今日は、イノチの恩人であるシスターアグネス永松ミツエの命日です。40歳の若さで神に召された。今年で50年忌を迎えます。
★写真は、シスター永松の葬儀です。私が写しました。白い十字架の右となりに、遺影をもったお父さんの姿が見える。家族はカトリックでなかったから、父親だけが東京から参加した。当時は土葬でした。写真を見ると、まだ修道女院のシスターの姿は余り目立たず、ベール姿が半分を示している。お棺のそばに、1ピキのイヌ。不思議なイヌの行動に、亡くなったシスターの引きつける愛を感じました。
★私が22歳から25歳の頃、腎臓結核、背骨カリエスを病んで、山の修道院では、死ぬ間際に追い込まれていた。背中から、ドバっと、膿(うみ)が流れ出る。40度近い高熱、血尿などで苦しみ、危険な病状におちいった。それを救ってくれたのが、看護師のシスター永松だった。戦後間もなくの時期で、結核の新薬が手に入らない。シスターがアメリカ軍の従軍司祭から求めてきて、私に投与してくれた。その新薬がてき面に効果があり、お陰でイノチが助かった。まさに、生涯イノチの恩人であり、忘れることは出来ないシスターです。
★シスターは東京出身だったので、33回忌のとき、私は率先して、カトリックでないご家族を訪ねて、「東京の教会で、供養をしますから、ご家族・親戚ご一同の出席をお願いします」と頼んだ。ご家族は協力してくださり、ミサを捧げ、会食を行なって、シスターのため祈ったことがあります。
★それから5年ほど経った日、(シスターは長女)で、4女の妹さんが、初めて山の修道女院のシスターのお墓参りに来られた。そのとき、私は長崎市のホテルまで案内した。車の中で、自分が病気から救われた話をして、またシスターは障碍者の施設で、婦長として懸命に愛と奉仕を尽くされた奉献生活を語った。看護と世話に没頭していたシスターだったが、無理が祟ってか、持病の心臓病が高じて、大学病院で手術をした。経過は順調で、退院も間近かと思われたのに、病気が急変する。危篤状態となった。看護師として死を直感したのだろう。「わたしの、服装を、揃えて、ください」「マリアさまを、ください」。それが最後の言葉で、安らかに帰天した。シスターが残した思い出は消えることがない。
★私は、妹さんに別れるとき言った。「33回忌はしましたけど、最後の回忌は50回忌だそうですね。でも50回忌となると、私は89歳ですよ。それまで生きていませんね」。あの妹さんはお元気だろうか。私は、89歳になってしまいましたよ。それでも、ミサをお願いして、シスターのため祈りました。
★今日は、夕方、NHKテレビ「イブニング長崎」の特集で、私も、ちょっぴり出るらしい。しかし午後から、修道会の長崎4地区の集りが諫早で行なわれます。帰りは、8時頃でしょう。
シスター永松さまのお話はいつ聞いても感動します。従軍司祭のところまでの距離は遠く、それを歩いて行かれたと記憶しています。新薬を求めて治癒を願う一心で歩かれたのでしょう。葬儀の写真は初めて見ました。まず白い犬に目が行きました。犬もシスターの死を惜しむかのようです。生きていませんよとおっしゃったシスターの50回忌。89歳の奇蹟ですね。
返信削除「わたしが生きている間は、シスターも生きているってことたい」というトマさんのことばが今も心に残っていて、"生きる"と"つながり"を時折考えます。
返信削除「小さいお手々をくみあわせ、こうしてお祈りいたしましょう 神さまよい子にしてください」
そう、シスターの歌う声が聴こえてきそうです。
NHK長崎の岳踊りのインタビューは素敵に放映されていました。
喜びの踊りだったのですね。
ミキ