2013年2月7日木曜日

26聖人の道を歩いた夫妻。神のはからいは限りないと感謝

日本26聖人の祝日だった。「広島県福山からです」と、夫(70歳)、妻(68歳)が見学にきた。「2年かけて、26聖人の道を歩きました」。京都から、旧・街道を、長崎まで、次つぎに、つないで行った。1日、歩いたり、長いときは、4、5日。平均で、25km歩いた。「結局、43日かかりました」「えらい、なあ。26聖人は33日でしたね」。夫妻の健脚を称えた。2人の表情は爽やかで、カラダじゅうから、オーラが出ているのを感じた。夫妻に問うた。「いま、人生を振り返って、思う1言は、ありますか?」。夫が答えて、「人は、それぞれに、役目がある」。妻は考えて、「神のはからいは限りなく、ですね」。そういい残して、夫妻は午後の列車で、福山へ戻った。★今朝、聖務日祷を唱えながら、文章から、ふと思った。人には、霊魂(アニマ)と、カラダがある。カラダは母親の胎内から貰う。アニマは神から頂くわけだが、天地創造の昔から、神さまの中に記憶されて、有ったに違いない。詩篇の139を読む、神よ、「あなたは、わたしのからだを造り、母の胎内で、わたしを形造られた」とある。紀元前、何世紀も以前に、詩篇に、もう、このように記されている現実に、驚異さえ覚えた。詩篇139は更につづいている。「わたしを造られた、あなたのわざは不思議」「わたしの骨は、あなたに数えられ、わたしのすべては、あなたの書に記されている」。そして「神のはからいは限りなく、生涯、わたしは、その中に生きる」とあるではないか。★それを読んだとき、瞬時に、あの福山の夫妻を思い出した次第であった。なぜ生活において、こんなに、うまく、つながるのだろうか。事の運びにも、はからいを思った。

2013年2月6日水曜日

ルルドの梅。まだ3分咲き。春は遠い。生きる現実に祈り

ルルドへ登る坂道、梅の木が数本ある。まだ、3分咲き。寒さが続くせいだろうか。場所によっては満開だが、ルルド周辺は、風あたりが厳しいのか、ツボミは固い。寒さに負けず、ルルドに参詣に来る人は、多い。★昨日は、26聖人の祝日であった。殉教の地、西坂の教会では、朝の9時から、2時間おきに、ミサが捧げられた。また、その時間、告解もできる。信者たちが、大勢、教会に集まって祈っていたと、聞いた。最後のミサは、夕方の7時。英語のミサだった。26聖人の日には、西坂の教会へ行けば、ミサで祈れる。告解もできる。その習慣が定着すれば、信仰を盛り上げる上で、最良だと思いました。★今朝、思いました。信仰における祈りとは、何ですか。それは、「主よ、主よ、ください、ください」と願うだけでなく、神のみ旨を知って、それを実行することではないですか。これは何度となく、聞かされてきたことです。では、神のみ旨とは、何だろう?自らに、問いました。「いま、あなたが持つ気持ちは、何ですか。いま、神のみ旨は、何んと思いますか。祈りの中に、探し求めてください。方向は、わかると思います。そう、難しいことでは、ないでしょう。わかったら、実行しよう。仰せのとおり、我に成れかしと、受諾しよう。いまは生かされていることを感謝しよう。それが信仰の道のように思います。

2013年2月5日火曜日

日本26聖人殉教者の祝日。立ち上がって、一緒に進もう

修道士の名前の祝日です。トマ小崎少年。15歳。京都で捕らえられ、長崎まで護送されて、33日、歩いた。西坂の丘で、他の殉教者たちと共に、十字架にかけられて、ヤリで突かれてイノチを捧げた。「パライゾ、天国」と叫んだ殉教者の声。現代に生きる修道士は、お花をもらい、ケーキをもらい、何も貢献するものは、ない。殉教への道は、厳しい。ただ眺めているだけで、いいのか。今朝、思った。自分のジンセイを振り返る。原爆にあって、孤児となり、ポーランド人の修道者たちに救われた。コルベ神父の小神学校に学んで、修道士となった。そのとき、もらった名前が、「これ」だった。トマ小崎。昔の武士は、洗礼を受けて、キリシタンになると、霊名のトマは、登明と、書いた。「名前を貰ったお前は、殉教者のように、生き得るのか」「いいえ、いつも、ラクを求めようと、しております」「それで、いいと、思っているのか」「助けて、ください。導いて、ください。チカラを与え給え、ホントに、そう願います」「さあ、いっしょに、立ち上がって、進もう」。電気店の社長さんが、大きなランを贈ってくれた。3月半ばまで、咲いているだろう。昨年も貰った。もう、5、6年つづいている。ありがたい。本気にならなければね。ヤル気を出さねば、と思う。修道名の祝日が来るたびに、反省し、覚悟する毎年です。

2013年2月4日月曜日

同伴者に成れ。だが、共に苦しみ、共に喜ぶ、難しさ。

聖コルベ館に見学に来た若者が、「長崎のコルベ神父」を読みました、と言えば、気になりますよね。ブログも見ています、と言うし、ネットから、コルベ神父についての話(動画)も見ましたと言われれば、なお更、気になりますね。県外から、片道、3時間、高速で来たという若者がいた。「ああ、そうなの」と興味を示すと、彼は車から小型のパソコンを持ってきて、動画を見せてくれた。普通は、職業を聞くのは遠慮するのだが、ここまで踏み込んで来られると、ついつい「お仕事は?」と聞いてしまった。「臨床心理士です」。それで話易いんだ。当方の話を、スムーズに彼は理解してくれる。いろんな人の悩みを聞いているから、慣れている。彼との会話のやり取りから感じたことは、「苦しむ人と共に苦しみ、喜ぶ人と共に喜ぶ」、つまり「同伴者になる」という姿勢だった。オレは原爆の丘で、同伴者に成れなかった。コルベ神父は強制収容所のどん底で、同伴者に成り得た。そこが違う。しかし、本当に、「共に苦しみ、共に喜ぶ」ことは、いかに難しいことか。「いかにすれば同伴者に成れるか」と若者に問えば、彼は答えた。「愛でしょうね」。人間は孤独で生まれ、孤独で死んでいく。その中間に、いかなる同伴者を探すか、探し当てた者が幸せになる。「ツライ経験に、意味づけを、する。例えば、乗り越えると、強い人間になれる、とか、よろ神さまに近づける」。そう言って、聖コルベや、修道士の文庫本を数冊求めて、サイン帳に、名前だけを書いて、若者は、十分に時間を過ごして、午後から去った。

2013年2月3日日曜日

原稿を1つ書き上げた。騎士誌の4月号をお楽しみに

覚えていますか。昨年の元日に、聖コルベ館に最初に見学に来た母親と娘がいた。「わけありの親子」と言った。今年の正月に、最初に、あの娘が又、やって来た。「ええ、また来たの?」。その辺は、ブログに載せた。おもしろいじゃないですか。前に、いちばん。今年も、いちばん。こんな具合が、こんな構成が、好きなんだ。それで、騎士誌の原稿に書き上げた。題が「苦しみにも、意味がある」です。「汝、今は知らないけど、後になって、この意味を知るだろう」。聖書の言葉です。いま、苦しみで、辛いよね。でも、乗り越えよう。後になって、大きな慰めになる。その意味が分かるのが、信仰のチカラです。ジンセイ、いろいろ、言うじゃないですか。難しい世の中です。自分は、いいと思っても、回りの人は、そうは思わない。そこが世の中の難しさです。でも希望は捨てないようにしよう。騎士誌は、4月号になります。3月10日ごろ活字になるでしょう。作家・三浦綾子さんは、病気が進行して、カラダがガンジガラメになったとき、言った。「ああ、いまこそ神さまが、私のことを、考えてくださる」。すばらしい信仰なんですね。「よいジンセイとは、苦しみが無いことでなく、苦しみが有ったればこそ、神に出会った。苦しみに、意味を見い出したとき、すばらしい人生になるでしょう」。口ぐせになった1句です。

2013年2月2日土曜日

捨てたモンじゃない、ジンセイ。思い出もあった。よかった

資料室で、1枚の写真を示している。コルベ神父から、イノチを助けられた男性に出会ったときの記念の写真です。沢山の写真の中で、大切な思い出です。この男性は、コルベ神父が、身代わりになってくれなければ、イノチは、なかった。「おかげさまで、イノチをいただいた」。その現実。大きなお恵みでしょう。これほど大きな恵みはない。この男性、もう老人になっていたが、彼は、青い美しい目からナミダをながしながら、言った。「もう、コルベ神父さまに、ご恩はお返しできない。だから、いただいたお恵みを感謝しながら、それを、どなたかに、別の形で、与えていく、それしか方法は、ないのです」。今度は、与える幸せを体験する。一般に、言われています。「受けるより、与える方が、幸いである」。これ、ホントですが、「受けたことによって、今度は、与えさせていただく」。この1枚のパネルから、大きな教訓を学びます。恩を返していく。これはニンゲンの生活において、大切な事、注目すべきことではないですか。★貰うだけでは、ダメということですね。自分も奉仕する。さあ、腰をあげよう。隠れたところから、隠れたものを、見ている御方が、いる。

2013年2月1日金曜日

2月に入った。ゲンキを出せ。小さな目標で、いい。前進

最近、言われた。「疲れたカオを、しているね」。また別の人からも同じセリフを言われた。これでは、ダメだな。バツだよ。ビシッと、せにゃ、イカンよ、自分に言い聞かせる。声は、大きく、出そう。特に祈りの声を、ね。これは、マルだね。ニンゲン、何んにも言わずに、黙りこっく、なる者、あれが、いちばん、スカン。「声なりとも、ゲンキよく、よし、これで行こう」。1月は、正月があった。2月は、日本26聖人の祝日がある。3月は、誕生日だ。毎月、希望の日があるじゃないか。楽しみを、つくろう。目標を決めて、マルで、行こう。ゲンキで、行こう。偉くならんでも、いいさ。知識や、理屈では、人は感動しない。優しい目をしよう。アセと、ナミダと、愛情で、人の胸は満ち溢れ、一杯になる。欲しいのは、みちびき、つながり、安らぎ、それだね。あれほど、立派な証言をしていた先輩が、老いていくのは、寂しい。ニンゲンの弱さなんだね。長生きすると、いろんな現実を見過ぎるよ。悲しいね。★月の初めの金曜日は、午前中、黙想になっている。沈黙で過ごし、午前11時過ぎから、聖堂で、ご聖体の前で、静かに祈り、反省し、平和を願う。心を落ち着けて、修道士である喜びを、味わう時間でもある。皆さんのためにも、祈ります。祈りは、どこに届くか、ご存知のお方がおられる。