2018年8月3日金曜日

部屋の窓から、教会の鐘と屋根。ここが生きる場所


左は、入園したとき、自室の部屋から見えた風景です。小学校やグランドがあって、児童たちの声も耳によく届いた。遠方には雲仙岳が棚引き、有明海も細長く見えて、景色がいい部屋でした。ここに1年と9ヶ月生活した。ホームの室内の改装工事があって、各個室は畳から、将来は車椅子でも入れる板床になった。「部屋を変わってください」
★今の部屋へ変わって、窓から見える風景は「教会の鐘と屋根」になった。右側の写真です。もう子供たちの声は聞こえない。鐘の音が大きく心を揺るがすだけです。この部屋に変わって、丁度、昨日で、丸2年になった。
★各部屋には、心境の変化がある。前の部屋には、見舞い客は入れなかった。窓の景色はいいが、廊下が暗い。天窓が有る。今の部屋は、廊下が広くて、明るくて、窓からは山や、家々や、風景がよくて、お客さんを受け入れても、心は楽しい。見舞い客は自室まで案内している。気持ちにも変化があった。
★最近は自室の風景は余り気にしていない。窓の外を眺める事もない。それよりも今年の夏は特に酷暑で、昨年までは夜は冷房を消して、窓を開けて寝ていたが、今年は窓を開けると、教会の屋根の熱が照り返して、熱い風が入ってくる。寝るときは、冷房は消しているが、夜中に、少しの時間、冷房を使っている。
★昼間は、冷房に頼って、快適な生活をしている。熱中症に罹ることもない。平和で、安らぐ、有り難い生活の毎日です。

2018年8月2日木曜日

フランシスコ会の大聖堂(アシジ)献堂の祝日です

イタリア・アシジのポルチウンクラ教会。(ある資料から抜書きしました)。伝承によると、4世紀に、エルサレムからの巡礼者が、マリアさまの御墓の遺品(かけら)を携えて到来し、隠遁生活を送ることを願ったとされています。聖フランシスコの頃には、ベネディクト会が小さな教会を所有していました。1210年には、ベネディクト会から聖フランシスコたちが使用する許可を受けました。
★16世紀頃には、屋根のようなもので教会を保護していましたが、1569年から1679年にかけて、教会をおう大聖堂が建設されました。1832年には地震で天蓋が崩落しています。1909年、聖ピオ十世教皇は、アシジの聖フランシスコ大聖堂と同じように、この天使の聖マリア大聖堂も教皇の大聖堂としました。(以上が、ある資料による)
★今日は、ポルチンクラの天使の聖マリア大聖堂(サンタ・マリア・デリ・アンジェリ大聖堂)献堂の祝日です。祝日に即したお祈り(ミサ・教会の祈り)を捧げました。「教会が愛のうちに一つの心、一つの体となり、聖母マリアと共に心を一つにして祈ることができますように」(共同祈願)
★この大聖堂にも何度か巡礼しました。大きな聖堂の中に、聖フランシスコの貧しい、美しい小さな教会があるのです。大聖堂の奥に進むと、聖フランシスコのご像があり、足元に鳩が静かに大人しく守っています。その雰囲気が不思議でした。トゲのないバラもある。その奥に売店がありました。
★今日は、イタリア・アシジや、ポルチンクラのこと、この大聖堂の近くのホテルに宿泊したことなどを懐かしく思いながら過ごしました。

2018年8月1日水曜日

入江さんの誕生日。93歳になった。焼酎が元気の源

ホームでの親友、入江さんの誕生日です。大正14年8月1日に生まれた。満93歳になる。入江さん、おめでとう。今朝のミサの後で写した。手にロザリオを持っている。「さすがは、長崎の信者だな」。入園したのが、2015年4月30日でした。丸3年になる。一緒に入浴して、入江さんは、背中を流してくれた。最近は、別々に入浴している。
★入園する1ヶ月ほど前に、入江さんから電話があった。以前に、熊本の入江さんの自宅に訪ねたことがある。トマを知っていた。奥さんを亡くして、入園したいという。その後、数日、実際に宿泊にきた。入江さんは、終戦の前後に、聖母の騎士に神学生として生活したことがある。ホームに来て見て、聞いて、亡くなった同級や同窓の司祭の名前が次々に親しく出てくるので、「我が家に帰った気持ち」になり、迷わず喜んで入園した。結局、トマの背中を流す交友となる。「いつまでも元気で長生きしてください」。それが願いです。
★昼食は、入江さん、浜田神父さん、高原修道士さん、トマの4人で、有明海の海沿いの食事処「大橋」へ行き、お祝いしました。お湯割りの焼酎を、ゆっくり飲んでいました。うなぎ定食を全部、食べました。入江さんを見守ってください。

2018年7月31日火曜日

歯は大切に。自分の歯。これで90年、噛み締めたよ

「生かされる」ことは、ありがたい、そう思います。歳を取れば、それだけ苦労も多い。それでも生かされているのは、ありがたい。
★午後から、ホームの職員さんの運転で、20分の所にある「歯医者さん」へ出かけた。歯の痛みを感じたのが、初診だったが、丁寧に掃除をしてもらううちに、痛みはなくなり、1ヶ月半ぐらい於きに通っている。歯石を取ったり、磨き方の指導や、1時間はかかる。治療の途中で、1回、トイレに行かせてください、と言うのが、自分でも困惑している。
★歯科衛生士さんの説明によると、中学生から高校生の頃に、28本から32本の歯が揃うそうです。自分には、32本の歯がある。総て手を加えているそうです。ちょっと、詰めたり、被せたり、差し歯にしたり、それでも32本揃っている。「歯を大切にして、よく磨いてください」と言う。治療は、「1本は親知らずで、抜きましょう」「あと1本は、グラグラしています」と言われるが、それでも、「そのままに、していてください」と頼んでいる。
★歯を見れば、人生、いろいろ、あったな、と言えそうです。前歯の上2本は、椿原の学校時代、児童が、棒を振り回していたのが、前歯に当たって、欠けてしまった。差し歯の値段は高くついた。棒が他の場所に当たらなくて、よかったと、いいように解釈する。歯は大事にしようと思います。生きることは、不思議だな、と歳を重ねるごとに、そう思います。

2018年7月30日月曜日

好物の食べ物は、牛肉の天ぷら。母の思い出、味あり

ああ、牛肉の天ぷら、が食べたいなァ。牛肉の天ぷらを出す食事処はないですね。トン(豚)ぷら、というのは、あった。両親は出稼ぎに北朝鮮へ行った。商売をしたのは、精肉店です。牛肉店だからね。おいしい、いい肉が沢山あった。ステーキなど、あまり食べない。やわらかい牛肉を薄く切って、野菜と混ぜて炒めたり、天ぷらにしたり、中でも天ぷらが大好物でした。
★四角い、大きなハムも売っていたが、ロシア人家族が買い求めていた。正月は、鶏も販売した。子供の頃の食生活が、大人になっても、この歳になっても、引きずるんですね。ハムや、ソーセイジは、箸が進まない。
★牛肉の天ぷらは、揚げるのが結構、難しい。肉と、ころもが、外れるんですね。旨く、揚げるには、コツがいる。母親の天ぷらが最高だった。牛肉の天ぷらを食べると、母親を思い出す。従姉が、思い出しながらメモをした、牛肉の天ぷらの作り方を書いたのがあったが、探しても見つからなかった。
★ホームに入園する前、月に1度は、療養に2泊3日で温泉宿に行っていた。宿の女将さんにお願いしていたのが、牛肉の天ぷらで、これを食べるのが楽しみでした。今は、それも、ない。ああ、さびしいなァ。やわらかい、アブラ身がない所を、上手に揚げて、醤油をかけて、食べてみたい、今日は、そんな思いを書きました。

2018年7月29日日曜日

テレビに、太宰治が出た。思い出のメモ。求む希望

喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ、というが、ニンゲンの心情は、そう簡単ではない。友人の健康が快調だ、と耳にすると、時には秘かに心が引くこともある。調子が良くないと聞くと、(さあ、どうなるか)と、内心、妙な興味が走る。妬みの心か、他人に抜きん出たいのか、ホンネは複雑なのが、人間です。
★テレビで、ある特番があり、作家・太宰治を知る人の話が出た。そのテレビを見た瞬時に思ったのです。太宰治の「人間失格」や、他の本は読む機会がなかったが、ずーっと以前、10年程前に、ラジオの深夜便で、ある夜、太宰治の話が耳に飛び込んできた。語る切り口に心が揺れた。話の最後の部分の、5分間ぐらいしか聞けなかったのが残念だったが、それでも飛び起きて、電気をつけて、すぐにメモした。あの頃は元気があった。それが次の内容だった。
★「太宰は聖書を熱心に読んだ。汝の敵を愛せよ。だが愛せない。太宰は「ことば」から入った「天才」だ。最高の、言葉、天才は、イエス・キリスト。太宰はイエスに惹かれたが、自分は出来ない。罰せられる者である。その後で『人間失格』を書いたが、そこには聖書の言葉は全く出てこない。だから現代のフアンが惹きつけられるのだ。完全には他人を愛せないから、せめて周りの人を大事にしていこう」。これが内容だった。誰の話だったか、わからない。太宰といえば、絶望感のイメージだったが、「聖書を熱心に読んだ」部分に、心が惹かれた。
★ニンゲンって、心の振幅は、誰でも同じじゃないか。自己には欲望があり、尽くしても、果たしても、満たされぬ渇きある。絶望と、希望。取り巻く人間にも、悩み、苦しむ。その中で救われたい。本当の幸福を求めたい。ニンゲンの叫びが聞こえてくる。「せめて周りの人を大事にしていこう」。周りの人が冷たく引く原因は、自分の根幹にあるのでないか。自分を正せば、事は丸く収まることもある。
★テレビで、太宰治を知る人は、「彼は、低い声で、ゆっくり話し、やさしい人だった」と語っていた。

2018年7月28日土曜日

子供の心に、戦争キライ。平和で、仲良く、希望を

小学生たちは、もう夏休みに入ったでしょう。6月に、小学校で、70人ほどの児童に、原爆の語り部を努めました。そのお礼と、感想文集が届きました。2年生、「れいな」さんの作文です。「わたしは、げんしばくだんのこわさが、わかりました。日本が、へいわになるように、みんなとなかよくしたほうがいいと、思いました。どのくにも、しあわせになってほしいです。だから、もう、けんかにならないように、どのくにも、なかよくしてほしいです。これからわたしは、みんなが、へいわに、くらせるように、なかよくしていきたいです」
★幼い子供たちだが、アタマの片隅に、「平和で行きたい」希望が、残るでしょう。写真をよく見てください。パネルに、3人の女の子がいます。仲良し姉妹です。隣の女の子です。私は、兄弟姉妹が居ない、一人っ子だから、隣の女の子3人と、とても仲良しでした。小学6年生と、4年生と、幼稚園の少女でした。原爆に会って、3人は、どこにも傷を受けていなかった。それが、日が経つうちに、放射能の影響で、高熱が出て、苦しんで、幼い子から次々に死んでいった。こんな悲しいことがあるか。
★3人の少女の事を、みんなに語り、話の後で、小学6年と、小学4年の児童と一緒に写真に撮ったのです。供養になるからと思いました。
★小学6年と、小学4年の児童と別れるとき、「ハイ、アクシュ」と、子供たちと握手を交わしました。1人の小学6年の男の子が、言った言葉が忘れません。「ショックだった」