たった1枚の手紙です。でも、読んで、すごく感動しました。「ここは、花あらしが、吹いて、寒いです」。字が、いいじゃありませんか。キチンとした文字です。韓国には、漢字は無いというのに、揃う漢字を書いています。「しかし、恋人の、心は、もう春です」。天候は寒いけど、こころは温かい。春は、もう、直ぐですね。「本と、おいしい菓子を、送りします」。大きなダンボール箱、2個、なかには、また、韓国版の『長崎のコルベ神父』64冊と、丸い筒に収まったクッキーが2個、入っていた。思わず、ホホがゆるんだ。「では、小崎登明さんの、健康と、幸福を、ために、聖母マリアへ祈ります」。この手紙を書いたのは、韓国人の神父さんでした。昨年、5月に韓国へ行ったとき、10人あまりで昼食をとったが、隣に座ったのが、この神父さんだった。歳は30代。日本のマンガで、日本語を学んだという。神父さんが、恋人の心なんて、優しいね。「また、韓国に、お寄りください。絵文字のエガオが記してあった。サインは、忍短い手紙だけれども、簡潔、明快、すばらしいですよ。この手紙を受け取って、1週間は過ぎたが、モノ書きにとっては、なぜか忘れられないので、日記に載せました。神父さん、ごめんなさい。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2014年2月28日金曜日
2014年2月27日木曜日
島原・オバマ温泉3日目。長崎へ。泌尿器科の予約診察。
昨夜、食べた食事です。温泉宿のすぐ前は、海。新鮮なサカナがある。カワハギのサシミ、小エビの刺身、ウチワ・エビ、のど。毎回、テンプラもある。まあ、これだけ食べれば、十分です。独りで、黙々として、食べます。テレビは見ません。お酒も、飲みません。時間は40分ぐらいですか。孤独に耐える生活には、慣れています。その覚悟は出来ている。★我と、我が身に、言い聞かせる。「元気で居ります。修道士を守っています。聖コルベ館に勤めております。(それだけで、リッパ)。そのまま、進んでください」。今朝は、午前中に、泌尿器科の予約の診察日になっている。早めに朝食を済ませて、8時に、長崎から、お迎えのクルマ・白浜さんが来た。小降りの雨のなか、長崎へ急いだ。1時間20分かかって、泌尿器科へ着いた。★ステントを入れているせいか、腹中が、チクチクと痛みます。それでも、何ごともなく、生きています。今年は、なんとか頑張ろうと覚悟を決めています。大きな目標もあります。いまは、まだ騒ぎたくない。
2014年2月26日水曜日
島原・オバマ温泉2日目。早朝、1番風呂での爺さん。
温泉宿で、早朝、1番風呂に入る。先客が居た。頭の白い、お爺さん。背中に向かって、勢いよく、アイサツした。返事は、返る。いっしょに、湯につかった。肩と、肩の間隔は、1mぐらい。自分の性格から、語らずには、おれない。が、少々、迷っていた。考えているうちに、爺さんは上がって、カラダを洗い、また入ってきた。それまで、じっとお湯のなか。沈黙が、しばらくつづいたが、声をかけた。今朝の天気、雨だった。度々、この宿に来るのか?埼玉の人だった。息子が、山口に居る。息子の車で回っている。話は、山口の温泉に進展した。そこで、「生まれは、昭和何年ですか?」「20年の1月です」「69歳ですな」「ええ、まあ」。こちらの歳は「長崎といえば、原爆で、17歳だった」「昨日、資料館、見ました」。会話は和やかに進んだ。お爺さんは上がっていった。露天風呂に入る。雨が降っていた。脱衣所にあがると、お爺さんは、まだ肌着をつけていた。ここで、もう1問、聞いた。「九州の人の、イメージって、ありますか」。おおらか、と言うか、開放的と言うか、そんな表現を使った。ここで別れたが、朝食は、共同の座敷だった。1人で食べていると、お爺さんの家族は、幼児の女の子を含めて、賑やかだった。爺さんが、そばへ、わざわざ寄ってきて、声をかけてくれた。「お車は?」「ええ、迎えに来ます」。そで、すりあうも、何かの、縁。そんな気持ちの朝であった。
2014年2月25日火曜日
島原・オバマ温泉・富士屋さんへ。なぜ、いつも行くのか。
温泉宿・富士屋さんは、家族の家のような気持ちです。なぜ、そんなに毎月、温泉へ行くかって、理由はあります。1つには、被爆者の治療の気分がありますね。被爆者の温泉宿もあるんです。もう1つは、環境を変えるのは、精神的に、いいですね。違った視点から、もの事を考えてみる。ためになります。富士屋さんでの、部屋はいつも決まっています。同じ部屋に泊まっている。着いたら、風呂に入って、休むんです。夜は早めに寝ます。寝ている間に、毒も疲れも、抜けて行く感じですね。たしかに健康にいいですよ。もう1つ、体力を落とさないために、温泉へ行く、そんな気持ちもありますね。カラダを動かして、別の空気を吸う。ゲンキが出ますよ。牛肉のテンプラも食べます。ほかに、もう1つ。なんと言っても、オバマは温かいです。温泉の温度は、105度。地面、そのものが暖かい。地熱も吹き出している。カラダが温まります。老人はカラダは冷えるんです。おかげで助かります。温泉へ来る途中で、本屋で、本を1冊買った。池上彰の「宗教・対談」。仏教、キリスト教、イスラム教の概略、読みました。平常心で、過ごしております。
2014年2月24日月曜日
名指しで、見学に来た青年。日々精進、努力と彼は言った。
2014年2月23日日曜日
沢山の若者たちに話を聞かせたが、1つの花が咲いた。
若い人の成長って、早いですね。10年前、よその県から、小学生たちが、長崎市へ修学旅行にきた。平和学習で、原爆資料館を訪ねて、見学し、被爆者の体験講話を聞いた。そのとき、お話しをしたのが、小崎サンだった。その中の1人の少女が、話を聞いて感動して、自分は平和のために、被爆者を助けるために、将来は働きたいと、小さな決意をした。長崎の町が好きになり、将来は、長崎で勉強したいと、願った。中学生になったとき、小崎サンに初めて手紙を書いて、心を打ち明け、それから文通が始まった。「応援するよ」。少女の成長が楽しみだな。見守りつづけた。やがて高校生になる。ますます平和と、被爆者医療と、長崎に住みたい気持ちは、高鳴っていった。10年の歳月が流れる。小学生は、いまや大学生になり、「春休みになったので、訪ねてきました」と、聖コルベ館へやってきた。うれしかったね。よく来たね。語り合った。明るい大学生だった。将来が、頼もしい。10年前、小学生・中学生に、何百人、何千人と原爆の話を聞かせたが、このように稔ったのは、1つの花だけだった。これも、ご縁と言うのだろうか。教会とは何も関係はないが、「長崎には、イッパイ、歴史もある。おいしい食べ物もある。少しづつ、生活の範囲を広げて、勉強しなさい」と勧めておいた。明るい未来と、さわやかな笑いを残して、女子学生は去った。「いい出会いの日だった」
2014年2月22日土曜日
コルベ神父のカードを配る。恵みの取次ぎをお願いしよう。
愛の聖人であるコルベ神父のカードが出来ました。聖コルベ館に見学に来た皆さんに、このコルベ神父のカードを配ります。裏には、取次ぎのお祈りがある。コルベ神父は、家族がある男性の身代わりとなった。聖人として、カトリック教会から祭壇に上げられています。家族の保護者でもある。★家族の中に病人が出た時や、家族が困難な事態に遭遇した時など、コルベ神父の取次ぎをお願いしよう。「聞き入れられる」と希望をもって祈りましょう。祈りを称えて、利用してください。★コルベ神父が長崎へ上陸して、今年は、84年になります。長崎の聖母の騎士といえば、当然、コルベ神父でしょう。神父抜きには語れない。時代は代わり、人間も発展するとはいえ、コルベ神父の初心の信念は、いまも変わらない。大切に思います。遺産は受け継いで、残して行く使命もあります。コルベ神父の愛は不滅です。
2014年2月21日金曜日
ライモンド、戻って来ない、何処へ行った?寂しいぞ。
これは、いつ頃の写真か?去年の6月じゃないか。いい顔、しているぞ。ライモンド、オマエが居なくなって、もう2ヶ月になる。寂しいぞ。朝から、必ず、「ニヤ、ニャオ」と、甘えて泣いていた。というより、アイサツをしていた。それが、全く声が聞こえなくなった。そりゃ、ふっと、寂しいなァと思うときがある。早く、戻って、来いよ。待って、いるぞ。★今朝は、午前中、聖コルベ館には居なかった。町のクリニックへ、診察と、薬をもらいに行く。帰りに、中央郵便局へ寄った。韓国・騎士会へ、韓国語版『長崎のコルベ神父』の代金を、700ドル、送る。送料を入れて、75.000円ほどになった。帰りに、もう1軒、立ち寄った。耳のお医者さん、左の耳の治療をする。昼ごはん前に帰った。おかずは、イワシの煮付けだった。栄養があって、おいしいサカナです。午後は、自室で、休んだ。寝床が、ぬくい。自らに言い聞かせた。「怠けるな。起き上がれ。寝ているダンじゃ、ないぞ」。そう言いながら、聖コルベ館へ。それで、パソコン日記の記入が遅くなりました。いま、宅急便が、ルルドの水の発送・荷物を受け取りにきた。「ある地方は、豪雪で、遅れます」という。入館者は誰も来ない。5時には閉めます。金曜日ですから、夕べのお勤めに、『十字架の道行』があります。★この世に「生」を受けて、ウン十年。いろいろ有りましたが、なんとか生きてきました。見たり、聞いたり、考えたりしてきた中で、本当に真実なものは何だったのか。何を体験したのか。この老いの歳になって、反省しております。
2014年2月20日木曜日
長崎・原爆の語り部、平和をつげる。戦争は、ダメだよ。
朝の気温は、4度だった。長崎でも、冷える。東京から、修学旅行の小学生たちが、120人、ヒザ上の短いズボンをはいて、やってきた。「寒かろう、ゲンキだね」。毎年、今の時期にくる暁星小学校の児童たちだ。長崎市内を回って、海星学園へきた。被爆者の修道士が、1時間ほど、語り部を勤めた。皆さん、熱心に聞いていたよ。老いた身の修道士は、長時間、立って話すのは、難儀だった。それでもガマンしたよ。子供たちに話を聞かせると、こっちの方が反対に、パワーをもらう。ありがたいと思うよ。「質問は、ないですか?」と聞くと、4つの質問があった。①「お母さんは、どう、なった?」。②「トンネルの中で、被爆の瞬間は?」。③「原爆症は、だいじょうぶ?」。④「トマ小崎の名前は、誰が付けたの?」。お母さんは、原爆の朝、別れたきり、行方不明となった。遺体も拾っていない。トンネルの中では、閃光は見ていない。強い爆風を感じた。原爆症に、なったよ。皮膚に吹き出物が出来る、からだの疲労感と、長い間、下痢で苦しんだ。トマ小崎は日本26聖人の中の1人の少年で、名前を付けたのは、院長さんでした。戦争や、原爆は、2度とあっては、ならないね。平和の世の中であるよう、努力しよう。
2014年2月19日水曜日
むずかしいけど、やってみな。きっと、こころの幸福は、ある。

2014年2月18日火曜日
ウドン屋のパウロ青年、晴れて神学生・合格。ガンバレよ。

2014年2月17日月曜日
今度の平戸行きで、訪ねた教会。ザビエル。紐差。佐世保。
上の写真は、平戸のザビエル教会。左は、その堂内。聖ザビエルの像があった。この教会も、外観は、左と、右では違う。右には、塔がない。下の写真は、左が、紐差教会。右が、佐世保の三浦町教会。佐世保の駅前にある。日曜日は、ここの教会で、ミサの祈りを捧げました。戦争中は、海軍さんから迫害されて、窓にイシを投げ込まれた苦難の歴史をかかえた教会です。高台にあるから、よく目につくんですね。★日本にキリスト教を最初に伝えた聖ザビエルは、鹿児島に上陸して、船で、平戸へ来るんですね。平戸の港が、ある。普通、その港へ着いたと思っていたら、紐差のアイさんが、この度、つぶやいた。「聖ザビエルさまは、ウチの、横の道を通って、平戸の方へ行かれたんですよ。昔から、そう聞かされてきた」。そう言えば、島の南の方の港へ着いて、陸路、ここを通ったかも知れない。可能性は、ある。平戸から、都(みやこ)へ上った。
2014年2月16日日曜日
親戚の夫妻を訪ねて、喜び合う。教会の守りが楽しみです。


2014年2月15日土曜日
思い切って、平戸へ。いい旅になったよ。皆さん、喜ぶ。


2014年2月14日金曜日
ルルドへの坂道に、梅が満開。寒さ、きびしい。春は未だ遠い。
2014年2月13日木曜日
外海へ、日帰りで、知人に会い、旧交を温める。元気でしたか。
2014年2月12日水曜日
ルルドご出現の記念日。祈りの巡礼。東京からも、来る。
2014年2月11日火曜日
60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その3)。絵を贈る。
戦争が終わった直後は、誰もが貧しかった。施設で暮らすか、家庭で暮らすか、みな同じ貧しさの中で生きていた。施設だった、あの木造の建物は、2年後に火災にあって消失した。施設は、山の、人里離れた山地に移転した。「ツバキ原」と言われる地で、ツバキが花咲く地だった。「かー坊」さんたちは、ツバキ原で暮らし、学び、育って、成長した。イジメや苦労は沢山あったけど、正直に生きて、愛とイノチのつながりの幸せを得た。いまは個人情報の時代で、知られたくないかも知れない。「かー坊」さんは語ってくれた。「ありがとう。よかったね」と、祝福する気持ちで、イッパイだった。聖コルベ館の修道士は、出逢った記念に、夫妻に、1枚の絵を描いて贈った。絵には、コメントを書き添えた。「ツバキ原で、育った、じいちゃんが、生き抜いた、おかげて、愛と、イノチが、つながった。幸せは、家族愛のキズナにある」。これが今の本心です。ヘタな絵、ヘタな字だけれども、86歳、修道士の心はこもっている。最近、「かー坊」さんの、この実話ほど、感動した逸話はないのです。「苦しみや、寂しさの話は、もう、いいんだよ。愛の話、イノチのつながり、それより尊いものはない。じいちゃんが、生き抜いたからこそ、いまの自分がある。カンシャすれこそ、ハジと思うな」というのが、修道士自身の気持ちです。それは自分自身にも言い聞かせたい、気持ちなんです。「カー坊」さん、奥さん、いつまでもおゲンキで、すばらしい人生を送ってください。神さまは、見ておられる。
2014年2月10日月曜日
60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その2)。再会の喜び。
「かー坊」さん夫妻が、訪ねてきた。彼は、71歳。奥さんは、61歳。あの幼い時代から、60数年が経過している。これまで沢山の苦労があったでしょう。「苦労は語らなくて、いいのです。愛を聞かせて下さい」。中学を出て、町のお店に就職した。奥さんとは、見合いだった。お話しがあったとき、奥さんのお兄さんが、彼が、まじめに、正直に、お店の配達をするのを知っていた。「あの人ならば、大丈夫よ」。彼、34歳。奥さんは、24歳。カトリック教会で、結婚式をあげる。奥さんは洗礼をうけた。「かー坊」さんの新しい出発だ。3年後に、女の子に恵まれる。「ああ、よかったね」。女の子は成人して、看護師になり、病院で働いていた。良縁あって、娘さんも結婚し、男の子、女の子、2人の可愛いお孫さんにも恵まれた。「ああ、よかったね。すばらしい」。彼が、奥さんを気遣いながら、こう言うのです。しみじみ修道士はそれを聞いた。「ツライことは、沢山あった。あったけれども、それでも、ワタシのチカラでなしに、神さまの御手に守られていたと感じます。この人を含めて、この人を通しても、いまは感謝している。カトリックの信仰を親が残してくれた。苦労は、したけど、がんばる程でもない。一歩、一歩、何事もなく、毎日を歩いてきました」。修道士は、彼の言葉に感動した。苦労は、イッパイしたけど、苦労の話は、もう、いいんです。それより、優しい奥さんに、めぐり合えて、娘さんに恵まれ、更に、お孫さんにも恵まれた。この愛とイノチのつながり、よかったですね、すばらしいジンセイだった。いま思います。3歳のとき、熱心に祈ったのが原点だった。施設での教えは、厳しかった。その教えがあったればこそ、生き抜いた、耐え抜いた、そして愛をつかみ取ることが出来たのです。そう思い、確信した。町のお店から、後では会社に転職した。会社を定年退職して、11年になる。夫妻は、手をつないで、毎日、散歩に出るのが楽しみだそうだ。「けんか、したこと、ある?」。お互いに、顔を合わせながら、「ないね」。そして笑った。結婚前の奥さんのお仕事は、美容師だった。結婚以来、彼のアタマのサンパツは、奥さんの仕事。「アタマは、大きいですか?」「大きいんですよ。帽子も大きい。髪は真っ黒で、沢山あった。白くなったし、髪も薄くなった。大きなアタマだけが、残った」「載せるからね」。了解だけは、取っておいた。「ジンセイに、大切なもの、コツコツと耐えること、正直に生きること、辛抱すること、その教訓があったればこそ、愛の花がリッパに咲いた。修道士も、ルンルン気持ちになる、うらやむ夫妻であった。
2014年2月9日日曜日
60数年をつなぐ愛とイノチの物語(その1)。古びた写真。
1枚の古びた写真を持っている。戦争が終わって、すぐの頃、1946年、後ろの建物は、戦争中は、造船工員たちの寮だった。それを養護施設がもらい受けた。男の子ばかり、100人ほどが集まり、貧しさといったら、最低の生活だった。木造建物の窓には、ワクも入っていない。祈る幼い子どもたち。何を祈るのか、何を願うのか。戦争・原爆で、家を失い、家族を失い、独りぼっちに、残された。それでも、生きていかなばならぬ。食べ物を、与え給え。着物を、与え給え。彼らの足を見てごらん。ハダシだよ。当時、この場所を、何度も訪ねて、よく知っている。子供たちも、職員の苦労も、よく知っている。この写真も、昔から手元にあって、大切に保存してきた。まんなかで、祈る男の子(右から、4人目)、名前は知らない。「かー坊」と親しく呼んでいた。アタマの大きな子だった。熱心に祈る、あの子、この子。60数年前の写真だよ。これを見ると、胸が痛む。これからの人生に、この子たちに、どのような苦難、困難が待ち受けていることか。イジメもあろう。寂しさもあろう。考えただけでも、切ない。だた、今は祈っている。「そうだ、祈りなさい。祈りしか、今は出来ない。それで、いいよ。必ず道は開けるでしょう」。ユメと希望だけは、持ちたい。なぜ、いま、この写真を載せたのか。「かー坊」、「かー坊」と親しんでいた、あの子が、60数年経って、再会できたからであった。出逢ったんです。昨年の暮れだった。2013年12月21日、「かー坊」さんが、優しい奥さんと共に、聖コルベ館へやってきた。感動的だった。「おお、あの、かー坊さんか、60数年ぶりに出逢った、ひさしぶり、よかった、よかった」と、お互いが、たいそう喜びあった。(あすに、つづく)
2014年2月8日土曜日
やっぱり考える。「主よ、居られましたか」。救いはあるか。

2014年2月7日金曜日
入院、2日目。お医者さんが「トマさん」呼んで、びっくり。
きょうのトマさん。具合は、いいか?朝は、まだ、病院・ベッドの上。熱は出ないか。きょう、帰れますか?お祈りください。★朝が、きた。看護師さんが、検温にくる。暗い部屋に電灯をつける。となりの若者に聞いた。「昨日は、お通じ、何回?眠れました?」「いいえ、眠れません」。今度、当方へきて、「お通じ?眠れました?」「ハイ、すっかり、眠れました」★この朝、「チリン、チリン」で目をさます。神父さん、早いよ。6時30分だった。カンテラをさげていたのは、このシスターだった。エライんだよ、このシスター。看護部の部長さん。朝食の後で、また、やってきた。「ご苦労さまね」「いや、いや、元気だよ」「ブラザーの苦しみが、お恵みだよ」。苦しみが、他者にお恵みをもたらす、の意味です。長崎の信心です。意味、わかりますよ。「あのネ、シスター。先生(お医者さん)が、トマさんと呼びかけて、びっくりしたよ。トマさんって、知っているんだね」「そりゃ有名だもの」「ゆうめい、って」「騎士誌にも書いてあるでしょう。病院にも置いてあるし」「読んでいるのかなあ」「そりゃ、読むんでないの」。お医者さんから退院の許可が出た。午前中に、帰ります。院長さんが迎えにきた。★昼食。食卓で、皆さんに「無事に帰って来ました」。食卓には、イッパイに花を咲かせた梅の小枝が、さされていた。「ルルドの梅だよ」★午後から、介護のヘルパーさんがきて、介添え入浴した。「お尻のところ、こげ茶色の消毒液で、キツイ色に染まった。しっかり、洗うぞ。ハハハ」。この夜は、早く、ゆっくり休んだ。テレビは、ソチ・オリンピックの開会式だったらしい。
2014年2月6日木曜日
入院、1日目。苦悩の8分間。ステントの入れ替え。
きょうのトマさん。苦しみの日です。腹部に、ステントが入っている。これが無ければ、生きていけない。時々、入れ替えの時がある。きょうが、その日です。午前中に、入院します。午後から、手術室へ。ツライ時間が始まります。「イタイ、痛い」「がまんせろ」。手術台で、何を思うか。何を、祈るか。長く生きると、楽しみもあるが、苦しみも、沢山ある。それらを乗り越えてのジンセイです。★院長さんの車で、病院へ。昼飯ぬきで、点滴が始まる。午後1時30分、歩いて手術室へ入る。考えたこと。「4ヶ月に1度、手術台へ。いつまで体力が持つか?」。とにかく耐えるしかないと、かみ締める。恥ずかしい、は既に通り越して、痛み少なく、その思いのみ。1時45分、「マスイのゼリーを入れませね」の声。47分、「カメラを入れます」「痛て、て」。スーッと抜ける感触。次に、ジヮ、ジヮ、入れる感触。「終わりましたよ」。1時53分。「早ャー」。ラクだったな。クルマ椅子で、病室に帰る。1つの受難は、過ぎ去った。点滴が夕方までつづいた。夕食には、小さなタイの焼き魚が、1ピキ。★その夜は、ゆっくり寝たいんだよ。ところが、これが2人部屋。早めに眠りについたが、となりの若者が夜型で、電気を中々消さない。しびれを利かせて、アイ・マスクと耳栓で、やっと眠った。「イビキ、かいても、知らんぞ」
2014年2月5日水曜日
カニでお祝い。ルーマニアに送金。携帯・フン失。困った。
2014年2月4日火曜日
トマさん、おめでとう。修道士の名前のお祝いです。うれしい。
2014年2月3日月曜日
恩師・永井博士・再び映画になるか。教え子は、うれしいよ。

2014年2月2日日曜日
高い者は高く、低い者は低く生きる。抵抗なくて、いい。

2014年2月1日土曜日
島原の教会。殉教者に祈る。真理の道を教えてください。
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