母方の親戚が訪ねて来た。それで今日は時間を食ってしまった。書くのが遅くなった。従兄の子供たちだ。めったに会うことのない子供たちだ。「兄貴(従兄)が亡くなったのは、いつだったか?」
★日記を書くのは、いいことですね。「2012年10月だった」という。早速、日記を開いてみると、「博多へ、列車で日帰り。ホスピス病棟の従兄を見舞った」とある。写真の左の女性から電話があって、病院へ駆けつけた。その日記の文章を読んで聞かせた。
★私にとって少ない親戚の従兄である。7歳年上の、少年の頃から知っている従兄である。戦争中は航空兵で、当時はプロペラ機だったが、故障して山林に激突した。それでも助かった、と淡々と聞かせる従兄だった。つまり訪ねて来た女性たちの父になる。
★ホスピス病棟のベッドに横になっていた。目を閉じていた。名前を告げると、目を見開いて、うなずいた。久しく会っていない。覚えているかな。飛行機の話を出すと、従兄の顔に温かい表情があらわれた。ああ、来てよかったと思った。どこで生まれたのか?と聞くと、「たい・きゅう」と、はっきりした声で答えた。「たい・きゅう」とは、当時「朝鮮」と呼ばれた韓国の地名だった。
★次の夜に、従兄が「神に召された」と電話で告げられた。また博多へ出かけて、お通夜とお葬式でお別れをし、安息を祈った。私に出会って安心したのか、とも感じた。91歳であった。従兄は私と同じく身内が少なく苦労して育っている。だから彼の唯一の願いは温かい家庭を作ることだった。彼は、沢山の子供、孫、ヒイ孫に囲まれて、安らかに眠っていた。みんなから慕われ、家族の一同はナミダ、涙で見送った。集った皆さんの写真も載っている。
★戦後は航空自衛隊に勤めて、二佐にまで昇進した。棺の上には、長剣が置かれていた。私と従兄は、戦後の混乱のときの思い出につながっている。長い歴史をもつ少ない親戚・従兄との別れは辛かった。私はそばで悲しみの目で見つめていた。彼の霊名は「ヨゼフ」。私の胸に刻んだ。
★この文章を読んで聞かせると、女性たちは涙を拭っていた。血のつながりは、どうなっているのか、系図を聞きながら、書いて残した。突然の親戚の訪問だったが、よくぞ、ホームまで訪ねてくれたと、ありがたく感謝して別れた。
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