聖コルベ館の展示室のパネルです。なぜ、今日はこんな古い写真を使ったかというと、今朝、ミサのときに考えました。私たちが子どもの頃に、教会で教えられたのは公教要理でした。お祈りしなさい。ミサで祈りなさい。告白しなさい。犠牲をしなさい。ゴミを拾う、目を慎む。その行為は煉獄の霊魂を助けますよ。善行もしなさい。病人見舞い、貧しい人を助ける。それに基本は自己聖成です。自分の改良です。これがなければお恵みがない。死者への祈りも忘れない。時には死者のため、司祭にミサも祈って戴く。聖体行列、聖母行列などもあった。司祭への尊敬、聖書に親しむ。最近は、祈りよりも、愛の行為、奉仕、ボランテア、あさ、会議をしましょう。行動しても、自己聖成がないから、トラブルが多い。知り合いの女性で、社会行動、デモ、集会、行進に積極的に参加の人が、ヒマをみて、ロザリオ3本唱えたという。祈りが自然に出来るのは幼い頃からの習慣作りが大切です。これが中々難しい。ゼノさんや、ポーランド修道士たちは、外出する際は、必ず教会へ行って、短い祈りを行なっていた。すばらしい行為です。基本はお祈りを忘れない。お祈り、行動。祈り、働け。昔から、そう言われていた。私は修道士だから、聖書に、こう書いてあるなど教示はしない。それよりニンゲンの生き方を問う。心がけている態度です。
公会議の翌年にうまれた私です。
返信削除「自己聖成」って言葉を初めて知りました。
でも、おなじような意味のことをもっと他の言葉や態度で小さい頃から習ってきたように思います。
でも、すっかり忘れていました。
損得や、自分の自己満足の世界にどっぷりと浸かっています。
祈りはタダでどこでもできる。
受け取りを拒否されない。
祈り そして 働く の順番を守りたいです。
応援してください。
ゼノさんは寄付をお願いに行った時も、玄関で声をかける前にお祈りをしていたそうですね。
返信削除私も仕事中に「自分がやるんだ!と気負わずに、落ち着いてゆっくりやれば、誰にでもできるんだよ」とお年寄りから言葉をかけてもらいました。傲慢にならないように、心にゆとりをもって人に接する事ができるようになりたいです。