長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年5月24日日曜日
人は見ていなくても、見ている御方がおられる
廊下を歩く。職員に会うと、「お疲れさま」と声をかける。廊下を歩くのは、午前中の日課です。階段から2階に上がると、廊下が明るくなる。廊下に添って、カウンターがあり、マリア像が立っている。「パッと、目についた」。前方、押し車の女性が、腰をまげながら、マリア像の前に手をつきて、ジッとして動かない。なにやら祈っている感じがする。しばらく立ち止まって、眺めた。何を念じているのか、わからない。カトリック信者なのか、そうでないのか、わからない。だが感動しますよ。ただ、黙して祈っている。「誰も見ていない」と本人は思っているが、静かに、うしろを通り過ぎた。隠れたところを、見ている人がいる。マリア像の足元には、かって、このホームで働いていた司祭とシスターの小さな写真が置かれている。腰をまげて、黙して祈る姿は、いまも印象的に残っている。見ていない所にも、こころ温まる光景がある。「目を与えた方が、見ていないことが、あろうか。耳を与えた方が、聞いていないことが、あろうか」。そのよう言葉が「教会の祈り」の詩篇にあった。「隠れた所から、隠れたものを見ておられる」御方がいる。人間は、それが理解できるのです。「お疲れさま」
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今日の日記は強く心に響きました。
返信削除感謝のうちに
トマさん、さすがに出会いがありますね。全てを造られた天の御父の愛を、思い起こさせて下さってありがとうございます!見ていないところで、見ておられる愛の御父・・
返信削除目も、耳も全て頂いたのですものね。トマさんも呼ばれたのでしょうね、祈る人の傍に・・・ルチア