今年の私の年賀状です。ホームに居ても、若干の年賀状を出した。私に届いた賀状は、56枚でした。ホームに居れば、やはり忘れられた老人になるのは当然でしょう。人のために尽くす、奉仕する働きがないのですから。そう考えると、この先、人生、やはり寂しい。
★朝食のとき、瀧神父さまが「あした、楽しみ、だな」と言った。「どうして?」「年賀の抽選会があるから」「切手しか当たらないよ」「切手の他に、当たった事がある」。嬉しそうに笑った。楽しみがあるのは、いいことです。
★今年の年賀状に、心引く2通があった。1通は「20年ほど前、長崎にて小崎修道士の語り部をナマでしっかりと受け止め、浦上天主堂に導いて下さいました。書物もすりきれる位、愛読しています」と嬉しい便り。20年も経って忘れないのは喜びでもある。
★もう1通は、「シスターMが天に召され、少々さみしく存じます」と1行記してあった。シスターMといえば、私には思い当たる事がある。「ああ、そうか?」と自著「ドキュメント・キリスト信者」を開いた。「ねこ同居」の題で載っている。古い以前の記事だが、歳老いた女性を書いている。朝の目覚めから、着物を着て、家庭祭壇で亡き主人の写真に祈る。次に雨戸を開けると、朝陽が差してくる。愛猫のチャムが寄って来る。そこから彼女の一日が始まる。子供は男1人、女4人居た。息子は終戦直後、若くして結核で亡くなった。病床で洗礼を受ける。女性が洗礼を受けたとき、三女を身ごもっていた。この子が、もし女なら、「マリア」と名づけたい。当時は、そういう名前は付けなかった。それに近い「M子」とつけた。その子がシスターの道に進むことになる。天に召されたのは、そのシスターであろう。
★歳老いた女性の生き甲斐は、毎日の新聞を丹念に読んで、「愛の話題」を見つける作業であった。切り取って集めて、カトリックの「愛」誌に送った。愛誌は季刊誌だが、32号にわたって載っている。殺伐とした時代に「愛の話題」を載せたのは、愛誌の特徴とさえなった。私は、記事を書くため、その女性に会いに行った。シスターMの話も聞いた。愛の話題も時代と共に変わってきたと言っていた。
★物資欠乏の時代は、物や金銭の寄付は歓迎された。世の中が豊かになると、やがてシラケの時代になり、心が尊重される。植木屋が、選定の木に小鳥が巣を作ったが、切るべきか、切らざるべきか、心は揺れる、そんな話も好まれた。
★愛は神の心で慈しむもの、愛の話題は忘れてしまった「心」を取り戻すことといえよう。歳老いた女性は、10年後、神に召された。15日目に愛猫チャムも死んだ。
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