久しぶりの長崎の浜町(はまのまち)アーケード街。しばらく人通りを眺めていた。中国の大型汽船が入港しているのか、「熱烈・歓迎」の垂れ幕が注目をひく。それらしい服装の人も行き交っていた。道端に、笠を被って黙々と立つお坊さんを見つけた。エライなあ、が実感。何も語らず、何んのサインも送らず、まっすぐ見詰めて立っている。遠慮してか、誰も寄ろうとしない。修道士の私が眺めて、(とても、私には、出来そうにない)。実行の勇気は湧かない。修道士には、このような「道」を極める修業がない。ニンゲンに大事なのは、「行」の行ないか。心のこもる清掃や、相手への思いやりの礼儀、我が身を整える真面目さなどが大切なのは分かる。それらを常に我が身に果すことで、自己を形成する。ふと自分の話し方を考えた。聖コルベ館で話すとき、自分が体験したことを、相手かまわず、淡々と話すべきか。例えば、「この世で一番大切なのは、イノチと愛だよ」「私が生きてきて一番悲しかったことは、原爆の朝の母親との別れだよ」「人生は色んな人との出逢いでしょう。永井博士、作家の遠藤先生、コルベ神父からイノチを助けられた男性に出逢ったのだよ」と、一方的に話してきた。それで、いいのか。それとも、ニンゲンには色々な苦しみがある。①孤独の苦しみ。誰からも愛されないのは、耐えられない。②人が信じられない苦しみ。だまされた時の悔しさは、最も悲しいだろう。③苦しいときは誰でも「神も、仏も、あるもンか」と悩む。④生活困窮者の苦しみは深刻だろう。「慰めの言葉よりも、お金をくれ」が、ホンネでないか。⑤思いがけない苦しみに遭遇したとき、「なぜ、オレだけ、こんな苦しみに会うのだろう」と嘆くのも本当だ。そういう個々のテーマから話を進めたら良いのか、2つの道に悩む。もちろん話す内容に共感を及ぼすのは、体験であろう。そんなことを考えた半日だった。
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