長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年4月11日木曜日
こういう出会いもあるのか。50年前の思い出話の娘さんが
むかしの実話です。あの頃、まだ若かった。長崎から東京へ。当時は寝台列車を利用していた。広島あたりで夜があける。東京はまだ遠いので、広島で途中下車をして、1つの用件を果たした。降りて、改札へ行くと、キップがない。財布もない。「あッ、車内に忘れた」。発車ベルがなる列車に、あわてて飛び乗った。何んと、忘れ物は、車掌さんが駅員へ渡したところだった。すでに本人を乗せて急行列車は発車した。20分ほど走ったか、やっと次の駅に降りて、折り返し列車を待った。40分ほど待って、列車が入る。空いている席に座ると、窓辺に『聖パウロ物語』が置いてあるではないか。老人が眠っていた。目をさまして、お互いに、カトリック信者と分かって、話がはずんだ。最近、洗礼を受けたという。信仰を語り、慰め、励まして、別れた。広島で用件を果たして、急行列車に乗り、東京方面へ向かった。列車内は混雑していた。1つだけ、席が空いている。そこへ座った。なんと、目の前に、あの老人が居るではないか。「ああ、また会いましたね」。すっかり意気投合して仲良くなった。この近くの都市で、材木商をしているが、いろいろ困難がある、悩みもある、という。その悩みとは「自分は若い頃、いろんな体験をやり過ごした。因果応報もある。自分はこれで救われるか悩みます」と言った。若い修道士はそれに答えて次のように慰めた。「救いは神さまのお恵みです。私たちに資格があるから救われるのでなく、お恵みとして与えられます。素直に心を開き、その恵みを受けましょう」。その後も、訪ねて行ったり、文通を交わしたり、交流がつづいたが、もう亡くなられた。思いもかけない2つの出逢いが、ご縁をつなぐこともある。「ジンセイには、こんなフシギが、度々あると思う」。老人には、娘さんが居られた。時々交流をさせてもらっている。何10年のおつき合いだ。「ピン、ポン」。聖コルベ館のベルがなって、入って来たのは、あおの老人の娘さん(と言っても、もう熟年)とダンナさんの夫妻が姿を突然、現して、ビックリさせた次第だった。「よー来たね。ゲンキしとった?」「小崎サン、ゲンキそう」
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いい出会いと再会ですね。
返信削除若いころに一緒に働いた仲間に何十年ぶりに再会し、互いに今も同じ仕事を別々のところでして、同じ体験と、同じような悩みと喜びがあるから時間をこえて深いところでわかりあえた私の宝石のような時間を思い出しました。
良い恵み・・・よい時間・・・さらに長いお付き合いできますように。
私が住む広島で、そんな出会いをとまさんが経験されていること、うれしいです。
返信削除私が五島の福江の港の待合室で、たった一つ、空いていた席にすわったら、隣にシスターがすわっておられた。そのシスターからロザリオをいただいた。そのときから、傷心の一人旅が、イエス様との二人旅に、祝福の旅にかわりました。そして、そのシスターにお会いするために、3月に長崎に行って、とまさんとも会えた。
たった一つ、空いている席って、神様が準備してくださったものなのでしょうか・・・
感謝です。