にある「イエスのみ心」と、けがれなき聖母マリア像。野々村哲さんが写した。
★17世紀、シスター・マルガリタ・アラコクは、イエスのご出現を受けて「茨の冠に囲まれたご自分の心」を示され、愛の償いのため祈るよう頼まれた。そこから、み心への信心が広まった。
★長崎の信徒の家庭には、どの家にも、この「イエスのみ心」と「マリアのみ心」の2枚の額が掛けられていた。幼い頃の私は、この聖絵を見ると、何やら恐ろしさと、西洋人のイエスの髪に違和感を覚えていた。日本人の自分には、なじめない気持ちがあった。
★それを払拭(ふっしょく)したのは、後年、イスラエルを旅行した時である。ガリラヤ湖の周辺を回った時に、その景色を見ながら、つくs得ない吹いてくる風に当りながら思ったのは、遠く離れた外海地方のキリシタンたちが、なぜ、草履(ぞうり)を履きながら、チョンまげを結びながら、胸の中では、イエスのみ心に奪われ、命をかけて信仰を素直に受け入れたのだろう、という実感だった。そこは到底、人知では語りつくせない。計り知れない不思議さを、常識を超えて自分も受け入れる心境になった。
★手元に1枚の写真がある。私の記憶では、イスラエルを旅行した時に、ガリラヤ湖畔のレストランで、「これが、この湖で採れた『ペトロの魚』です」と言われて食べた。使徒聖ペトロは漁師だった。この湖で、こんなサカナを漁していたのだろうか。想像は出来る。それにしても、写真の左上の「ぽんず・しょうゆ」のビンが気になる。旅行者の持参なのか。湖畔のレストランで、サカナを食べたのは、はっきりと覚えている。聖ペトロは「イエスのみ心」を最もよく理解する使徒だった。それでも彼は3度、イエスを裏切った。だが、改心して最も愛される使徒となった。人生で必要なのは、改心して、前に進むことだ。
★ホームの湯江教会では、6月はイエスのみ心の月なので、毎朝、祈ってきた。「すべての悪、特に罪よりお守りください。あなたの母である聖母マリアをますます愛させてください。イエスのみ心よ、天のみ国が来ますように」(途中、略)
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