長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2013年3月26日火曜日
長崎港に着いた観光船から、1人の外国人が聖コルベ館へ
長崎港に、3万トンの大きな客船が入港した。(写真は実際に、この船です)。この船に乗って、アジア各地のクルーズに参加しているオーストラリア人の二ール・ペグリーさん(80歳)が、長崎へ上陸すると、早速、聖コルベ館を訪れた。普通のお客さんたちは、「サクラを見に行きたいです」「おいしい日本料理を食べたいです」とテレビで言っていたのに、ペグリーさんは、聖コルベ館へこられたわけだ。案内したのは、知り合いの長崎・被爆者たちだった。「どうして来ましたか?」。ペグリーさんによると、子どもの頃、宣教師の両親と中国にいた。すると戦争が始まり、日本軍から抑留されて、苦労された。その影響もあって、戦後は、強制収容所や、外国人捕虜の研究をしている。それで紹介されて訪ねてきた。聖母の騎士は、もと敵国人の収容所になっていた。敵国とは、アメリカ、イギリス、オランダなどの国に属する人たちだった。シスターもいたし、宣教師や、普通の民間人も居た。一方、聖母の騎士のポーランド人たちは、敵国ではなく、彼ら修道士たちは熊本県・阿蘇の温泉へ抑留されている。小崎修道士は、ペグリーさんに、収容所のことや、コルベ神父の宣教と、生活、強制収容所での犠牲などを語った。いずれにしても悲しい戦争の出来事だった。写真の右が、ぺグリーさん。左が、奥さん。「平和を願いましょうね」と固い握手をして別れた。この後、原爆資料館へ回ったそうだ。
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