2013年8月27日火曜日

黙想・2日目。カトリックで生きるしかない。それが幸せ

黙想の家の、食堂から見た、長崎の港です。眺めが、いいですね。この港から、五島行きのフェリーが出ています。黙想が、始まりました。司祭の講話は、午前と午後の2回。信仰生活で、いま、考えていることは、度々の病気で、入院しては、1人で苦しんできた。その中で実際に悩むことは、「主よ、ここに、あなたは、居られますか。居てくれますか。それが分かれば、孤独じゃない。ひとり、でない」という問いかけです。神は目に見えない。声も聞こえない。日常生活のなかで、神を肌で体験していく。いかに築くか。むずかしいテーマでしょう。一生涯、追いかけて行くテーマでしょう。すぐに答えは出ない。それの答えが、司祭の講話を聞いて、少し分かった気がする。聖書に、イエスが「共に居る」という箇所がある。マタイ・ゲツセマニの園での祈り。「主は言われた。わたしと共に居てください。弟子たちは、いっしょに、居ない。イエスが、共に居てくださいと言われるのに、弟子が居ない。そう言われる主が、ここに居ない分けが、ない。そこに突破口が有るように思われた。次の悩みは、「なぜ自分だけが、苦しむのか。そういう迷いも実際に、あった」。それに付いて司祭は、イエスのゲツセマニの園での祈りをあげた。イエスでも、「このサカズキを、取り除いて、ください」と言われた。最初から、受け入れることが出来ますように、とは言わなかった。苦しい時、病気のとき、すぐ受け入れる、でない。サカズキを取り除いてください。イエスも、そう願った。次の祈りで、変わる。「あなたの、みこころが、行なわれますように」と、神のみむねを選んだ。最終的には、「みむね、ならば」と受け入れる。常に考えることは、自分の意思ではなく、神のみむねは何か?いま、神は何を望まれるか?★先祖は代々、カトリックを信じてきた。そこへフランス人の宣教師が来て、カトリックを教えた。信仰は、より強いものになる。カトリックの家族に生まれ、幼児の洗礼を受けている。当然、カトリックの教えを守って育ち、老いるまで勤めてきた。どんなことがあっても、この教えで行くしか、ないでしょう。迷いも、つまずきも、ありません。ある人は、せっかく教会に導かれても、教会のなかに入ると、信者同士の様々な出来事に、「わたしは、この共同体に入れない」と去って行く人が居ると聞く。本当に悲しいですね。教会へ導かれたのも、お恵みなのに、ザンネンに思います。そう思いながら、この夜は休みました。

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