長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年3月13日火曜日
過去の行ないに、心の整理がつきません
歳をとって、微妙に、迷っているのです。若い頃は、良心に背く行ないをして、本当に悪かった、ダメなオレだ、そう思いました。ハッキリしていた。だから告白もしてきました。正直に。ウソを言っては、いけません。恥ずかしい罪でも、正確に打ち明ける。踏んだら、ワルイですよ。罪の意識がある。踏んで、平気なら、キリシタンじゃない。罪の意識が、有るか、無いか。これは大事です。有りましたよ。それでも、また踏んでしまう。コンチリサンを唱える。決心は、します。踏みたくない。イヤです。拒否する。ところが最近、歳をとって、過去を思い出すとき、良心に背く行ないを成したこと、単純に、ああ、ダメだったと、思えないのですね。人生に、そういう体験が有って、良かった。肯定する気持ちさえ、有る。これは、どういうことですか。歳をとって悩むことがある。ハッキリ、わるかった、認めなさい。降参しなさい。人間って複雑と思います。そのとき、罪の意識が有って、ごめんなさい、と述べて、何年たっても、あれは悪かったと思わなければ、本当じゃない。むずかしいです。
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