2019年3月7日木曜日

台湾人女性が描いた絵が、トマの自室を飾り、日々、語りかける

昨日、ホームに訪ねて来た台湾人の女性「カタリナ許書寧(キョ・シュ・ニン)」さんが、2年前にも訪ねて、描いてくれた絵です。絵の大きさは、26cm×18cm。額縁を入れると、33cm×25cmになる。自室の壁に掲げて、トマは日々眺めている。下の方の字が写っていないが、「重なる時間、凝縮された歴史の中で、しっかり生きる」と書かれている。この言葉を、今日は噛み締めた。
★生きるとは、「孤独」と「出会い」。「愛」と「いのち」。「これが人生」、トマはそう思っております。何度も日記に書きますが、人が生きるのに、一番悲しいことは幼少の頃に、両親に死に別れることです。1人っ子で、「孤独」になった現実。だが、ポーランド人の修道者の仲間に飛び込んで、修道士になった。コルベ神父を知った。お陰で、沢山の人に「出会い」があったのです。そして人間の原爆や、強制収容所の悪行の中にも、そこには絶望しかなのに、真の「愛」と「いのち」の尊さの光があるのを知った。これが「自分の人生」だったと思っております。
★そこに描いてくれた絵に書いあるのが、許さんの「重なる時間」です。満員電車に揉まれても、そこに「出会い」はない。出会いとは、相手に会って、その人に、のめり込んでいく。トマも、許さんも、修道者たちも、コルベ神父も、話の中で、呼吸の中で、一緒に重なって行く、そこに出会いがあるのです。出会いによって、孤独は消される。「愛と、いのち」の輝きが現われてくる。それが人生なんです。
★実は、許さんの絵の言葉の次には、パソコンの絵には見えないが「マリアさまの子、フランシスコの兄弟として」と書いてある。人が認める、欲しいものは「清らかさ」「貧しさ」「山や川や、星や花や、キツネやオオカミなど、大自然へ向かう優しさ」、それらからの支えが有るということでしょう。許書寧さん、あなたの、ほほえみ、ありがとう。
★ホームで生活しても、孤独じゃないんですよ。出会いもありますよ。愛も「いのち」もある。生かされている。「生かされて、今日も、祈れる」。凝縮された歴史とは、そういうことなんでしょう。ゲンキが出ます。大きく呼吸をします。生きているよ。愛よ、いのち、よ。心の中で、今日は叫んでいる。

2019年3月6日水曜日

台湾人の女性、会いに来る。聖ヨゼフ小聖堂へ喜びの巡礼

ホームに訪ねる人が来るのは嬉しいですね。大阪在住の台湾人女性、許書寧さんが訪ねて来た。以前にもホームに来た女性です。「台湾からの巡礼団を案内して、福岡から、山口、下関、島原・雲仙、長崎、外海と周り、6泊7日の旅を終えました。それで大阪に帰る前に、トマさんを訪ねました」。嬉しいね。
★今日は、教会では『灰の水曜日』で、ホームの礼拝の日にも当たっていた。一緒に湯江教会で、ミサに祈り、灰を受けた。その後に撮った写真がこれです。
★許さんの両親はカトリックで、祖母の葬儀のとき、許さんは教会での印象に深い感銘を受けた。自分も洗礼を受ける。霊名はカタリナです。
★1999年に日本に留学。日本語学校の後、専門学校で絵本を学ぶ。絵本作家として台湾では絵本、エッセイ集など出版している。日本人と結婚。「去年の9月には、夫と2人で、ポーランドを旅行しました。コルベ神父さまの修道院、ニエポカラヌフや、アウシュヴィッツを訪ねました」。いま、カトリックの子供向けの週刊誌『こじか』に、コルベ神父の物語を連載中です。
★ホームの自室でしばらく話した後、「3月は聖ヨゼフの月に当たっているので、小長井町の聖母の騎士修道女会の聖ヨゼフ小聖堂にお参りしましょう」と、高原修道士さんに運転を頼んで出かけた。右が、小聖堂の内部です。
★壁一面に描かれた見事な聖ヨゼフの聖絵。シスターたちは大きな障碍者施設を経営しているが、一番の問題は、水不足で困窮していた。聖ヨゼフに熱心に祈っていると、ある場所を示され、水が大量に湧き出て助かったという。また、この聖ヨゼフ小聖堂で捧げられる祈りのお陰で、沢山のお恵みを頂いた。聖ヨゼフさまに取り次ぎを願えば、必ず聞き入れられると、シスターたちの祈りは絶えない。こういう場所に案内されて、良かったと、許さんは喜んでいた。
★この日、雨がしきりに降っていた。高原修道士さんに、許書寧さんをJR諫早駅まで送って下さい、と頼んだ。ホームで許さんとはお別れした。

2019年3月5日火曜日

愛知のお坊さん。2ヶ所で会えなくて残念。会いたかったよ

豪華なお花。赤いお花。3月1日、誕生日に届いた立派なお花です。ホームの玄関に飾りました。
★この日、1つの、心に残る出来事があった。長崎市の誕生会に呼ばれて行った。途中で、聖コルベ館へ寄った。すると事務室の女性から「あら、たった今、小崎さんを訪ねて、愛知県からお坊さんが来られました。帰られたところです」。ええ、ザンネン、と思う。
★愛知県のお坊さんと聞いて、すぐに思い当たる節があった。もう、何十年か前に、なる。聖コルベ館に勤めていた時、1人のお坊さんが見学に来られた。「大浦天主堂へ行って来ました。入口で、この言葉を見つけたんです」と、バックから取り出した数枚の紙片に「天主様」の文字が一杯、書かれていた。それは「公教要理」の文章だった。「え?それが有ったんですか?大浦に?」。非常に驚いた。お坊さんが、その公教要理を抜書きするなんて、更にマジで驚いた。
★誕生会を終わって、ホームへ帰ると、今度は事務室の女性から「あら、小崎さんを訪ねて、愛知県刈谷市のお坊さんが来られました。先ほど、帰ったところです」とメモを渡された。お寺と氏名と、「30年ぶりでしょうか、お元気ということで、よかったです」と書かれている。「ああ、残念、お坊さんに会いたかった」と、全く惜しい気持ちがした。
★確か、あのお坊さんの事は、記事に書いたことがある。思い出して、文庫本を調べてみた。「春いつまでも」(1998年発行)にあった。彼は教育大学を卒業して、教師をしばらく勤めたが、やがて退職。家で数年間、読書三昧にふける。他人から勧められてお坊さんになる決意をする。大学で1年間、仏教を学び、得度して養子となり、お寺に入った。45歳になる、と記してある。
★そして私自身も、大浦天主堂へ公教要理を見に行った。茶色化した紙片に質問形式で、33問の額が掛かっていた。例えば「人の活きているのは誰のお陰でありますか▲人の活きているのは天主様のお陰であります」「天主様はどういうお方でありますか、の問いに、神の遍在や、全知、全能などが説明され、▲天主様は何でも御存じでありますから、天主様を騙すことも、隠すことも出来ません。悪いことをせず、善いことをしなければなりません」
★私はお坊さんのお寺を訪ねた。立派な門構え。230年以上の歴史を持つ本堂。あれから何度も長崎へ行った。夜行バスを利用する。「長崎では、いつも大浦天主堂と聖母の騎士へ行きます。大浦では神父とキリシタンの出会い、昔の出来事、聖母の騎士は今も信念をもって生活しておられる。肌で感じますね」
★私は、お寺の名前から住所をネットで調べて、「お会いしたかった」とハガキを出した。ああ、ザンネン、お会い出来れば色々話もあったろうに。

2019年3月4日月曜日

「やあ、『なは』ちゃんだよ。満3歳になりました」。ゲンキ

3月2日は「はな」ちゃんのお誕生日。満3歳になりました。「はな」ちゃんって、知っているでしょう。時々、日記にも載せてきました。ホームの職員・絵里さんの長女です。絵里さんは北海道の出身だが、高校卒業後、長崎へ来て、18歳でホームに勤めた。
★2015年5月、ホームの湯江教会で結婚式を挙げて、皆さんから祝福された。次の年、はなちゃんが生まれる。こんなに大きくなりました。最近は、カメラを向けると、「はずかしい」。じーっと、していない。お顔をそむけるんです。なかなか写真が撮れない。
★「はなが、きたよ」と絵里さんが自室に連れて来た。顔を隠して、イヤ。イヤ。こっち、むいてよ。「はなは、ね。リンゴが好きなの」。自室に丁度、リンゴがあった。「なはちゃん、リンゴだよ」と差し出すと、ごらんのニコヤカなおカオになりました。
★子供の成長は早いね。そして希望がある。人生にあるのは成長だ。どれだけ成長で変われるか。時代によって異なる。すこやかに育ってほしい。ゲンキに育ってほしい。その願いだけです。右の写真が、生誕3ケ月後の「はな」ちゃんでした。
★日記の読者さんから、フウーセンを送ってもらったり、お菓子をもらったり、見守って頂きました。どんな女の子に育つのかな、楽しみだね。お母さんの絵里さんは、懸命に介護の仕事を勤めています。ホームの誕生会の出し物にも出番があった。サラ廻し、傘での廻しで皆を楽しませた。
★時々、ホームにも「はな」ちゃんを連れて見えるので、皆さんからも「あら、はなちゃん」と喜ばれている。幼児がホームに来ると珍しい。皆、老い人ばかりだからね。満3歳だよ。未来がある。これからが楽しみです。時々は、日記にも「はな」ちゃんを載せて、成長を見守りたいと思います。
★満3歳の誕生日を迎えた「はな」ちゃんへの贈り物、よろこんで受け付けます。

2019年3月3日日曜日

ホームの誕生会。出し物の喜び。傘も周る、皿も回る、楽しさ

ホームの誕生会。3月生まれは9人がいた。私は1日生まれだから、真っ先に皆さんの「ハッピバスデイ」の歌と拍手に乗って、園長神父さんから小さな灯火と、お花と、おみやげ(チィッシュの重ね束=沢山使うので、これが一番良い)を貰った。やっぱり嬉しいね。
★あっちでもお祝いされ、こっちでもお祝いされて、生まれた日は忘れないよ。「がんばれ、がんばれ、あまり、すきじゃない。がんばって成功するのは、ひとにぎりの人間です。自然に、この道を歩んできた。まあ、がんばれば、なまけに、ならない。フンパツ・リョクには、なるね。せいイッパイ、生きました。それだけで、ジュウブンです」
★ホームの誕生会といえば、職員さんによる出し物だね。さあ、待っていました。今月は何が出るか。楽しみだよ。ボクはカメラ・マンだから、出番をバッチリ撮るよ。席を外して、仮装の職員をさがした。居た、居た、ここに、この人たちだよ。ハリッキって、いるな。両の手を広げたのは司会か解説者か。カサを持った2人に、左の女性はサラ廻しかな、顔を見ると、彼か、彼女か、ワカラン。とにかく、やる気、マンマンだね。この出し物はホームの歴史と共にあり、毎年、順番が来るから、芸達者が多い。とにかく愉快だよ。皆さんを楽しませよう。自分たちも楽しもう。そんな気持ちが伝わってくる。さあ、さあ、これから食堂へ入るぞ。音楽、頼むよ。
★カサ廻しから芸は始まった。カサを開いて、カサの上に乗せたボールや四角い箱を廻す。そりゃ、上手に周るさ。ボールも箱も、カサにヒモで結ばれている。笑いの中にハクシュが起こる。ポカーンと見詰める人もいる。いいフンイキだね。
★カサ廻しが一段落すると、今度はサラ回しだね。棒の上で上手に廻すサラ。オ、オ、オチルぞ、あぶない。でも、ナンか、カラクリがあるのか、サラは上手に回転する。そりゃ、みんなは喜ぶは、ね。上を見ようよ。たまには、上を見よう。そんな気持ちにも、させる。
★これだけ芸を果たせば、そりゃ受けますよ。ホーム全体が笑いに包まれる。それが大事なんだね。今の世の中、セチ辛い出来事が多いじゃないですか。「カンベン、ならん」とか「ゼッタイ、反対」だとか、高齢者を「ダマスしてお金を取る」とか、イヤだね。ホームといえば、イヤがれるが、No、No、楽しいよ。安心だよ。こうして誕生会をお祝いされるのは有り難いと素直に思い、感謝しています。
★「きょう、うれしかったこと、ある?よかったこと、ある?」

2019年3月2日土曜日

テレビまで来て盛り上がった誕生会。耐えて、いま有る事が尊い

苦しみがあっても、逆境に立っても、ハネのけてきた。乗り越えてきた。その証拠に、今がある。今が有ることが尊い。まわりから冷たくされても、踏まれても、それでもハネのけた。過去に耐えてきた。生きてこそ、いのちだ。耐えてきた歴史こそ、真実だ。本当に自分のものだ。生きてきた証でもある。大切なのは、今、有ることだ。
★誕生会は、長崎市築町の食事処で、この11人が集った。お祝いの花束、ケーキ、皆さんから温かい励ましのお言葉を沢山いただいた。参加者は、高原修道士さん、松下修道士さん、従姉のシスター、大学の先生、元・高校の女性の先生方、幹事役の千草さん、その友人女性、「写真集」を編集した野々村哲さん、塩沢美樹さん、多彩な顔ぶれで、心通う仲間なので、雰囲気は盛り上がり、予定の時間を越えて、宴は3時間つづいた。あっと言う間の3時間だった。私にとっては晴れ晴れしい場所、楽しかった、嬉しかった、長生きして、よかったと、心底、思ったよ。
★民放テレビの取材もあった。こんな誕生会って、ありますか。テレビが来るなんて、びっくり、しますよね。食事処は、狭い路地の、車は一方通行の場所にある。テレビが来るって先に連絡があったので、修道服を着て行った。
★高原修道士が運転の車を降りて、路地を歩く姿を、遠くからテレビ・カメラが追っていた。そこから撮影が始まった。実は、2月の中頃に、民放テレビの報道記者が、ホームに訪ねて来た。「小崎さんの特番を作りたい」「え?なんで?なにか材料があるの?」「大丈夫です」と女性記者さんは乗り気だった。そして今日が、その第1発目の取材である。
★テレビは、もちろん、花束贈呈も、ケーキのロウソクを吹き消す口元も撮った。大学の先生が乾杯の音頭をとり、1人1人が順々に感想や思い出を述べた。大学の先生とは、自著「長崎のコルベ神父」の著書がご縁になった。女性の先生たちは「ポーランドへ連れて行ってもらった。よい巡礼の旅だった」と、しきりに懐かしがった。最後に、テレビは私に感想を求めたが、「ポーォ」っとなって、何と答えたか、覚えていない。
★幹事役の千草さんは、ホームの皆さんへのオミヤゲとして、抱える程の「長崎のカステラ」を頂いた。お祝いのお酒も入っていた。帰りの高原運転の車は、カステラや、花束、お酒でイッパイだった。
★ホームの事務室で、栄養師さんを加えて、職員にお任せした。早速、その夕食にカステラはホームの全員、職員も、皆さんにも配られた。これ程までも面倒をみて下さるのは有り難いことです。91歳の誕生日は最高の日になりました。長生きすれば、楽しい事も良いこともあるんですね。幸せです。まだボケないぞ。ガンバルぞ。
★また宅急便でも、大きなキレイなお花を頂きました。お恵みをイッパイ頂いて、有り難う。テレビは、3月の中頃に時々ホームでの生活を取材して、4月になって、夕方の6時過ぎの「地方のニュース」の「特番」で放送する予定だそうです。これも楽しみですね。元気でいないとね。ますます希望が燃えてくる。

2019年3月1日金曜日

91歳の誕生日。生まれた場所は北朝鮮の海辺の町だった

父と母は、1926年・大正15年3月13日に結婚した。父、松吉は37歳。母、ワサは26歳。11歳も年が離れていた。結婚式の写真が1枚残っている。母が立っており、父は腰掛けている。父は足に少しばかりの障害があった。
★2年後、私が誕生した。61年前になる。生まれる幼児は、どの家族で生まれたか、どの土地で生まれたか、どの宗教の家族であったか、影響を受ける。
★私が生まれたのは、北朝鮮の北部の小さな都市だった。中国、ロシアの国境に近い。日本海側の海辺の町だった。メモによると人口は凡そ2万2千3百人。日本人は2千2百人。中国人が900人。僅かにロシア人。後は朝鮮の人たちだった。
★家の職業は「精肉店」。日本人が買いに来た。宗教はカトリック。父は外海・黒崎。母は浦上。根っからのカトリック信徒だった。日本人は誰もカトリックは居なかった。もちろん教会もない。後で、教会が出来て、朝鮮人の司祭が常駐し、カトリック信徒が多く祈り、その中で私たちも祈った。この宗教が、私に大きな影響を与えることになる。
★生後1年の頃か、写真が残っている。椅子に乗せて、母が後ろから手で支える。片足で立っているのが、なぜか、わからない。「精肉店」の牛や鶏を飼育するのは朝鮮の人であり、商売柄、牛肉、鶏肉の仕入れのため、朝鮮の人とは深いつながりがあった。幼児の私は、オンドル部屋の、ツルツルした紙の感触と独特の匂いを、今も覚えている。白い朝鮮服を着た男たちの膝の上に抱かれて、長いヒゲがはえた男たちの愛撫で育った感触が、今は懐かしい。私にとって、北朝鮮の庶民は、みな善人だった。
★叔母たちの話によると、私は「動くもの」=自動車が好きだった。当時はバスがも、自動車も少なかった。新聞に自動車の広告の写真が載ると、「切り取って、壁に貼れ、貼れ」と、せがんだ、と聞いたことがある。にかく「ジーッと」していない子だった。
★私が7歳で、父トマ松吉は病死する。17歳で、母クララ・ワサは原爆死する。家族には恵まれなかった。
★今朝は、以上のような回想をした。誕生日の今日は忙しい。午前10時にホームを高原修道士の運転で出発して、長崎市へ向かいます。「91歳の誕生を祝う会」が10人程で行なわれる予定です。日記を早めに書きました。今日の後半の「誕生会」は、どうだったのかは、次に知らせましょう。