2018年10月14日日曜日

言葉は、もう、いいです。実際を、見せてください

ミサへ行く時は、真暗だった空と闇。帰った時は、丁度、朝陽が上がっていた。何度も日記に載せた風景。だが今日の朝は、又新たに始まる。どんな日になるか。昨日と同じだろう。誰も訪問者は居ないだろう。でも新しい日は始まる。過去のカスミを食って生きても。
★夢を見た。自分が運転していた。確か、長崎駅から出て、電車の線路を越えてユータンして、カステラ屋の前を走り、慣れた道を軽々と、気分よく運転して、満足だった。夢の男は考えた。「まだ、まだ、やれるじゃないか」。目がさめた。ザンネン、免許は86歳で返納した。
★ミサを終わってホームの廊下へ戻ると、車椅子の女性がポツンと1人動かない。いつも見かける女性だ。白髪、目は遠くを見て動かない。言葉も、反応もない。何か愛(いと)しい気持ちになる。華々しい過去もあるだろう。家庭の事情もあるだろう。黙して語らない。慰める意味で時々、肩のところを軽く、2度、3度と抑えて、「ゲンキで、ね」と声をかける。「パワハラに、なるだろうか」。そんな思いも、よぎる。
★いま、直ぐ吐ける言葉といえば、3つ、ある。
「生かされて、今日も、祈る」。この心情は変わらない。その気持ちで生きている。すべては感謝しかない。
「苦しみは、神の喜びに、変わる」。苦しみ、一杯、あるじゃないですか。老いは、重ねるだけで、苦しみは増える。耐えて、受けて、神の喜びに変えて行きたい。希望は持ちたいのです。
「もう言葉は、いいです。実際を、見せて下さい」。これまで沢山、美辞麗句を聞いた。沢山、素晴らしいお説教も聞いた。話は、もうタクサンです。今度は見せて下さい。実際に、実行している姿を見せてください。
★20歳代の病気の頃、周りの人や看護者が、常に自分の方に目を向けてくれるのを熱望した。最初は、よく丁寧にやってくれるが、徐々に無関心になる。弱者はその時、一番心が痛んだ。だから「省略しない心」が、いいと、強く望んだ。しかし考えてみれば、看護者だって、愛ある人も、そんなに構っておられないだろう。映画も見たいし、自由の時間も欲しい。結局、辛抱して、耐えて、「文句のない心」が必要だ、と自らに望んだ。今日は、それを思い出したよ。90歳になっても、気持ちは変わらないね。「省略しない心」「文句のない心」の両方を考える。
★午前中、入浴した。たった1人で、広い風呂で、ああ、いい湯だったよ。生きているんだな。
★古い写真を見つけた。病気から健康を取り戻して、学園の中学生に理科を教えていた頃の、30歳代のトマ先生です。実験を行なって中学生たちの心をつかんだ。「やっぱり、やって、みせる、ことだよ。ウワー、ホントだ、だれもが、なっとくする」