湯布院の教会での、朝のミサの祈り。近所に、シスターの修道院が、2つある。聖歌を歌い、熱心に祈る。若いシスターも居りますよ。祈りが終わって、一旦、外に出たシスターのうち、1人の老人のシスターが又、戻ってきて、「小崎登明サンですか?」「ハイ、そうです」「記事、読んでいますよ。たいへん、でしたね」と慰めてくれる。湯布院の教会は、小さいですが、創立、42年になります。場所は、国道から、由布岳寄り、静かな場所にある。今度の湯布院の旅の目標は、祈りに、大きなチカラがある、それを認めたかったのです。「祈りは、個人の願いだから、それよりも、実質、行動の奉仕や愛」と、尊重されるオモムキがある。「そーか、な」。これが感想です。湯布院の教会に、『フランシスコの道』という手作りの冊子が置いてあった。記事の一節に、次の文を発見した。「もし、あなたが、祈りの人でなかったら、誰も、あなたが、神さまのためだけに、働いているとは、思わないでしょう」(ベトナム人の、トウン枢機卿)。いくら働いても、自分のために働くことになる。ムダなことです。自分の働きは、何も無い。神さまが、働かれる。そう思ってこそ、実りが有る。それが信仰でしょう。今度の湯布院の旅は、小旅行ですが、さわやかな実りがありました。★それにしても、大川甚吉神父さんが、よくよく、奉仕をしてくれた。帰りも、長崎まで、運転で、送ってくれた。こんな親切な、理解のある神父さんが、居るのか。「ありがとう」「トマ、途中で、倒れるのでないか、心配したよ。ジンゾウ、ハレツ、どうするんだよ。無事で、よかったな」「ハハハ」。片道、220Km。午後3時に、聖コルベ館へ帰った。
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