ホームの庭に出ると、「スミレが咲いてる」と女性が手を差し出した。「どれ、どれ、ああ、もう春なんだな」。小さなスミレは、スミレらしく咲いている。かわいい。それは、それでリッパではないか。「足るを知れ」とスミレは教える。
★ホームへ入居した当時、孤独、寂しさ、時間の持て余し、など感じて、心は全く沈んでいた。遠方から見舞い客や面会人が来ても、会う気持ちにならない。ましてや自室まで案内することはなかった。「このような小さな部屋で生活するのを見せたくない」。それが心の思いだった。
★ホームでの日常生活は、長年、いつも着ていた修道服を脱いで、一般人の服を着て、他の男女と一緒に食堂で食べる、廊下で会話をする、平等に彼らに合わせていく毎日になった。カトリック信者でない人たちも居られる。修道士の身分は、そこには全く出ない。
★カトリックの女性すら、私を、「お兄ちゃん」や「オンちゃん」と呼んだ。信者が、修道士の私を、そう呼ぶなんて考えられなかった。修道士って、一体、何者ですか?
★そのうち、1つの暗雲というか、悪魔の誘いか、私の心の中で、ある迷いが湧き起こってきた。「自分は、生涯、修道士の道を歩んできたが、これで果たして良かったのだろうか。自分の人生は、修道士を選んで、満足だっただろうか」。人生は一回切りしかない。生物体としての人間は、人間らしく独立して、自分の好きな道を選んで、家庭を持ち、子供や孫をつくり、人に恋し、赤ん坊を抱きしめ、育て、そういう生き方を、一回きりの人生で歩んだ方が、人生を充分に生きたと言えたのではないか。別の道があったのではないか、と迷いが起こり、人知れず悩んだ。
★考えてみると、人生には、大きな流れがある。カトリック信者の家に生まれたこと、父が早く死んだこと、兄弟は居らず、母と暮らしていたこと、そこへ思いもよらぬ原爆が頭上で炸裂する。孤児となった少年に、どういう生きる道があったのか。ポーランド人の神父さんや修道士さんに助けられ、学校で学んだことが、私の人生の流れとなった。
★もちろん、途中で、修道士を辞めて、道を変更しようと思った時期も有る。だが、どうしても外部には出て行けなかった。結局は留まった。それなのに、ホームに入ってから、「人生の我が道」で悩み、迷いが生じるとは、思っても居なかった。聖コルベ館に居たならば、そんな誘惑は生じなかったであろう。枝葉を失って、木1本になって、そう思うのだ。
★この迷いを、悩みを、徹底的に打破してくれたのが、美樹さん、哲さんが作ってくれた今度の「トマさんのことば」だった。この小さな本によって、「ああ、自分の道は、これだった。これで幸せになる。修道士で良かった」との確信を得た次第でした。その意味でも、「トマさんのことば」は意義のある本の出版となった。もう迷いません。スミレは枝もない。木もない。しかしリッパに咲いている。そう思います。
★今日は、午後から長崎・聖母の騎士で、長崎地区で働く修道会の司祭、修道士の集まりがある。それに出席のため、これから出発します。帰りは夜の9時頃でしょう。共同で晩の祈り、寝る前の祈りを唱えて、各部署の報告がある。その後は会食になる。みんな、フランシスコの兄弟だから、それは打ち解けて、楽しい集いです。誰だって、修道者で最良だったと思っています。だから楽しいのです。幸せがある。
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