長崎・聖母の騎士社に勤める修道士さんが、ホームの自室に来て、「聖母の騎士」誌の3月号を10冊ほど手渡した。「トマさんが、むかし書いた『北原怜子(さとこ)』さんの記事を再び載せているから、皆さんに読んでもらってください」
★北原怜子といっても、最近の人は殆ど知らないだろう。
★昭和33年(60年前になる)1月23日が命日で、東京・隅田川のほとり、「蟻の街」と呼ばれた「廃品回収の共同体」で生活し、28歳の若さで神に召された。私は会ったことはないが、北原怜子さんの愛は、広く当時の社会に影響を与えた。偶然にも、ゼノ修道士に出会った摂理で、蟻の街共同体へ導かれる。過去の人は、心の中で生きている。怜子さんはゼノ修道士の愛につながり、ゼノさんは、聖コルベの無償の愛につながる。
★怜子さんは大学教授のお嬢さん。ゼノ修道士の出会いから、裕福な家庭を背に「蟻の街」に出向き、子供たちに勉強を教えたり、お手伝いをしていたが、「共同体」にしてみれば「変わったお嬢様の道楽」としか理解されない。敏感な怜子は気づく。「この子ども達にとって、一番大切なことは、お金や食べ物を恵むことではなく、誰かが、親身になって、愛し、信じてあげることだ」。怜子は家を出て、蟻の街の住人となった。そこから事態が変わっていく。「蟻の街」にも教会が出来た。
★平成5年(25年前になる)の10月、私は東京で、お姉さんの和子さん(当時78歳)にお会いして、一緒に、蟻の街から移転先の8号埋立地へ、怜子さんの苦労話を聞きながら、足跡を訪ねた。
★お父さんは東北帝大、東京帝大で学び、農学博士、法学博士、弁護士の学者だった。和子さんは言った。「父は、よく言いました。『人から与えられる恩は、その人に返せなくてもいいから、下の人を引っぱり上げたり、別の人に与えなさい。それが恩を戴いた人への恩返しだよ』と。父の教訓でした。その心で、怜子も働いたのでしょう」。お父さんは洗礼を受けて、昭和56年11月、83歳で神に召された。
★私が書いた記事の最後は、次の文章でまとめている。「あなたは今、微笑みを忘れていませんか」。北原怜子さんは、いつも自分に問いかけていた。にこやかな心で眺めれば、どんな所にも美がある。どんな所にも真理がある。まずい物にも、おいしさを、苦しいときにも楽しさを、ニッコリ笑って発見する。それが北原怜子の二コ二コ精神である。あなたの幸せを祈る二コ二コです。
★60年目の、北原怜子さんの声です。ほほ笑むところに、幸せがくる。
教養講座で お話を聞きました。
返信削除ココナにも息子たちにも 北原怜子さんの記事は読んでもらいたいと思ってます。
トマさん ココナがインフルエンザA型に今日なってしまいました(´༎ຶོρ༎ຶོ`)トマさんも気をつけて下さいね。