今度、ホームに入居された大曾神父さま。修道会の先輩だから、60年以上、お互いに知っている。ホームに来られたときも、「トマさん」「トマさん、元気だね」と、親しく声をかけてくれた。毎日、神父さまの部屋に、おじゃましている。
★大曾神父さまが、こんな話をしてくれた。「むかしの聖母の騎士の教会で、いつも、一人で祈っている者がいた。いつ教会へ行っても、祈っている。衣服を着て、祈る姿に、感心やな、と思ったよ。それがトマさんだった」
★この短い話を聞いたとき、嬉しくなると共に、あの以前の教会、畳の敷かれた教会を思い出し、一人の少年が祈っている、それが自分だったと、先ず自分の存在を発見した気持ちになった。そして、少年の頃の自分を、覚えていてくれる人がいる、その事に嬉しくなったのです。
★私の少年の事を覚えてくれる人は、浦上に住んでいる従姉の女性しか居ない。それは昭和16年頃のことだった。更に、大曾神父さまも「知っているよ」といわれて、そのときは確か、昭和18年頃だと思う。戦争中の、少年だった頃の自分を、今の自分が眺めている感じがしたのです。あの頃、着ていた衣服は、兵隊色のボタン付きだったのか、それとも職工さん風の姿だったのか。
★あの教会で、祈っていた一人の少年は、その後、どのような長い人生を歩んだのか。結局、昭和20年、終戦と共に聖母の騎士に入って、大曾神父さまを知ることになるのだが、あのタタミの上で祈る少年に、「神さまのお恵みは待っているよ」と告げたい気持ちに今、ふしぎになったのです。
70数年前、畳が敷かれた聖堂で祈る少年の姿が見えるようです。その頃にタイムスリップしたようなとても感慨深いお話です。
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