自室のピーカーで、「電話です」と呼ばれた。幸い、電話は、廊下に出たところ、わりと近くにある。誰からの電話だろう、わからない。「モシ、モシ・・・」。うまく話しが、かみ合わない。返事が遠い。「どこから・・・」「オーストラリア、からです」
★なんで?地球の南下側の国から?音声が届くまで、数秒かかる。「2月頃に、そちらに、行った者です」「ああ、そうか」と、すぐに思い出した。写真の男性だった。大学の研究員をしている。博士論文のため、原爆の証言を聞きに来た男性だった。43歳。大学では、日本語も教えている。
★熱心に、なぜ、わざわざ電話を掛けてくるのか。日本語は出来るというが、やはり外国人との話は、スムーズに行かない。結局、内容は、「博士論文を書き上げたので、あなたの証言・掲載の許可を求めたい。メールで送っていいですか」「イヤ、パソコンは持ってはいるが、メールは使っていない。文書で送ってください。サインして返信します」と答えた。
★2月に来たというから、日記を見ると、27日に、この写真と共に載せていた。16歳のとき、日本に来て、度々、来日して、四国の公立中学で、英語の教師も勤めたこともある。論文の土台は、「長崎・原爆の前と、原爆後の、カトリックの記憶です」と彼は言っていた。
★いま、私が、なぜカトリックを信仰しているか、と自問すれば、カトリックの家庭に生まれ、育てられたからであろう。苦難が来たとき、救ってくれたのはポーランド人の宣教師たちだった。
★そして、もう一つ、背骨のように感じるのは、自分の、この信仰が、先祖のキリシタンの苦しみ、迫害、殉教、隠れを、くぐりぬけて、父は、外海、母は、浦上・・・と、つながっていることです。一連の流れを心の臓に感じるわけです。信仰したからといって、苦難がなくなるわけではない。平坦な人生が期待されるわけでもない。だが、カトリック、それが、わたしの行く道です。
★写真のオーストラリアの大学研究員は言い残した。「十字架」「マリア」「浦上天主堂」。どこに、ご縁があるのか、全く分からない。
聖コルベ記念館を訪ねた時、ちょうどオーストラリアの学生さんが団体で見学されていました。その時、セルギウス修道士様がおられ、中村修道士様がカメラマンを担当されていました。もう随分昔の話。月日の流れは早いです。
返信削除