先日、台湾人の巡礼者たちが来た時のことです。ホームと教会へ30人もの団体さんが来るのは初めてでした。
★ホームと教会は、一段と高くなった丘にある。道は2つある。坂を登る道と、上へ登って下る道。いずれも大型バスは入れない。バスはどこに着いて、皆さんはどこで下車するのか。どの道から来るのか、私たちは心配でした。
★私は、修道服を着て、庭で待っていた。予定の時間がかなり過ぎて、坂道から、1人、又1人と、あらわれた。私は、さっと手を挙げて「オーイ」と叫んだ。疲れているためか、個々に、1人、1人と、間をおいて、次々と姿をあらわした。私は更に「待っていましたよ」と大手を振って、招いた。安心したのか、台湾の女性たちに喜びの笑みがうかんだ。安堵の色が伺えた。
★修道服のおかげです。服を見れば一目瞭然、信徒なら、台湾人であろうが、すぐ理解できる。全く修道服の効果です。着ている中身じゃない。服を見ただけで、「ああ、やっと着いた」。即座に安心するわけです。修道服はありがたい。服だけが輝いている。
★それで、いいのか、という問題があります。服を着なくても、修道士であると果たしてわかるか。示せるか。服の中身に輝きがあるか。生活の中で、脱いだ状態で修道士を示すのは中々難しい。「何となく、あの人は違うな」。そう示して生きるのは簡単ではない。
★ホームの男性老人で、事業を手広く営み、多くの眼力を見抜いてきた彼が、言った。「あの職員は『出(で)』が違う」「どうして、それが分かるの?」「頼んだら、直ぐに応えてくれる。イヤがらない。いい家庭に育っているよ。出が違う」
★修道服のおかげで、台湾人の信徒たちは、初対面なのに、親しく修道服の私の周りに集って、写真を撮った。
★彼らが、日本へ来て、最初に出会った日本人は(昼食時を除けば)湯江の人たちが初めてであろう。どれほどの愛を、台湾の信徒たちに与え得たであろうか。温泉の湯に浸かりながら「ああ、きょうは、よかった。うれしかったよ」と思ったであろうか。
★次の日の朝、そのようなことを考えた。別れに1人の台湾人女性が、台湾のスナック菓子を3袋押し付けてくれた。
トマさん 今日 本河内にはポーランドからの巡礼者の方々が来られて おミサをしてました。
返信削除英語 話せません��と思ってたら こんにちは��お邪魔します��と日本語で話しかけてくれてホッとしました��
十Amen
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