戦争が終わって、昭和30年代、山の修道院(写真・奥の2階建て)で、11年を過ごした。この施設(左側の2階建て)が出来るところから知っている。今では不思議な伝説になっている。行ってみなさい。びっくりする。山の中で、荒涼たる丘で、広い土地、「チョット、こい」と鳥がなく。コジュウケイという鳥です。木造の家が大小、何軒か建っていて、中心が教会だった。今でも、この教会だけが残っている。健在、60年になる。施設で生活する者は、男の子だけ140人、他に、身寄りのない老人や、いろんな男女が住んでいた。戦後の混乱だった。園長はミロハナ神父さん、全体の責任者で、教育の責任者はペトロ石橋修道士だった。この修道士が又、ユニークな教育者だった。今、この施設での生活を振り返って、なんだか懐かしい。毎日、いろいろな事件が起こる。まだ食料不足の時代で、少年たちに親はなく、全くの孤独で、自分だけが頼りで生きている。がむしゃらに生きている。村人の芋ガマ(大切な種イモ)を荒らして、食ってしまう。イヤ気がさして逃亡者もいる。それをペトロ石橋先生は、1つ、1つ、解決していった。ドロ沼の戦いだった。石橋先生のイメージは、アセにまみれて、石垣を構築する。夜は遅くまで、祈る。園内に、私立の小・中学校もあって、校長でもある。ここからが、問題だ。「何が、この大きな施設を統制して行ったのか」「荒馬のような男の子ばかりを、教育するとは、どういう意味があるのか」。今の時代、余りにも教育が弱っている。何か、今の時代とは違う。荒れていたけど、あの時代が懐かしい、今朝は、それを思った。
「十七歳の夏」の中、
返信削除「山の施設で泣き笑いの出会い人生」のところに
書かれている施設のことですね。
辛く悲しい出来事が綴られたこの本を、
ここまで読み進んだ時、
面白いエピソードに、思わず笑ってしまいました。
生きることに必死だっただけに、今の学校と違って、
先生と子供達の心が、本当に通じ合っていたのですね。
そのころ病気が良くなった修道士さんが、
先生として活躍される場が与えられて、
よかったなあと思いました。