電話があった。「モシモシ、出津(外海)の江口です。長崎新聞に小さな記事を書きました。読みました?」「イヤ、まだ見ていない」「よかったら見てください。500字以内ですから、短い文章です」「それは有り難う。後で読ませてもらうよ。それより、出津のド・ロさまの救助院ね。改築中でしょう。もう出来たようだが、いつオープンするの?待っているよ」「来年の4月に改築祝いです。ミサもある。一般見学は5月でしょう」。救助院は、ド・ロ神父資料館の前にある。ド・ロ神父さんは、この2階建ての大きな建物に、村の娘たちを集めて、1階で農業、カイコの飼い方、編み物など実際の教育を行なった。2階は全員、合宿で、祈り、宗教の教え、聖歌練習、教養などの養成を行なう。ここから、結婚する者、オンナ部屋に入る者に分かれて、結婚した家庭から多くの聖職者、司教、司祭、シスターが何百人となく育った。いわば花嫁学校でもあった。出津に召し出しが多いのも、この建物に秘密があった。長い間、解体し、また元の通りに再建していた。この建物が出来ると、また見学の場所が増える。ド・ロ神父さまを偲ぶよすがとなる。期待している貴重な建物です。江口さんの報告で、いまの事情がよく分かった。さて、長崎新聞を見ると、このような記事が「読者のページ」に載っていた。記録のために、ブログに取り上げました。長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年12月23日日曜日
新聞に小さな記事。出津の江口さんが書いた。思い出
電話があった。「モシモシ、出津(外海)の江口です。長崎新聞に小さな記事を書きました。読みました?」「イヤ、まだ見ていない」「よかったら見てください。500字以内ですから、短い文章です」「それは有り難う。後で読ませてもらうよ。それより、出津のド・ロさまの救助院ね。改築中でしょう。もう出来たようだが、いつオープンするの?待っているよ」「来年の4月に改築祝いです。ミサもある。一般見学は5月でしょう」。救助院は、ド・ロ神父資料館の前にある。ド・ロ神父さんは、この2階建ての大きな建物に、村の娘たちを集めて、1階で農業、カイコの飼い方、編み物など実際の教育を行なった。2階は全員、合宿で、祈り、宗教の教え、聖歌練習、教養などの養成を行なう。ここから、結婚する者、オンナ部屋に入る者に分かれて、結婚した家庭から多くの聖職者、司教、司祭、シスターが何百人となく育った。いわば花嫁学校でもあった。出津に召し出しが多いのも、この建物に秘密があった。長い間、解体し、また元の通りに再建していた。この建物が出来ると、また見学の場所が増える。ド・ロ神父さまを偲ぶよすがとなる。期待している貴重な建物です。江口さんの報告で、いまの事情がよく分かった。さて、長崎新聞を見ると、このような記事が「読者のページ」に載っていた。記録のために、ブログに取り上げました。
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