2020年7月24日金曜日

「こころの時代」。取材は快調。自分を見直すチャンスになった

毎朝、4時半に起きる。身を整えて、自室を、5時15分に押し車で出る。誰も居ない暗い廊下をしばらく歩く。ホームの戸を開けるのは、数分経っている。教会には、濱田院長神父さんと高原修道士さんが居る。テレビのディレクターが「祈りとミサの儀式を下見に来たい」という。「5時15分過ぎには、戸口から教会へ行くからね」。その時間に、ディレクターは車で姿を現わした。その熱心さに感心する。
★肝心のインタビユーは、ホームの隔離された「面会室」で行なわれた。3度も行なった。「もう、いいだろう」と言えば「また」と頼まれる。結局7時間の長丁場になった。「なにを、聞くのかね」。撮影の前日には、毎度、FAXで、質問事項が送られてきた。だが実際は、事項から離れる語りが多かった。この長丁場のテレビを、どのように、つなぐのだろうか、組み立てるのか、トマには大きな興味になる。
★長崎・聖母の騎士でも収録が行なわれた。度々長崎へ行った理由は、ここにある。聖コルベ館や聖コルベ小聖堂は外せない。原爆体験を語る中で、こだわったのが「赦しなさい」だった。今の世、「赦せない」出来事ばかりじゃないか。殺傷事件、違反の交通事故、おれおれサギ、イジメなど、赦せない。本当に、コルベ神父は、ナチの兵隊を赦したのだろうか。疑いが起こる。
★赦しとは、悪を認める事ではない。悪を行なう人間に対しても、回心への優しい眼差しを向ける、それがコルベ神父の赦しだった。並みの人には出来ない。コルベ神父に、なぜ、それが出来たのか。コルベ神父は「身代わりの愛」「お礼を求めない愛」、それらを貫いたからこそ、ナチの兵隊に優しい目を向けることが出来た。恨んで当然、憎んで当然、仕返ししようと思って当然、なのに、コルベ神父のような人がいる、という事なんです。そこに人間への希望がある。だから「赦しとは、和解と平和の、愛の心」なのです。このコルベ神父の祭壇に、我が人生の流れの中での「答え」が有る。
★また、「信仰は、母親から貰った、財産です」。その信念は変わらない。何か、大きな「いのち」の流れというか、源から、生まれて、存在し始めた。人と、人との「関わり合い」のなかで自分を見つけて来た。自分が生きて、実際に自分が見たもの、触れたもの、肌で感じたことが、真実です。それは納得するし、受け入れやすい。わかった自分は、生きて行く価値があり、意味もある。自分は決して、強者ではない。「弱さに、希望を」。まさに、それです。
★「こころの時代」の取材は、6月中に、➀ホームの祈りとミサの場面も、➁聖コルベ館も、➂聖コルベ小聖堂の撮影も、順調に行なわれました。残るは④聖母の騎士のルルドです。そこに登るのは(経験者には分かるが)難儀だと、充分、予想はされました。しかし何とかして、がんばりたい。もう、これが最後だろうから、何としても果たしたい、こころは燃えておりました。
★「あなたに出会えて、あの時は、幸せだった。本当だよ。私の人生のなかで、1つの愛の大切な思い出」。そんな心が、いま私に湧いてくる。

1 件のコメント:

  1. がぶらってぃ2020年7月24日 22:22

    今、この時期に、トマさんがこころの時代を通じて広い世界に繋がることの意味を繰り返し繰り返し考えております。番組に繋がる情報の受け手自身が気づいているか否かに関わらず、必要とされている多くの場に届きますよう祈ります。

    取材申し込みから発表されるこれまで、トマさんはよく時を待たれたと思います。大事に丁寧に取り組まれた流れを共有します。

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