豪華なお花。赤いお花。3月1日、誕生日に届いた立派なお花です。ホームの玄関に飾りました。
★この日、1つの、心に残る出来事があった。長崎市の誕生会に呼ばれて行った。途中で、聖コルベ館へ寄った。すると事務室の女性から「あら、たった今、小崎さんを訪ねて、愛知県からお坊さんが来られました。帰られたところです」。ええ、ザンネン、と思う。
★愛知県のお坊さんと聞いて、すぐに思い当たる節があった。もう、何十年か前に、なる。聖コルベ館に勤めていた時、1人のお坊さんが見学に来られた。「大浦天主堂へ行って来ました。入口で、この言葉を見つけたんです」と、バックから取り出した数枚の紙片に「天主様」の文字が一杯、書かれていた。それは「公教要理」の文章だった。「え?それが有ったんですか?大浦に?」。非常に驚いた。お坊さんが、その公教要理を抜書きするなんて、更にマジで驚いた。
★誕生会を終わって、ホームへ帰ると、今度は事務室の女性から「あら、小崎さんを訪ねて、愛知県刈谷市のお坊さんが来られました。先ほど、帰ったところです」とメモを渡された。お寺と氏名と、「30年ぶりでしょうか、お元気ということで、よかったです」と書かれている。「ああ、残念、お坊さんに会いたかった」と、全く惜しい気持ちがした。
★確か、あのお坊さんの事は、記事に書いたことがある。思い出して、文庫本を調べてみた。「春いつまでも」(1998年発行)にあった。彼は教育大学を卒業して、教師をしばらく勤めたが、やがて退職。家で数年間、読書三昧にふける。他人から勧められてお坊さんになる決意をする。大学で1年間、仏教を学び、得度して養子となり、お寺に入った。45歳になる、と記してある。
★そして私自身も、大浦天主堂へ公教要理を見に行った。茶色化した紙片に質問形式で、33問の額が掛かっていた。例えば「人の活きているのは誰のお陰でありますか▲人の活きているのは天主様のお陰であります」「天主様はどういうお方でありますか、の問いに、神の遍在や、全知、全能などが説明され、▲天主様は何でも御存じでありますから、天主様を騙すことも、隠すことも出来ません。悪いことをせず、善いことをしなければなりません」
★私はお坊さんのお寺を訪ねた。立派な門構え。230年以上の歴史を持つ本堂。あれから何度も長崎へ行った。夜行バスを利用する。「長崎では、いつも大浦天主堂と聖母の騎士へ行きます。大浦では神父とキリシタンの出会い、昔の出来事、聖母の騎士は今も信念をもって生活しておられる。肌で感じますね」
★私は、お寺の名前から住所をネットで調べて、「お会いしたかった」とハガキを出した。ああ、ザンネン、お会い出来れば色々話もあったろうに。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2019年3月5日火曜日
2019年3月4日月曜日
「やあ、『なは』ちゃんだよ。満3歳になりました」。ゲンキ
3月2日は「はな」ちゃんのお誕生日。満3歳になりました。「はな」ちゃんって、知っているでしょう。時々、日記にも載せてきました。ホームの職員・絵里さんの長女です。絵里さんは北海道の出身だが、高校卒業後、長崎へ来て、18歳でホームに勤めた。
★2015年5月、ホームの湯江教会で結婚式を挙げて、皆さんから祝福された。次の年、はなちゃんが生まれる。こんなに大きくなりました。最近は、カメラを向けると、「はずかしい」。じーっと、していない。お顔をそむけるんです。なかなか写真が撮れない。
★「はなが、きたよ」と絵里さんが自室に連れて来た。顔を隠して、イヤ。イヤ。こっち、むいてよ。「はなは、ね。リンゴが好きなの」。自室に丁度、リンゴがあった。「なはちゃん、リンゴだよ」と差し出すと、ごらんのニコヤカなおカオになりました。
★子供の成長は早いね。そして希望がある。人生にあるのは成長だ。どれだけ成長で変われるか。時代によって異なる。すこやかに育ってほしい。ゲンキに育ってほしい。その願いだけです。右の写真が、生誕3ケ月後の「はな」ちゃんでした。
★日記の読者さんから、フウーセンを送ってもらったり、お菓子をもらったり、見守って頂きました。どんな女の子に育つのかな、楽しみだね。お母さんの絵里さんは、懸命に介護の仕事を勤めています。ホームの誕生会の出し物にも出番があった。サラ廻し、傘での廻しで皆を楽しませた。
★時々、ホームにも「はな」ちゃんを連れて見えるので、皆さんからも「あら、はなちゃん」と喜ばれている。幼児がホームに来ると珍しい。皆、老い人ばかりだからね。満3歳だよ。未来がある。これからが楽しみです。時々は、日記にも「はな」ちゃんを載せて、成長を見守りたいと思います。
★満3歳の誕生日を迎えた「はな」ちゃんへの贈り物、よろこんで受け付けます。
★2015年5月、ホームの湯江教会で結婚式を挙げて、皆さんから祝福された。次の年、はなちゃんが生まれる。こんなに大きくなりました。最近は、カメラを向けると、「はずかしい」。じーっと、していない。お顔をそむけるんです。なかなか写真が撮れない。
★「はなが、きたよ」と絵里さんが自室に連れて来た。顔を隠して、イヤ。イヤ。こっち、むいてよ。「はなは、ね。リンゴが好きなの」。自室に丁度、リンゴがあった。「なはちゃん、リンゴだよ」と差し出すと、ごらんのニコヤカなおカオになりました。

★日記の読者さんから、フウーセンを送ってもらったり、お菓子をもらったり、見守って頂きました。どんな女の子に育つのかな、楽しみだね。お母さんの絵里さんは、懸命に介護の仕事を勤めています。ホームの誕生会の出し物にも出番があった。サラ廻し、傘での廻しで皆を楽しませた。
★時々、ホームにも「はな」ちゃんを連れて見えるので、皆さんからも「あら、はなちゃん」と喜ばれている。幼児がホームに来ると珍しい。皆、老い人ばかりだからね。満3歳だよ。未来がある。これからが楽しみです。時々は、日記にも「はな」ちゃんを載せて、成長を見守りたいと思います。
★満3歳の誕生日を迎えた「はな」ちゃんへの贈り物、よろこんで受け付けます。
2019年3月3日日曜日
ホームの誕生会。出し物の喜び。傘も周る、皿も回る、楽しさ
ホームの誕生会。3月生まれは9人がいた。私は1日生まれだから、真っ先に皆さんの「ハッピバスデイ」の歌と拍手に乗って、園長神父さんから小さな灯火と、お花と、おみやげ(チィッシュの重ね束=沢山使うので、これが一番良い)を貰った。やっぱり嬉しいね。
★あっちでもお祝いされ、こっちでもお祝いされて、生まれた日は忘れないよ。「がんばれ、がんばれ、あまり、すきじゃない。がんばって成功するのは、ひとにぎりの人間です。自然に、この道を歩んできた。まあ、がんばれば、なまけに、ならない。フンパツ・リョクには、なるね。せいイッパイ、生きました。それだけで、ジュウブンです」
★ホームの誕生会といえば、職員さんによる出し物だね。さあ、待っていました。今月は何が出るか。楽しみだよ。ボクはカメラ・マンだから、出番をバッチリ撮るよ。席を外して、仮装の職員をさがした。居た、居た、ここに、この人たちだよ。ハリッキって、いるな。両の手を広げたのは司会か解説者か。カサを持った2人に、左の女性はサラ廻しかな、顔を見ると、彼か、彼女か、ワカラン。とにかく、やる気、マンマンだね。この出し物はホームの歴史と共にあり、毎年、順番が来るから、芸達者が多い。とにかく愉快だよ。皆さんを楽しませよう。自分たちも楽しもう。そんな気持ちが伝わってくる。さあ、さあ、これから食堂へ入るぞ。音楽、頼むよ。
★カサ廻しから芸は始まった。カサを開いて、カサの上に乗せたボールや四角い箱を廻す。そりゃ、上手に周るさ。ボールも箱も、カサにヒモで結ばれている。笑いの中にハクシュが起こる。ポカーンと見詰める人もいる。いいフンイキだね。
★カサ廻しが一段落すると、今度はサラ回しだね。棒の上で上手に廻すサラ。オ、オ、オチルぞ、あぶない。でも、ナンか、カラクリがあるのか、サラは上手に回転する。そりゃ、みんなは喜ぶは、ね。上を見ようよ。たまには、上を見よう。そんな気持ちにも、させる。
★これだけ芸を果たせば、そりゃ受けますよ。ホーム全体が笑いに包まれる。それが大事なんだね。今の世の中、セチ辛い出来事が多いじゃないですか。「カンベン、ならん」とか「ゼッタイ、反対」だとか、高齢者を「ダマスしてお金を取る」とか、イヤだね。ホームといえば、イヤがれるが、No、No、楽しいよ。安心だよ。こうして誕生会をお祝いされるのは有り難いと素直に思い、感謝しています。
★「きょう、うれしかったこと、ある?よかったこと、ある?」
★あっちでもお祝いされ、こっちでもお祝いされて、生まれた日は忘れないよ。「がんばれ、がんばれ、あまり、すきじゃない。がんばって成功するのは、ひとにぎりの人間です。自然に、この道を歩んできた。まあ、がんばれば、なまけに、ならない。フンパツ・リョクには、なるね。せいイッパイ、生きました。それだけで、ジュウブンです」
★これだけ芸を果たせば、そりゃ受けますよ。ホーム全体が笑いに包まれる。それが大事なんだね。今の世の中、セチ辛い出来事が多いじゃないですか。「カンベン、ならん」とか「ゼッタイ、反対」だとか、高齢者を「ダマスしてお金を取る」とか、イヤだね。ホームといえば、イヤがれるが、No、No、楽しいよ。安心だよ。こうして誕生会をお祝いされるのは有り難いと素直に思い、感謝しています。
★「きょう、うれしかったこと、ある?よかったこと、ある?」
2019年3月2日土曜日
テレビまで来て盛り上がった誕生会。耐えて、いま有る事が尊い
苦しみがあっても、逆境に立っても、ハネのけてきた。乗り越えてきた。その証拠に、今がある。今が有ることが尊い。まわりから冷たくされても、踏まれても、それでもハネのけた。過去に耐えてきた。生きてこそ、いのちだ。耐えてきた歴史こそ、真実だ。本当に自分のものだ。生きてきた証でもある。大切なのは、今、有ることだ。
★誕生会は、長崎市築町の食事処で、この11人が集った。お祝いの花束、ケーキ、皆さんから温かい励ましのお言葉を沢山いただいた。参加者は、高原修道士さん、松下修道士さん、従姉のシスター、大学の先生、元・高校の女性の先生方、幹事役の千草さん、その友人女性、「写真集」を編集した野々村哲さん、塩沢美樹さん、多彩な顔ぶれで、心通う仲間なので、雰囲気は盛り上がり、予定の時間を越えて、宴は3時間つづいた。あっと言う間の3時間だった。私にとっては晴れ晴れしい場所、楽しかった、嬉しかった、長生きして、よかったと、心底、思ったよ。
★民放テレビの取材もあった。こんな誕生会って、ありますか。テレビが来るなんて、びっくり、しますよね。食事処は、狭い路地の、車は一方通行の場所にある。テレビが来るって先に連絡があったので、修道服を着て行った。
★高原修道士が運転の車を降りて、路地を歩く姿を、遠くからテレビ・カメラが追っていた。そこから撮影が始まった。実は、2月の中頃に、民放テレビの報道記者が、ホームに訪ねて来た。「小崎さんの特番を作りたい」「え?なんで?なにか材料があるの?」「大丈夫です」と女性記者さんは乗り気だった。そして今日が、その第1発目の取材である。
★テレビは、もちろん、花束贈呈も、ケーキのロウソクを吹き消す口元も撮った。大学の先生が乾杯の音頭をとり、1人1人が順々に感想や思い出を述べた。大学の先生とは、自著「長崎のコルベ神父」の著書がご縁になった。女性の先生たちは「ポーランドへ連れて行ってもらった。よい巡礼の旅だった」と、しきりに懐かしがった。最後に、テレビは私に感想を求めたが、「ポーォ」っとなって、何と答えたか、覚えていない。
★幹事役の千草さんは、ホームの皆さんへのオミヤゲとして、抱える程の「長崎のカステラ」を頂いた。お祝いのお酒も入っていた。帰りの高原運転の車は、カステラや、花束、お酒でイッパイだった。
★ホームの事務室で、栄養師さんを加えて、職員にお任せした。早速、その夕食にカステラはホームの全員、職員も、皆さんにも配られた。これ程までも面倒をみて下さるのは有り難いことです。91歳の誕生日は最高の日になりました。長生きすれば、楽しい事も良いこともあるんですね。幸せです。まだボケないぞ。ガンバルぞ。
★また宅急便でも、大きなキレイなお花を頂きました。お恵みをイッパイ頂いて、有り難う。テレビは、3月の中頃に時々ホームでの生活を取材して、4月になって、夕方の6時過ぎの「地方のニュース」の「特番」で放送する予定だそうです。これも楽しみですね。元気でいないとね。ますます希望が燃えてくる。
★誕生会は、長崎市築町の食事処で、この11人が集った。お祝いの花束、ケーキ、皆さんから温かい励ましのお言葉を沢山いただいた。参加者は、高原修道士さん、松下修道士さん、従姉のシスター、大学の先生、元・高校の女性の先生方、幹事役の千草さん、その友人女性、「写真集」を編集した野々村哲さん、塩沢美樹さん、多彩な顔ぶれで、心通う仲間なので、雰囲気は盛り上がり、予定の時間を越えて、宴は3時間つづいた。あっと言う間の3時間だった。私にとっては晴れ晴れしい場所、楽しかった、嬉しかった、長生きして、よかったと、心底、思ったよ。
★高原修道士が運転の車を降りて、路地を歩く姿を、遠くからテレビ・カメラが追っていた。そこから撮影が始まった。実は、2月の中頃に、民放テレビの報道記者が、ホームに訪ねて来た。「小崎さんの特番を作りたい」「え?なんで?なにか材料があるの?」「大丈夫です」と女性記者さんは乗り気だった。そして今日が、その第1発目の取材である。
★テレビは、もちろん、花束贈呈も、ケーキのロウソクを吹き消す口元も撮った。大学の先生が乾杯の音頭をとり、1人1人が順々に感想や思い出を述べた。大学の先生とは、自著「長崎のコルベ神父」の著書がご縁になった。女性の先生たちは「ポーランドへ連れて行ってもらった。よい巡礼の旅だった」と、しきりに懐かしがった。最後に、テレビは私に感想を求めたが、「ポーォ」っとなって、何と答えたか、覚えていない。
★ホームの事務室で、栄養師さんを加えて、職員にお任せした。早速、その夕食にカステラはホームの全員、職員も、皆さんにも配られた。これ程までも面倒をみて下さるのは有り難いことです。91歳の誕生日は最高の日になりました。長生きすれば、楽しい事も良いこともあるんですね。幸せです。まだボケないぞ。ガンバルぞ。
★また宅急便でも、大きなキレイなお花を頂きました。お恵みをイッパイ頂いて、有り難う。テレビは、3月の中頃に時々ホームでの生活を取材して、4月になって、夕方の6時過ぎの「地方のニュース」の「特番」で放送する予定だそうです。これも楽しみですね。元気でいないとね。ますます希望が燃えてくる。
2019年3月1日金曜日
91歳の誕生日。生まれた場所は北朝鮮の海辺の町だった
父と母は、1926年・大正15年3月13日に結婚した。父、松吉は37歳。母、ワサは26歳。11歳も年が離れていた。結婚式の写真が1枚残っている。母が立っており、父は腰掛けている。父は足に少しばかりの障害があった。
★2年後、私が誕生した。61年前になる。生まれる幼児は、どの家族で生まれたか、どの土地で生まれたか、どの宗教の家族であったか、影響を受ける。
★私が生まれたのは、北朝鮮の北部の小さな都市だった。中国、ロシアの国境に近い。日本海側の海辺の町だった。メモによると人口は凡そ2万2千3百人。日本人は2千2百人。中国人が900人。僅かにロシア人。後は朝鮮の人たちだった。
★家の職業は「精肉店」。日本人が買いに来た。宗教はカトリック。父は外海・黒崎。母は浦上。根っからのカトリック信徒だった。日本人は誰もカトリックは居なかった。もちろん教会もない。後で、教会が出来て、朝鮮人の司祭が常駐し、カトリック信徒が多く祈り、その中で私たちも祈った。この宗教が、私に大きな影響を与えることになる。
★生後1年の頃か、写真が残っている。椅子に乗せて、母が後ろから手で支える。片足で立っているのが、なぜか、わからない。「精肉店」の牛や鶏を飼育するのは朝鮮の人であり、商売柄、牛肉、鶏肉の仕入れのため、朝鮮の人とは深いつながりがあった。幼児の私は、オンドル部屋の、ツルツルした紙の感触と独特の匂いを、今も覚えている。白い朝鮮服を着た男たちの膝の上に抱かれて、長いヒゲがはえた男たちの愛撫で育った感触が、今は懐かしい。私にとって、北朝鮮の庶民は、みな善人だった。
★叔母たちの話によると、私は「動くもの」=自動車が好きだった。当時はバスがも、自動車も少なかった。新聞に自動車の広告の写真が載ると、「切り取って、壁に貼れ、貼れ」と、せがんだ、と聞いたことがある。にかく「ジーッと」していない子だった。
★私が7歳で、父トマ松吉は病死する。17歳で、母クララ・ワサは原爆死する。家族には恵まれなかった。
★今朝は、以上のような回想をした。誕生日の今日は忙しい。午前10時にホームを高原修道士の運転で出発して、長崎市へ向かいます。「91歳の誕生を祝う会」が10人程で行なわれる予定です。日記を早めに書きました。今日の後半の「誕生会」は、どうだったのかは、次に知らせましょう。
★2年後、私が誕生した。61年前になる。生まれる幼児は、どの家族で生まれたか、どの土地で生まれたか、どの宗教の家族であったか、影響を受ける。
★私が生まれたのは、北朝鮮の北部の小さな都市だった。中国、ロシアの国境に近い。日本海側の海辺の町だった。メモによると人口は凡そ2万2千3百人。日本人は2千2百人。中国人が900人。僅かにロシア人。後は朝鮮の人たちだった。

★生後1年の頃か、写真が残っている。椅子に乗せて、母が後ろから手で支える。片足で立っているのが、なぜか、わからない。「精肉店」の牛や鶏を飼育するのは朝鮮の人であり、商売柄、牛肉、鶏肉の仕入れのため、朝鮮の人とは深いつながりがあった。幼児の私は、オンドル部屋の、ツルツルした紙の感触と独特の匂いを、今も覚えている。白い朝鮮服を着た男たちの膝の上に抱かれて、長いヒゲがはえた男たちの愛撫で育った感触が、今は懐かしい。私にとって、北朝鮮の庶民は、みな善人だった。
★叔母たちの話によると、私は「動くもの」=自動車が好きだった。当時はバスがも、自動車も少なかった。新聞に自動車の広告の写真が載ると、「切り取って、壁に貼れ、貼れ」と、せがんだ、と聞いたことがある。にかく「ジーッと」していない子だった。
★私が7歳で、父トマ松吉は病死する。17歳で、母クララ・ワサは原爆死する。家族には恵まれなかった。
★今朝は、以上のような回想をした。誕生日の今日は忙しい。午前10時にホームを高原修道士の運転で出発して、長崎市へ向かいます。「91歳の誕生を祝う会」が10人程で行なわれる予定です。日記を早めに書きました。今日の後半の「誕生会」は、どうだったのかは、次に知らせましょう。
2019年2月28日木曜日
90は、きょうで終わるよ。あしたからは「91歳日記」
90歳、最後の日になりました。あした、誕生日です。91歳になる。「91歳日記」だね。
★よく、まあ、この歳まで生きたと思いますよ。生かされたからには、何かの意味があったのでしょう。その意味は分かりません。しかし有るのはお恵みとして受け取って、唯、感謝です。人間、生きるからには、「嫌が負うでも」年は取ります。精一杯生きれば、満足でしょう。老いるのは、有り難い事です。
★ニンゲンって、欲のカタマリですよ。若い頃は、欲に負けました。人間は弱いね。でも立ち上がり、傷つきながらも、前に進みました。裏(ウラ)の無い人間になりたい。常に、そう思った。偉そうに見える人でも、ウラが有ると、ガッカリする。立派な文言を並べても、信用できないね。
★「トマさん」「トマさん」と声をかけてくれるのは有り難いね。「トマ」のどこが、いいのかね。ワカラン、ワカラン、首をかしげて、ふしぎに思うだけです。ご縁をつづけて下さる人がいる。孤独じゃない。出会いだね。ホームに居ても、ふしぎな出会いもある。
★90にも成れば、欲も枯れてくる。瞬発力も衰えてくる。老いても「こころ」に「タカラ」は持ちたいね。何の宝か。愛と、イノチ。一貫して、人生のテーマは、これだったと思うよ。愛する事と、イノチの大切さ。あなたも、わたしも、生きるに値(あたい)する値打ちがある。物欲は、もう、いらない。食欲だけは残したい。食べる老人は元気です。
★朝食後、すぐ入浴しました。老いたカラダを自分で洗いました。よくぞ、生きてきたな、労わりました。昼食には「ぜんざい」が出ました。なぜ「ゼンザイ」か。わかりません。栄養師さんがメニューを作った。偶然でしょう。でも、わたしは、「ああ、これは90の名残か、お祝いか」なんて心で、「おかわり、ある?」と聞いたら「汁だけなら、ある」。もちろんお替りしたよ。しあわせ、だな。きょうの1日。
★よく、まあ、この歳まで生きたと思いますよ。生かされたからには、何かの意味があったのでしょう。その意味は分かりません。しかし有るのはお恵みとして受け取って、唯、感謝です。人間、生きるからには、「嫌が負うでも」年は取ります。精一杯生きれば、満足でしょう。老いるのは、有り難い事です。
★ニンゲンって、欲のカタマリですよ。若い頃は、欲に負けました。人間は弱いね。でも立ち上がり、傷つきながらも、前に進みました。裏(ウラ)の無い人間になりたい。常に、そう思った。偉そうに見える人でも、ウラが有ると、ガッカリする。立派な文言を並べても、信用できないね。
★「トマさん」「トマさん」と声をかけてくれるのは有り難いね。「トマ」のどこが、いいのかね。ワカラン、ワカラン、首をかしげて、ふしぎに思うだけです。ご縁をつづけて下さる人がいる。孤独じゃない。出会いだね。ホームに居ても、ふしぎな出会いもある。
★90にも成れば、欲も枯れてくる。瞬発力も衰えてくる。老いても「こころ」に「タカラ」は持ちたいね。何の宝か。愛と、イノチ。一貫して、人生のテーマは、これだったと思うよ。愛する事と、イノチの大切さ。あなたも、わたしも、生きるに値(あたい)する値打ちがある。物欲は、もう、いらない。食欲だけは残したい。食べる老人は元気です。
★朝食後、すぐ入浴しました。老いたカラダを自分で洗いました。よくぞ、生きてきたな、労わりました。昼食には「ぜんざい」が出ました。なぜ「ゼンザイ」か。わかりません。栄養師さんがメニューを作った。偶然でしょう。でも、わたしは、「ああ、これは90の名残か、お祝いか」なんて心で、「おかわり、ある?」と聞いたら「汁だけなら、ある」。もちろんお替りしたよ。しあわせ、だな。きょうの1日。
2019年2月27日水曜日
大浦の風景を懐かしむ「お礼のお便り」。あらためて写真に見入る
★昭和30年代に、長崎市・大浦天主堂から、長崎港を見渡した写真です。ゼノ修道士と共に、大浦を巡ったときに撮りました。いま見ると、現在とは全く違っている景色なので、貴重な写真になっています。三角が寄せ合って屋根になった洋館群は、もう無い。下の写真に立山が遠方に見える。日本26聖人の殉教の丘でもある。プチジャン神父は、大浦天主堂を26聖人殉教の丘に向けて建てた。我ながら、よくぞ、この写真を撮ったと、自ら感心している。
★大浦の思い出を寄せてくださった「なおみ」さんの手紙は、こんな筆跡で締めくくられていた。「30年代、40年代の、まだ豊かでない、不便な生活だからこそ、人との助け合いとか、思いやりがあったような気がします。修道士の方たちの屈託のない笑顔、やさしい眼差しが印象的でした」
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