2020年11月15日日曜日

母が、祈る姿を、なぜか思い出す。何を、祈るか。願いは、今につながる

日曜日。ミサのお説教で、司祭は、今の世の困難にあって「祈りなさい」と強調していた。
「祈り」は、神との会話。
自然に、心から出て来る吐息。
これまで、どれ程、祈りについて考えてきたことだろう。祈り方も、教えられた。
自分は、いま、祈っているか。神に「つながって」いるか。
そんな思いの中で、アタマに浮かぶのが、「なんか、わからんが…、母おやの、祈り、見た」。母の祈る姿が、今、はっきりと覚醒されてくる。
夫は、病死。息子が1人。その生活苦の中で、母親は、何を祈っていたのか。
オンドルの部屋に、家庭祭壇があって、ご像があって、額縁があった。花も飾っていた。生まれ、育った長崎・浦上から遠く離れた場所にあっても、母は、信仰を怠りなく、朝夕、祈っていた。その記憶が、息子に、鮮明に残っているのが、また、ふしぎやな、と思う。
「なにを、祈っていたのか」。全く分からない。だが、その息子の記憶が「今に、つながる」のは確かだ。今の呼吸に、つながる。それを感じる。
★「祈り、とは、長いーんですね。奥が、深いーんですね」
★今日の昼食の、メニューです。
ごはん。サカナのフライ。ゴボウのおかか煮。浅漬け。みかん。それに、右下の、ムラサキ色のスープ。
これ。何と思いますか。
サツマ・イモの「ポタージュ」です。
初めて、食べた、そんな声。
あつ、熱(あつ)で、そーっと、口に含むと、「ああ、やっぱり、サツマ・イモの味」がした。「なめらか」「色を、飲む」。今日の、幸せに、カンシャ。

2 件のコメント:

  1. お母さんとのご記憶も、サツマイモのポタージュも、トマさんのお言葉も…
    温かさに包まれて、ホッとした心になりました。

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  2. がぶらってぃ2020年11月16日 0:04

    がぶらってぃの食いしんぼーな弱さを
    受け止めてくださるように、午餐の写真を
    共有いただき、ありがとうございます。

    とりどりの副菜が乗る、深川のような白地に
    青の器に、紫いものポタージュ、ミカンの橙色と、
    目にも鮮やかで喜びあふれる食卓と見えます。
    温かなポタージュは、これからの季節に
    やさしいですね。栄養科の皆さんの工夫が、
    よく伝わります。思えば長崎の献立には、
    いつもほのかに紅色をしたような
    やさしさが存在するように感じます。

    トマさんは、歯の管理が素晴らしく適切なので、
    これらを全て常食で召しあがると!
    (浅漬けだけは、腎臓くんを驚かせないように
    少量でしょうか)。ごぼうなど、歯ごたえが
    あっても全く問題にされない辺り、やはり
    イノチ輝いておられます。お食事もマイチモンジ。
    歯科医は、学会発表されたいようなケースだと
    思います。

    トマさんのマイチモンジの歩みは、ワサお母さんの
    祈りから繋がっているとわかります。ワサお母さん
    自身も、あらゆる困難を受けてなおマイチモンジに
    進まれ、経過のうちに、一人息子のトマさんは
    聖母の騎士へ上がって、修道士としての道を
    ざっくざっくと開拓しておられます。
    不可能を可能にしたような、挑戦を軽々と
    乗り越えらたような。全て最初から
    分かっていたような歩みです。

    “神は直線を引かない”と言われますが、
    我々には曲線や直角、さらには急カーブに
    見える道でも、神の計画から見ると、
    幅広ーいブルバードの中にしかないのかも
    しれません。俯瞰して観ると、なんだ、
    直線じゃないか、というような。

    がぶらってぃも、祖父が列車内で帰天した
    知らせを受けた翌早朝、母と二人、
    お御堂で祈ったことを、最近思い出して
    おりました。

    母は、それから30年以上を経てから洗礼を
    受けるのですが、あの朝、何を祈っていたのか。
    朝日に光る母の横顔を確かめた時に、入っては
    いけない領域を見たような感覚を持ちました。

    トマさんは「信仰はワサお母さんからの遺産」
    というような受け止めを発信されています。
    祈りの本質は目に見えにくいからこそ、
    伝える意味を深めていかねばならないのかも
    しれません。

    祈りの形すらかなりあやしいがぶらってぃでは
    ありますが、今日も祈りの力を信じる発信を
    いただきました。今のがぶらってぃに、
    一番必要なところです。心強くあれます。ジンクーエン。

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