2017年8月13日日曜日

落ち度はあっても人生は宝。助けられて今も生きる

ホームの隣、湯江教会の祭壇の生け花です。
★自分の健康を考えるとき、歩くのに、バランスが定まらない。両ヒザの関節が痛み、歩行に困難を感じる。昨年から比べると、自分でも意識するほど、体力が落ちている。
★毎日、教会の祈り(寝る前の祈り)で、良心の反省を行なう。実のところ、何を反省すればいいのか、日々悩む。ウソを言うわけでもない。ケンカもしない。人をおとしめる言葉も吐かない。ミサや、ロザリオは唱えている。ホームという囲みの中での生活では、特別な事件は起こらない。その毎日の繰り返しがつづいている。
★被昇天の祭日を迎えるため、司祭に告解をするとき、何の罪を語るべきか、心に迷いを感じた。もちろん自分が聖人でないことは、百も承知している。それでも語るものが無いというのは、「本当の自分の正体を分かっていない」ことに気がついた。自分の心は真実に神に向かっているのか。祈りや黙想は充分なのか。むかし犯した落ち度を思い出して、反省するどころか、反対に快感を覚えることは、ないのか。生きていることは恵みではあるが、その恵みを充分に感謝し、愛に応えていない自分が居る。傲慢や、自己過信、信仰への疑い、など、まだ、まだ本当の自分に気がついていないことに実感する。この心境では、神の御前に出ることは出来るか。到底、出来ないだろう。だが神の愛は自分を見放さないと信じている。
★一方、反省し、悔やむだけでは、事は前に進まない。「喜べ」。いつも喜べ。苦難があっても喜べ。神は確かに自分に御心を掛けてくださる。神は弱い自分を導いてくださる。苦難があっても、神の助けで乗り越える。いつまでも、この苦難の状態がつづくと思うな。時は変わり、人も変わる。変わらないのは、オマエの喜び、神の恵みだけだ。
★生きているではないか。親しい友達たちが多く居たが、彼らは、もう、この世に居ない。だがオマエは生かされている。足が少々痛くても生かされている。目で美しい花が見れる。心に愛を感じることも出来る。笑いだって、ある。生きてきた人生は、はやり落ち度はあっても、自分の宝であったに違いない。そう信じて続けて生きたいと思う。
★人生に苦しみはある。生きている限り、当然だ。助けられて、励まされて、慰められて、ワタシは、今も生きる。うれしいよ。

2 件のコメント:

  1. ありがとうございます
    お言葉、感謝致します。

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  2. いくつになっても迷い、悩み、疑問を持ち続ける小崎さんの姿勢を見習いたいです。

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