ホームに入っております。せまい部屋は、自分の家と思います。いまは生活の場をここに築きます。まわりの人と、挨拶を交わしながら、やっていこう。こころは落ち着くようになった。よく、眠る。完食する。食事は、おいしいです。自分にとっては、食べやすい食事で、ありがたく、いただいています。食卓の前の席の男性が、おもむろに十字を切る。自分も十字を切る。午後には、グランド・ゴルフがあった。★近くの出入り口から、薄暗い脇にスリッパを脱いで、履き替えて、屋外に出ました。芝生には、サンサンと陽があたっていた。暑い。グランド・ゴルフは、10人ほどが集まっておこなわれた。一息ついたところで、冷たいサイダーが出た。「もう、やめます」。スリッパを履き替えた場所に来たら、スリッパが正しく向きを変えて揃えられていた。「しまった。スリッパは正しく脱ぐはずじゃなかったか」。反省すると共に、誰も見えない場所で、スリッパを正しく揃えてくださったのは、誰なのか?そちらの方へ、こころが走った。職員さんか?たぶん、そうだろう。このような場所まで心をくばってくださる。ありがたいと、胸がちょっぴり熱くなった次第です。「こういう職員さんが居るホームは介護に安心できるに違いない」。そんなことまで考えた。自室にもどり、スリッパを揃えて入り、戸をしめました。★その夜の祈りに、こんな言葉があった。「神よ、あなたは信じる者の力、貧しい者の救い、正しい者の喜び。あなたの約束に信頼し、祈り求める私たちを、豊かな恵みで満たしてください」(教会の祈り[18]復活節第四水曜日)★信仰すれば、必ず、ふしぎな人生が、開ける。「神の人だ!」になる。聖コルベの生涯がそうであった。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年4月30日木曜日
2015年4月29日水曜日
タンポポは、やわらかい毛になって飛んで行く
散歩しようと、庭へ出た。タンポポが、やわらかい毛に変わっているのに気がついた。黄色い花だったのが、こんなに変わるんだね。風にゆられて、いずことなく飛んで行く。誰も知らない。そこから、また新しい花がさくだろう。ブログ(日記)を毎日書いている。タンポポの毛のように、どこへ飛んで行くのか知らない。どこかで何か新しい花が咲けばうれしい。いつからブログを書き始めたのだろう。このパソコンには、2011年12月1日から残っている。その以前から書いてはいるが、いつから始めたのかは覚えていない。★あの頃は聖コルベ館に居て、毎日、日記を書いてきた。楽しみに読んでくれている人もいるという。2011年6月20日のメモには、「毎日、ブログを見る人、150人ぐらい。多いときには250人にもなる。何を見ているのか。病気は大丈夫か、トマは元気だろうか。今日は何をしているだろうか。聖コルベ館に誰が来ているだろうか。長崎のニュースはないか。長崎の教会についても知りたい」とある★あれから4年が経った。今の心境はどうだろうか。やはり同じ数の人が、トマはどうしているのか、思ってくださっているのでないか。誰のもとに飛んで行くのか。タンポポの毛を見ながら、そう思う毎日です。人生って、黄色いタンポポの花が、やわらかい毛に変わるのと同じでしょう。長い人生には、納得しがたい、思いもかけぬ出来事が、1つか、2つ起こる。汚れた身も、こころのキズも、それは、そのまま、しまっておこう。意味は、いつかは開ける。よごれも、キズも、その人のタメになる。
2015年4月28日火曜日
出会いのドラマは、心から消え去ることはない
右側の女性が訪ねてきた。この女性とは・・・お父さんと面識があるのです。もう昔のことです。50年前になりますか。長崎から特急列車にのって、大阪をめざしていた。広島で途中下車の予定があったが、手違いがあって降りることができず、次の停車駅・岡山まで仕方なく乗った。岡山で降りて、広島へバックする列車にのったが、車内は混雑していて、1つだけ空いた席があった。そこに座ると、年配の男性が前に居り、窓辺に「聖パウロ物語」の本が置かれていた。折をみて声をかけると、最近、洗礼を受けたが、まだよく教えのことがわからない、など悩みを語っていた。広島で降りて、2人は別れた。用件を果たして、今度は大阪行きの列車にのると、また座った席の前に、あの年配の男性が居るではないか。ふしぎなご縁だった。列車のなかで、信仰のことを話し合った。「聖母の騎士をご存知ですか?」と尋ねると、「知らない」を言われたのを今も覚えている。人生には、こういう出会いもあるのでしょう。聖母の騎士をお送りし、それからは交流もあり、お宅まで訪ねて行った思い出もある。お父さんとは長くお付き合いさせてもらったが、人生で忘れられない出会いとなった。その後、娘さんとも交流がつづいた。この度、教会の神父さんと、ホームに見舞いにと、訪ねてきたときの数日前の写真です。ふしぎな思い出の出会いは、消えません。
2015年4月27日月曜日
道は変えることは出来ない。最後まで進む
ホームに1人、神父さんが静養されている。司祭になって、今年で60年、ダイヤモンドをお祝いする。大変なご苦労でしたでしょう。すべては神さまのため、信仰のためです。誕生日に、ミサに来られて、お祈りをして、聖体を拝領されました。わたしは横に居って写真を撮りました。★わたしは自分にも問いかける。なぜ信仰するのか。なぜ、この道を進むのか。答えは簡単です。自分の母親から、お乳と共に教えを受け継いだからです。この神父さんのお父さん、お母さんも知っている。終戦直後、小神学生(中・高)の頃、夏休みになると、帰る家がないので、五島の神父さんの家に泊まりに行って、泳いだり、魚釣りをしたりして遊びました。神父さんのお母さんの信仰・信心もよく見ております。朝夕の祈り。ロザリオの祈り。素朴で、熱心だった。「この道しかない」「お恵みも沢山いただいている」「生きるチカラでもある」「ルルドのお恵みも受けた」。先祖のためにも祈ります。信仰で受けた影響は大きかった。実践的だった。やがて両親とも、家を売り払い、牛もいっしょに山の施設に入り、農耕で働いた。最後は、このホームで亡くなったと思います。年は過ぎ去って行く。だが思い出だけは残る。記憶だけでなく、血となって汗となって残る。得た教訓も残る。もちろん信仰も残る。横で見ていて、頭が下がりました。ホームでの先輩です。だからホームの生活も寂しくない。隠れたところに、隠れたチカラがある。
2015年4月26日日曜日
外海・出津の人たちが面会にきた。会話もはずんだ
単調なホームの生活だから、わざわざ面会に来てくれる人がいると、うれしい。1日が明るくなる。夕方、電話の予告があって、待っていると、次の日、午前中に夫妻と、同じ集落の女性の3人が来られた。「外海の出津(し・つ)からです」。なつかしい所です。最近は、世界遺産候補の話題で盛り上っている。家は、行ったこともある、外海・出津の教会の近くの人たちです。「どうして来るようになったの?」と聞くと、「教会で会ったとき、行ってみようか、と話し合った」そうです。★女性は以前から知り合いの方だった。夫妻のことは、7、8年前からの知り合いに成る。名古屋へ住んでいた夫妻は、長崎へ旅行した。外海を見たとき、いたく気に入って、レンタカーの車中で、「こんな所へ住めば、いいね」と話し合ったそうだ。ご主人は早速、計画を実行し始めた。聖コルベ館にも来られたが、「やめときなさい」と余り乗り気ではなかった。地元になじめるかが問題でしょう。しかし夫妻は、いつしか、早々と行動を起こし、ド・ロ記念館の近くに家を建てて、移住してしまった。教会も近くで、地元の人たちと親しく溶け合って、楽しく暮らしているという。外海の人たちが訪ねてくれたのが、うれしい。外海・黒崎・出津は、懐かしさもあって、心がなごんだ。★日曜日。ミサのとき、ヨハネの書簡が読まれた。ググッと心にひびいた一句があった。「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」(一ヨハネ3章2)。前後に文章はあるが、学者でないので意味は解説できないが、この箇所だけは、胸を打つものがあった。どのようになるか、まだ不安を抱えているのは確かです。
2015年4月25日土曜日
助けてくれる、2人。春風にのって、さわやかだよ
2015年4月24日金曜日
人生には、奇妙な、つながりが、あるから、おもしろい
昨日の日記は、書くことは、いろいろあったが、春の「公園へのドライブ」を書いた。時間は、16時32分だった。すると、4分後の、36分に、1つのコメントが入っていた。あんまり「早ーやィ」と、ちょっと驚いたが、大阪在住の匿名さんのコメントは、「天草の教会」のことで、2012年5月23日の日記から、天草・大江教会を知って、今度の5月の休みに訪ねてみたい、と書かれていた。★「なんで、天草って、思うでしょう」。実は、この日の午前に、天草の夫妻と知人たちが3人、何の前触れもなく、突然、「心配しているぞ」と訪ねてきたのです。写真の3人がその見舞い客です。★ここで考えましたよ。日記を書いて、それにコメントが入って、天草のことが出てきて、なんと、その日に、思いもかけず、天草の夫妻らがやってきた。人生には、こういう、つながり、キズナの出来事があるから面白いのです。★さっそく、2012年5月23日の日記を探してみると、「ありました」。3年前の当時は、毎月1度、島原半島のオバマ温泉へ行き、定宿「富士屋」さんに2泊3日でお世話になって、のんびりと湯を楽しんでいた。中日は、雲仙や天草へ出かけた。その日は、天草へ渡って、大江教会へ行ったと書かれている。あの頃は自分で運転して、元気だった。大江の教会を最初に訪ねたのは、1957年・昭和32年の秋だった。当時の思い出は記録に残っている。★「それがね」と天草の男性が言った。「おみやげを買おうと、富士屋さんへ立ち寄ったら、わたしの顔をみるなり、登明さんへお渡しくださいと、おみやげを、言付かったよ。顔を見るなり、だよ。ハ、ハ、ハ。帰りに今夜、泊めてください、と頼むと、満室と断られた。ウハハハ・・・」と大笑い。★「聖母の騎士誌に書かなくなったから、寂しいよ。また書いてくれよ」と、しきりに勧められる。騎士誌に50年近く書いてきたが、最後の文章は、昨年、2014年10月号の、この天草の夫妻の信仰実話「夫婦愛の幸せ」だった。★「感動、何に感動するか、です。常日ごろ、みている風景、出来事、そこから一瞬、アッと、パッと、ひらめきがある。それが人生にシュン発力を与える」★1930年・昭和5年4月24日、マキシミリアン・マリア・コルベ神父さまと、ゼノ修道士は、東洋宣教のため、長崎に到着。最初に、大浦天主堂を参詣し、信徒発見の聖母マリアさまに篤い祈りをささげた。きょうは、その記念日です。ミサで祈りました。
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