2016年8月16日火曜日

コルベ神父さまを忘れない。殉教から聖人への歩み

ホーム生活ですから、外で何かの集会があると、出来る限り参加しています。長崎・聖母の騎士で行なわれた、聖コルベの殉教の集いにも行きました。東京から来られた神父さまの講演があって、その後、祈念のミサが捧げられた。
★ミサ後、「トマさん、ゲンキ。ブログ、毎日、読んでいるよ」と知人夫妻から声をかけられる。教会を出て、聖コルベ館へ行く急な坂道を横断するのは、足元がふらついた。(ここ、聖母の騎士で生活は、ムリと思った。ホームがありがたい)。また福岡からの昌子さんから、銘菓「筑紫もち」をもらった。私の好物です。昌子さんは知っている。
★私が、聖母の騎士に入会した頃は、創立者のコルベ神父は、ポーランドへ帰国し、戦争に巻き込まれて、亡くなったという噂(うわさ)だけが知られていた。修道院は、コルベ神父が生活していたままの雰囲気が残っていた。終戦から数ヶ月後、初めてポーランドから詳しいコルベ神父の身代わりの愛の死が伝えられて、「オシュエンチン」というポーランドの地名を覚えた。この町の一角に、強制収容所があり、これが、ドイツ語で、「アウシュヴィッツ」と分かったのは後日だった。コルベ神父の死のことだけが伝えられ、強制収容所の残酷な詳しい報告は一切なかった。世にも残酷な、悪魔的な行為を驚き知ったのは、1971年、現地を訪問し、事実を見たときだった。
★私は、初期の聖母の騎士の雰囲気や、ゼノ修道士さん、セルギウス修道士さん、ほかのポーランド人の司祭、修道士たちと共に触れ合ったのも、喜び、恵だったと思っている。忍耐力や、ユーモアや、マリアへの信心、態度で示す信仰を学んだ。
★戦後、間もなく、コルベ神父の「列福運動」が起こり、長崎教区で、調査委員会が発足した。私はコルベ神父が、後継者のミロハナ神父を通じて、「神の下僕(しもべ)」「尊者」「福者」「聖人」となる過程を見ることが出来た。これは恵の1つだったと思っている。
★新潟の仙子さんから電話があった。「お米が、1表、あります。玄米が、いいですか。精米が、いいですか。大根、野菜、送ってもいいですか」。返事は、「ありがとう。喜んで、いただきます。玄米が、いいです」。こんな贈り物は、めずらしい。

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