2019年2月24日日曜日

鐘は心に届く。「日頃から、そういう心の人に、なりなさい」

自室のガラス戸をあけて、見上げれば、教会の鐘。朝な夕な、日に2回、下から高原修道士が綱を引いて、ならす。鐘の音は、近隣の家々に届いていく。幸せを、喜びを、祈りの始まりを告げる。
★日曜日。ミサの福音。今日の箇所は、キリストの心、そのものズバリだった。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい」「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ6章)。デキナイ。デキナイ。心は傷む。
★コルベ神父が、すぐ頭に浮かんだ。身代わりを果たした。決して「よし、オレが身代わりになってやるぞ」と、リキんでの代わりではなかったと思う。それは、スンナリと、全く自然に行なわれた行為であった。常日頃から培われた優しい精神の現われであった、そう思う。
★以前になるが、アメリカで起こった飛行機事故を思い出した。氷の張った河に旅客機が墜落し、大勢が遭難した。ヘリが救助に向う。その模様はテレビで全米に放送された。1人の銀行員が、自分の目の前にロープが下りてくる。捕まれば助かるのに、他人に譲ってしまう。彼は、それを2度、3度と繰り返した。最後にヘリが助けに来たとき、彼は沈んで、その姿はなかった。銀行員の行為は大きな感動をよんだ。
★その時、彼の母親がインタヴィユーを受けたが、母親の言葉が、私の心を強くとらえた。「あの子らしく行動しました。あの子は、子供の頃から、そのような優しい子だったのです」
★この言葉に、私は、すぐにコルベ神父を連想した。コルベ神父も身代わりになった時、そういう心境ではなかったか。自然に、私が代わりになります、と進み出た。信仰だ、愛だと、リキまずに、やさしく、スンナリと、前に出て行った。日頃からの精神の積み重ねだった。コルベ神父の身代わりの行動が、銀行員の母親の発言から、幾分、分かる気がした。
★銀行員に助けられたスチューワデスはズバリ語った。「人間、本来は、自己的、利己的です。私も助かることしか考えなかった。利己的なのが人間の本質です。身代わりの愛。並みの人には出来ません。だから、こういう行為に感動します」
★それでも今日の福音は告げる。みんなは聞いている。「赦しなさい。与えなさい。いと高き方は、恩を知らない者にも、悪人にも、情け深いから」(デキナイ、デキナイ、言うな、心の中)

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