「写真集」を受け取った長崎市の「なおみ」さんからのお礼の手紙。「早速、送っていただき、有り難うございました。私は長崎市内で育ち、大浦に嫁いだので、初めに大浦の写真があって、とても懐かしく拝見しました。友達が写真③の酒屋さんの横の洋館に住んでいたので、よく遊びに行き、2階の窓から、あの頃は団体旅行が多く、たくさんの観光客を眺めていました。
★そして天主堂の前で、大柄な赤ら顔をしたゼノさんが、いつもニコニコして冊子を配っていました。表紙を見て、あの笑顔だと思いました。今、思うと、すごいです。身近にキリスト教の方も多く、マリア園もあったので、同級生にも何人かいましたし、シスターになった人もいます。でも『聖母の騎士』のことは、ほとんど知りませんでした。ましてやポーランド人修道士の方たちのことは、初めて知りました」
★昭和30年代に、長崎市・大浦天主堂から、長崎港を見渡した写真です。ゼノ修道士と共に、大浦を巡ったときに撮りました。いま見ると、現在とは全く違っている景色なので、貴重な写真になっています。三角が寄せ合って屋根になった洋館群は、もう無い。下の写真に立山が遠方に見える。日本26聖人の殉教の丘でもある。プチジャン神父は、大浦天主堂を26聖人殉教の丘に向けて建てた。我ながら、よくぞ、この写真を撮ったと、自ら感心している。
★その証拠に、ゼノ修道士が同じ風景を眺めている写真がある。ゼノさんと一緒に大浦を巡ったとき、大浦天主堂の隣に大浦司教館がある。2階のテラスからゼノさんが港の方を見ている写真である。写真では薄く、屋根や山が写っている。この場面はゼノさんにとって決して忘れられない風景なのであろう。日本に着いて、長崎に上陸して、最初に来たのが大浦天主堂であった。おそらく当時の風景は、このような洋館群そのままで、殆ど変わっていないだろう。初めて見る日本の家々に、ゼノさんは、どんな気持ちだったか。コルベ神父と、ゼノと、もう1人の修道士と、3人は、ここ大浦が日本に於ける聖母の騎士の門出となった。
★大浦の思い出を寄せてくださった「なおみ」さんの手紙は、こんな筆跡で締めくくられていた。「30年代、40年代の、まだ豊かでない、不便な生活だからこそ、人との助け合いとか、思いやりがあったような気がします。修道士の方たちの屈託のない笑顔、やさしい眼差しが印象的でした」
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