2018年10月2日火曜日

大曾昭神父、逝去。ホーム生活2年6ヶ月。悲しい

昨日(1日)、諫早の病院に入院中の大曾昭神父さまが、午後3時30分に神に召された。ご遺体は夕方、ホームへ帰って来られた。湯江教会の一室に安置されています。お顔は、シワもシミも全くなく、輝くように美しく安らかに眠っておられます。
★写真は9月12日、最後になった大曾昭神父さまです。この日はホームの礼拝の日でした。大曾神父さまは祭壇の近くで、ミサで祈りました。ローマン・カラーをしていたので、トマは何故か撮りたくなった写真です。
★ミサの後、教会の玄関でも大曾神父さまと撮りたくなった。次の日に大曾神父さまは緊急入院しました。修道名はアンゼルモ。8月10日に誕生日を迎えて、91歳になった。愛知県春日井教会・修道院から来られて、ホームの生活は2年6ヶ月になります。トマと一緒に写真を撮った翌日に入院されたので、日記には書けなかった。1ヶ月で、神に召されるとは全く予想もしなかった。本当に穏やかな優しい神父さまでした。大曾神父さまがホームに居られることで、生活にチカラ強いパワーを貰っていました。記憶もハッキリしていて、魚釣りなど長崎周辺の詳しい海の状況など話してくれました。大曾神父さまはホームの職員からも大事にされて、手厚い介護を受け、大曾神父さまも素直に聞いてくださるので職員は喜んでいました。昨日は幼いイエスの聖女テレジアの記念日。今日は守護の天使の日です。
★通夜は3日。葬儀は4日、修道会の創立者・聖フランシスコの祭日。長崎・聖母の騎士教会で行なわれます。ホームでは、それに先立ち、お別れの会があります。どうぞ皆さま、大曾昭神父さまのためにお祈りください。

2018年10月1日月曜日

10月、ロザリオ月。聖女テレジアの恵みの実話

朝ミサの時、司祭が告げた。「10月はロザリオの月です。ロザリオを聖母マリアさまに捧げましょう。今日は幼いイエスの聖女テレジアの記念日です。聖女テレジアは宣教者の保護者でもあります」
★写真は長崎・聖コルベ館に展示されている幼いイエスの聖女テレジアの聖絵(左側)。コルベ神父がポーランドから取り寄せた。「10月がロザリオの月。そして聖女テレジア」というと、どうしても忘れない話がある。私が直接、長崎・神の島教会へ行って、当時、主任の岩永静夫神父さんに聞いた。もう何10年も前の話です。
★岩永静夫神父さんは神学生時代に、コルベ神父から哲学を習った。哲学と共に、聖母マリアへの信心、ロザリオの勧め、宣教者の保護者・幼いイエスの聖女テレジアへ取り次ぎを願う心を教えられた。当時は未だテレジアは福者で、コルベ神父は「あなたの事を騎士誌で宣伝しますから、恵みの取り次ぎを願います」とテレジアと契約を結んでいた。そして実際に多々恵みもあった。
★岩永神父さんは司祭になり、兵隊に採られ、満州へ送られた。現地で終戦。ソ連兵の捕虜となり、シベリアで過酷な労働を強いられた。司祭なのにミサも挙げられない。岩永神父さんは苦難な生活の中で、毎日、ロザリオを3本唱えたというのです。指でも唱えられる。信じられますか。あの軍隊で。エライと思いますよ。更に、コルベ師から教えられた「宣教師の保護者・幼いイエスの聖女テレジアに取り次ぎを祈りなさい」。岩永神父さんは祈った。
★7年の苦難の後、生き延びて、長崎へ帰った。真っ先に向かったのが大浦天主堂であった。丁度10月、ロザリオの月で、夕方、堂内では大勢の信徒がロザリオを唱えていた。その時の感激。想像できるでしょう。しかも、その日は、何んと幼いイエスの聖女テレジアの祝日(注・当時は10月3日でした。今は10月1日の記念日)だったという。
★岩永静夫神父さんから、この実話を聞いた時、人の一生に於ける大きな神の恵みと導きがあるのを強烈に感じた。あの神父さんは既に故人となられた。しかし私の心には、岩永神父の苦労とお恵みが消える事無く残っている。私の信仰のチカラにもなっている。こうした素晴らしい信仰の実話は、残していきたいと思っている。
★幼いイエスの聖女テレジアはカルメル会のシスター。120年程前に、24歳で神に召された。修道院の中で過ごしたが、宣教の熱意に燃えていた。
★『トマさんのことば』「いい思い出を沢山つくろう。いい出会いを沢山しよう。いい話を沢山聞こう。これが私の3原則です」

2018年9月30日日曜日

出津・文化村へ。遠藤周作先生との出会いの思い

山梨の渡辺幹雄さんのおかげで、久しぶりに外海へ行った。そよ風に吹かれ、気分上々、子供の頃を思いめぐらす。背景の出津集落。今は文化村と呼ばれている。
★少年の頃の思い出。原爆・終戦の1ヵ月後、黒崎の父親の生家に帰り、被爆した身体を休めた。体に得体(えたい)が知れない吹き出物が出て、出津の医者に通った。原爆の影響であろう。心細かった。
★黒崎の生活は1ヵ月で、聖母の騎士に入る。出津まで歩いた思い出もある。当時、出津教会の主任司祭は中島万利神父さま。聖母の騎士のミロハナ神父は戦争中、抑留され、外出禁止だった。戦争が終わって自由になり、初めて訪ねたのが中島万利神父だった。ミロハナ神父から「中島神父さまの所へ連れて行って欲しい」と頼まれる。バスも船もなく、2人は長崎から徒歩で1日中歩いて、出津まで案内した。その後も、中島神父さまが主任の時、長崎から船便で、神学校のため芋や野菜を貰いに行った。
★当時は、ド・ロ神父の偉業も知らなかったが、地元の坂本仙太郎や、田中用次郎さんの説明で、ド・ロさまの素晴らしい足跡を教えられる事になる。騎士誌に記事も書いた。
★外海といえば、遠藤周作先生との出会いも貴重な体験となる。「沈黙の碑」も出津に建った。遠藤先生は作品「女の一生・第二部」で、コルベ神父の事を書いた。大浦周辺を案内し、資料を差し上げ、「大変、役に立った」と喜ばれた。
★「彼は愛の狩人だった。愛を求めて日本へ来た。そして愛のため失敗もした。愛のため傷つきもした。しかし最終的には『友のために死す』愛を完成した。それを若い人たちに教えるべきですよ」
★山梨の渡辺幹雄さんにはお世話になった。車の中で私は言った。「旅の目的は3つある。第1は、ホンモノを見る。本や教科書で見たものを本物で見る。第2は現地の人との出会い。第3は、旅によって自分が好転する、ことですよ」

2018年9月29日土曜日

外海・山崎政行さんのお宅訪問。旅の思い出あり


外海の広い海。海の彼方は五島列島。白い建物は「遠藤周作文学館」。手前は「道の駅」。車運転の渡辺幹雄さん。長崎へは23回目。「小崎さんに会うのは6回目。最初に聖コルベ館で会ったとき、『洗礼を受けて来なさい』」と言われた。8年後、洗礼を受ける。霊名バルトロメオ。五島は1回だけ。「もっと何回も行かなくては」と勧めた。眺めのよい道の駅で、バイキングの昼食を食べた。品数が多くて満足でした。
★黒崎の山崎政行さん(89歳)のお宅へ行く。立派に飾られた家庭祭壇。手前は細長く畳の部屋になっており、ここで「長崎オラショの旅」の際には昼食をとっていた。山崎政行さん、スマ子さんご夫妻がお世話をしてくれた。きょうはスマ子さんは「デーサービス」に出かけて不在、残念でした。
★山崎政行さんは長年、ビデオの制作をされており、第一回からオラショで来た巡礼団の収録も残してある。昭和51年(1976年)6月、52名が最初で、第三十七回までお世話になっている。全部を収録して保存。第一回を見せてもらった。韓国人司祭1名と韓国人達10名程も参加している。笑いや拍手で盛り上がり、スマ子さんは「おてもやん」を踊って妙な顔つき、体ごなしに喝采を受けている。今となっては懐かしい。
★その後、山崎さんは外海の山中に、金鍔次兵衛の隠れ岩を発見して、以来、自ら引率して巡礼者の案内・解説を始めた。29年間に、400回努めた。ミサも現地で43回捧げられる。188名の殉教者列福の際には、金鍔次兵衛も入っているが、列福調査の証人をも務めた。それらは皆、ビデオに収めている。これらの山崎さんの功績を聞かされるとき、彼を親友にもった幸せを感じる。ぜひとも山崎さんには会いたかった。
★山崎さんは、昭和56年(1981年)、ヨハネ・パウロ二世教皇さまが長崎へ来られたとき、歓迎の場で、教皇さまの手と触れ合った。その感触に温かいチカラを感じて、信仰生活の再出発となったという。先日、そのことをNHK・テレビから取材を受け、「今度テレビに出ます」と喜んで居られた。番組はNHK「歴史ヒストリア」で、10月3日、午後10時~11時10分。再放送、10月7日、午後4時45分~5時55分。
★『トマさんのことば』「神よ、あなたは呼び求めるヒトの近くに居られます」。ソバに、神さま。その実感を胸に、心に感じるとき、安らぎの日となる。

2018年9月28日金曜日

山梨の渡辺さんのおかげで、外海へドライブに出る

昨年5月に、バイクでホームを訪ねた男性、今日はレンタカーを借りて、ホームに来た。山梨県・富士山が見える町に住む渡辺幹雄さん。来た時間が朝の10時です。
★「渡辺さん、きょうは、いい天気です。ここで話をするよりも、私をドライブに誘って、外海まで連れて行ってください」「ああ、いいですよ」。渡辺さんは快く引き受けてくれた。外海・黒崎で、行きたい所があるんです。それは長年、親交が深い山崎政行・スマ子さんのお宅です。思い出がある。私の人生にとって貴重な黒崎・信徒です。
★先ず、山崎さんに電話をして、「きょう、午後1時頃、参ります」と予告しました。突然の電話に山崎さんはビックリ。車は10時過ぎには出かけた。帰ったのは午後3時半でした。予告なしに山崎さんのお宅を訪ねて、充分に望みを果たしました。渡辺さん、1日のドライブはありがとう。
★詳しいことは明日、書きましょう。

2018年9月27日木曜日

せい一杯、咲きました。それだけで、じゅうぶん


月下美人が夜中に咲き、1夜あけた朝の花が、左です。まだ、ふくらみは少しある。右は、1日経った今朝の月下美人の姿です。精魂、使い果たしたという感じです。これで、月下美人は葉から芽が出て、ふくらみを帯びて、夜中に満開の花を開かせて、1日経ったら、しぼんでしまう過程を日記で記録した。もう、月下美人はこれで打ち上げにしましょう。ほんとに、月下美人よ、ご苦労さまでした。
★アシジの聖フランシスコの祭日の前に、9日間の祈りが始まった。湯江教会の祭壇の横に、聖人のご像が飾られて、祈りの時は、灯がともされている。聖フランシスコに憧れたのは「貧しさ」だった。17歳で、爆弾工場に通ってた時、いつも通る道に、2階建ての豪華なお屋敷があった。(自分も先々では、こんな立派なお屋敷に住みたい)と憧れていた。
★ところが原爆の日の昼過ぎ、この道を通ると、哀れ屋敷は崩れ、庭は泥まみれになり、ご主人らしい男性は、破れ、汚れたシャツを着て、石段の上に膝を立てて座り、黙して語らずの姿を見た。数日して又通ると、そのまま死んで腐敗がすすみ、蛆虫に食われていた。その姿に17歳の少年は衝撃を受ける。「いくらお金を貯めても、屋敷を築いても、人間は儚(はかな)い。本当のものは何か。真理は何か」。腕白盛りの少年でも、その印象は新たな価値観へと変えた。
★ポーランド人たち修道者たちの中に飛び込む。コルベ神父が残した修道院には「貧しさ」が有った。それは心地よさを感じる「貧しさ」だった。コルベ神父が本河内に最初に建てた家は、もっと貧しかったらしい。その家はもう無かったが、新聞記事が残っている。取材した記者は書いた。「ニワトリ小屋のような建物に、世は歓楽の春というに、本能として突き上げる欲望の悶えはないのか」
★17歳の少年は、20、30、40と過ぎて、老いぼれになって90になった。振り返って言えることは、人間は、さまざまな誘惑との闘いだった。
★いま早朝、4時半に起きて、6時からのミサで祈るとき、御聖体を拝領して自分の席に戻ったときに、最近は特に、目を閉じてアタマを垂れて、ジーッとしている。何かが、胸を揺るがすのを覚える。
★『トマさんのことば』人間やから、な。どんな事でも、あり得る。せい一杯、生きました、と言えれば、人間には、それだけで、充分です。

2018年9月26日水曜日

月下美人が咲いた。午後から来客。昼食から席替え


昨夜(25日)は中秋の名月、十五夜だった。真ん丸い月が、光々と照らしていた。「月下美人、今夜は、きっと咲くぞ」。夕方、5時半、2つの花がふくらんでいた。夜8時過ぎが、左の写真です。風が強い夜で、花は揺れていた。手で掴んで合わせて撮った。10時過ぎ、右が、見事に咲いた期待の月下美人です。ホームの辺りは静寂。詰所に夜勤の2人職員が居るだけ。誰も知らない、見ていない夜に、美しい純白の大きな花が、見事に咲いた。
★普通は7時半過ぎにはベッドに付くのだが、昨夜ばかりは気になって10時過ぎまで起きていた。これまで9月の9日から観察してきた月光美人だったが、素晴らしい満開の姿を見ることが出来た。満足して、この夜だけ、10時過ぎに眠りについた。
★昨日は午後から長崎の千草さん(写真・左)、蓉子さん(運転)が姿を見せた。「トマさんから『パワー』を貰いたい」「パワーなんて、無いよ」「イヤ、すごい人生でしょ、尊敬しますわ」「恐縮だよ。でも、ね。この間、テレビで原爆のドラマがあったが、あれ見て、本当に、よくぞ生きてきたな、と思いました」「そーですよ」「それに結核で、右の腎臓、取つちゃって、左も、侵されて死に目にあった」「看護師のシスターに助けられたモンね」「そのシスターが亡くなって、今年10月19日、50周年を迎える。ミサと、墓参りと、会食をしたいね」「決まったら案内してね。お祈りに来るから」
★ホームでは昼食のとき、半年ぶりに食卓の席替えが行なわれた。みんなは、ソワ、ソワ。どの席に行くか。トマの思いは、明るい場所で、皆さんが一望できる所で、牛乳を温めるのに、レンジの近くが好みです。結局、同じ場所で、入江さんが抜けて、同じく瀧神父さんと、他に同じ女性が一緒の4人の席になった。
★湯江教会では、昨日から「修道会の創立者・アシジの聖フランシスコの祭日(10月4日)」に向けて、9日間の祈りが、ミサ後に始まった。
★今日は午後から火災の避難訓練が予定されている。ホームでの火災は恐ろしい。訓練には進んで参加します。
★『トマさんのことば』月光美人を見て思う。幼い頃に洗礼の恵みを受けた。一時期、教会を遠ざかっても、いつか、また教会に呼び戻される。幼い頃に植えられた芽は、必ず又伸びて花をひらかせる。そこが信仰生活の大切なところです。信仰があれば、自分の人生も、他者の人生も、大切にする。