長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年7月19日日曜日
むかしのホームの思い出。いま自分が体験している
日曜日。今朝の祭壇のお花です。ミサで、祈りました。「神さまは居るか?」と聞くんですか。17歳のときです。原爆で、人も、家も、燃えた。残ったのは、わたしの、いのちと、神さまだったんですよ。神さまって言うのは、ね。わたしにとって母から受けた存在なんですよ。この地球に、人と生まれたからには、幸せに暮らしたい。誰の願いも同じです。★その後、結核を病んでいた頃、山の修道院で療養していた。山道を少し登ると、同じ敷地内に、木造の簡素な建物があった。1つは開拓の家族で、もう1つが老人のホーム(当時は養老院といった)だった。戦後の混乱のなかで、家族が居ない男子の老人たちが暮らしていた。10人ほど、個室で生活していた。今のような行政の枠組みがあるわけでなく、外国人の宣教師に寄りすがって、お情けで生活をさせてもらっていた。25歳のわたしは、散歩の途中で、彼らを訪ねて、1人、1人、話を聞いた。ある老人は、終日、座ったまま、タバコをたしなんだ。キザミ・タバコが切れると、キセルで、りずみかるに床を叩いて、「エス・オー・エス」とつぶやくのだった。面倒をみるシスターが姿をあらわす。すると彼は・・・・・・と言って、タバコ・ぼんを叩くのだった。あれから、60数年が経っている。彼の・・・・は何だったのか。思い出せない。今は、目線が違い、自分もホームの人間になった。もちろん、タバコは個室では、禁煙。暮らしも楽になった。
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