2019年4月20日土曜日

入る時は、夕焼け空。出た時は、満月だった。見事な景色に感動

いまは「聖週間」という。浦上では、子供の頃、母は、「大きな声で笑うな」とか「映画を見に行くな」「ゴミを拾いなさい」など小さな犠牲を教えた。そういう教育の仕方があった。
★昨日は「聖金曜日・主の受難の日・悲しい気持ちの日」。湯江教会では、夜、7時から聖金曜日、主の受難の儀式が行なわれる。教会へ行こうと、ホームを出たところで、西の空が見事に赤く染まっていた。何やら神秘を感じた。「きれいだ、なァ」。以外に無い。
★始まった儀式では、聖書から「受難」のくだりが長々と読まれた。長く立つことが出来ないので、座ったままで、その有様を連想した。十字架を担い、裸にされて、「われ、乾く」と仰せられて息絶えられたキリスト。神の御子も人間と同じように、死を受け入れられた。あまりにも残酷な死だった。痛ましい気持ちになる。
★自分の死の予想も考えた。いずれは死は、やってくる。再び、ガンを宣告されて、「あなたの余命は半年です」と言われたら、その心境はどうなるか。私の場合、血尿して、ガンを告げられて、10年になる。ちょうど「登明日記」を書きだした頃であった。幸い、抗がん剤が効果があって、まだイノチの無事がつづいている。
★私の知っている女性は、ガンを告げられ、余命半年と言われたが、2年は生きた。息を引き取るとき、「わたし、必ず、復活するから」「死ぬのは、いっとき。だから大丈夫」と言って亡くなった。その女性の体験から、苦しみや病気の悲しみにも、意味があると信じたい。大曾神父さんや、全盲の村山修道士、ローマン修道士のことを想う。
★日頃から、常に神に祈り、愛や導きを感じ、罪を悔やみ、つながってきた。いま、神の愛と永遠のいのちに戻ります。その希望がある。現実を受け入れるというよりも、未来を見詰める。
★儀式は、1時間ほどで終わった。教会の外に出ると、もう真っ暗になっている。突然、「アッ、月が」と誰かが、叫んだ。本当だ。まん丸い月が、夜を照らしている。「ああ、きれいだな」。右側が湯江教会。左側の建物がホーム。こんなに近い。白いご像は、聖コルベ神父のお姿です。「あんなに、真ん中に、見えるなんて」。お月さんを見て、何だか静寂な気持ちになる。「春分の日の後の、満月の、次の日曜日が復活祭だよ」と、よくぞ、言ったモンだ。潜伏キリシタン達も覚えていた。秘かに祈る潜伏者たちも、あの満月を待ち望みながら、主の復活の喜びと希望を持ったに違いない。
★今日は、朝食後、入浴した。ゆっくりとした気持ちで過ごしている。夜、7時から「復活徹夜祭」が行なわれる。「復活祭、おめでとう」のカードは、1枚だけ届いた。

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