めずらしく、県外から、電話がかかってきた。
★やっぱり、歳をとった者の強みは、背中に背負った歴史ですね。過去のことは、遠いむかしというけれど、昔を体験したのは、老人です。背負っているのは老人です。
★電話の内容は、永井隆博士の「絵」についてと、思いもかけず田川先生のことでした。1枚の写真がある。2人とも浦上の信者で、永井隆先生と、田川初治先生がいっしょに写った珍しいペアの写真を、大切にしている。理由は、この2人の先生に出会って、授業や話を聞いた、直接の思い出があるからです。思い出は、心の宝です。永井先生と、田川先生の2人は最も仲の良い間柄でした。永井先生は、大学の博士、田川先生は、小学校の教師で、童話家でした。17歳、18歳の頃、聖母の騎士で、お2人から身近にお話を聞いた。永井先生から、中学の理科を教わった。電話の女性が田川先生の名前を言ったのには、おどろいた。切っても切れない、お2人です。信仰で結ばれていた。
★電話をかけてくれた女性に、永井先生の絵が、「十字架の道行」として、14枚、平戸市の木が津教会に残っていると伝えた。木が津はカトリック信者の集落だが、何とかして自分たちの教会を持ちたいと、苦労しながら、1962年10月に木造の教会を造った。この教会内に、掲げられている。ある熱心な信者さんがいて、浦上教会から、貴重な14枚の「十字架の道行」を頂いてきたのだった。その信者さんに出会って、話を直接聞いている。いまも、木が津教会に掲げられているだろうか。
★そういう事実を知っているのは、やはり歳の功といえるだろう。田川初治先生は、日本26聖人の無声映画の弁士を務めた忘れがたい先生だった。
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年11月17日火曜日
2015年11月16日月曜日
祈れば、心は安らぐ。書けば、ボケ防止には、なる
毎朝と、夕方、いまの時間に、いつも祈っている小さな教会、湯江カトリック教会です。左側の建物がホームです。いまも、ロザリオを10人ほどで共同で唱えて、自室に戻ってきたところです。
★「いつも、ロザリオだね」。園長神父さんの口癖だが、神父さんも在園中は、いっしょに唱えているから、慰めになる。言葉だけで勧めるのでなく、信念をもって自ら実行している。それは幼いとき、少年のとき、神学生のとき、司祭になってからも、自分の身に律してきた信心というか、生き方というか、心の中に棒のような柱を持っているのです。
★車椅子に収まって、首を少しまげて、ほんとうに安らかな気持ちで、祈りに参加している「おばあちゃん」がいる。見て、幸せを感じる次第です。自分に言い聞かせる。「生かして、もらって、ありがとう」。これは我が心の小さな叫びです。それより他に、何もないよ。
★午前中、絵てがみ教室がありました。絵を描く、ノートに字を書く。パソコンに日記を書く。大した事ではないかも知れない。しかしアタマのボケ防止にはなる。
★「いつも、ロザリオだね」。園長神父さんの口癖だが、神父さんも在園中は、いっしょに唱えているから、慰めになる。言葉だけで勧めるのでなく、信念をもって自ら実行している。それは幼いとき、少年のとき、神学生のとき、司祭になってからも、自分の身に律してきた信心というか、生き方というか、心の中に棒のような柱を持っているのです。
★車椅子に収まって、首を少しまげて、ほんとうに安らかな気持ちで、祈りに参加している「おばあちゃん」がいる。見て、幸せを感じる次第です。自分に言い聞かせる。「生かして、もらって、ありがとう」。これは我が心の小さな叫びです。それより他に、何もないよ。
★午前中、絵てがみ教室がありました。絵を描く、ノートに字を書く。パソコンに日記を書く。大した事ではないかも知れない。しかしアタマのボケ防止にはなる。
2015年11月15日日曜日
ポーランドから高校生が長崎にくる。思い出の一こま
★ポーランドから高校生と教師が、長崎へ来る。短い日程で、どこを見学したら良いでしょうか、とホームに訪ねてきた教師がいた。8月末の日記にも載せた。そのとき、アタマに浮かんだのが、もちろんコルベ神父の聖母の騎士と、長崎港の入口にある神の島の教会とマリア像でした。ポーランドは北に海はあるが、ワルシャワあたりには、海はない。めずらしいでしょう。100年以上の歴史を刻む天主堂があって、岬には大きな岩があり、マリアさまの像が、出船、入り船の安全航海を祈っておられる。きっと喜ばれるはずです。自信をもってお勧めした。
★教師から、便りと、写真が送られてきた。教えた日程通りに見学し、コルベ神父の聖母の騎士と、神の島は、皆さんに非常に喜ばれた、との嬉しい知らせだった。長崎の海は、魅力的だったに違いない。
2015年11月14日土曜日
待って、ましーた、月に1度の誕生会。長生き
2015年11月13日金曜日
訪問してくれたシスターの、つづきです
訪問してくれたシスターのつづきです。
★シスターに、フランシスコ中村安五郎修道士のロザリオを差し上げている場面です。この写真を、載せようか、載せまいか、迷ったのだが、元気な顔を見ていただくため、載せました。この後で、高原修道士さんが自室に訪ねて、「中村修道士さんの修道服も保存している。写真も数枚あります」と言われた。「大事に、保存していてください」と頼んだ。
★シスターさんには、自著の『長崎のコルベ神父』を読むように勧めた。中村修道士の召し出しや、最初の修道士たちの話が書いてある。本は、わたしの手元に無い。ホームの図書棚に、2冊あったので、その1冊を取って、シスターに見せようと持ってきた。すると、ちょうど園長神父さんと、シスターが話していた。これ幸いと、シスターに、この本をくださいと、園長神父さんに許可をもらうように勧めた。園長さんは快く、「いいですよ」。「サインをしてください」と頼まれ、かくして本をしシスターに贈ることになった。シスターは喜んで、にこにこだった。そのほか、『西九州キリシタンの旅』も、聖母文庫で求めて、読むように勧めた。亡き修道士の遺品が欲しいと、求めてくる人は、そう、そう、居ないでしょう。
★シスターに、フランシスコ中村安五郎修道士のロザリオを差し上げている場面です。この写真を、載せようか、載せまいか、迷ったのだが、元気な顔を見ていただくため、載せました。この後で、高原修道士さんが自室に訪ねて、「中村修道士さんの修道服も保存している。写真も数枚あります」と言われた。「大事に、保存していてください」と頼んだ。
★シスターさんには、自著の『長崎のコルベ神父』を読むように勧めた。中村修道士の召し出しや、最初の修道士たちの話が書いてある。本は、わたしの手元に無い。ホームの図書棚に、2冊あったので、その1冊を取って、シスターに見せようと持ってきた。すると、ちょうど園長神父さんと、シスターが話していた。これ幸いと、シスターに、この本をくださいと、園長神父さんに許可をもらうように勧めた。園長さんは快く、「いいですよ」。「サインをしてください」と頼まれ、かくして本をしシスターに贈ることになった。シスターは喜んで、にこにこだった。そのほか、『西九州キリシタンの旅』も、聖母文庫で求めて、読むように勧めた。亡き修道士の遺品が欲しいと、求めてくる人は、そう、そう、居ないでしょう。
2015年11月12日木曜日
中村修道士の、戦争中の思い出。つながって、人生
きのうは、シスターが来て、フランシスコ中村安五郎修道士さんの大切な形見のロザリオを持って行かれた。惜しむわけではないが、寂しさを感じる。写真の右下の年代は、2010年10月、わたしが撮った1枚が手元に残っている。長年、聖母の騎士の受付係として活躍していたから、知っている人も多いだろう。
★中村修道士さんを偲べば、15、6歳頃のわたしの貧困を思い出す。母と2人暮らしだった。朝鮮から帰ってきて、長年、わたしの結核の病いの看護・付き添いをしながら、やっと病気から立ち直ったとき、どのように生活するか、母と子は貧しさに苦しんでいた。母は、収入のため、わたしの付き添いの経験を生かして、その頃は、大学病院で患者さんの付き添い婦として、病院に泊り込んで働く職業があった。
★一方、わたしは大学病院の裏門の近くに、1人で部屋を借りて、寝泊りだけをしていた。食事は戦争中でもあり、配給だったので、米は1人分決まっており、3度の食事は病院の患者の横で母の手料理を食べていた。お米の配給は玄米で、母は、玄米を一升瓶に入れて、棒で突くのである。すると、ヌカが外れて、白米になった。母を思うとき、その棒で、しきりに突いている姿を思い出す。忘れない。
★裏門の家は、環境がよくなく、聖母の騎士のポーランド人ミロハナ神父さんに相談すると、家を探してあげなさいと、フランシスコ中村修道士さんに任せたのだった。中村修道士さんが探してくれた家が、浦上天主堂のすく近くにあったカトリック信者の仕立て屋さんだった。その頃から、聖母の騎士とのつながりが出来てくる。
★だから人生とは、クサリのように、こうなって、ああなって、つながって、今がある、そう思えてならない。今があるのは、偶然ではない。
★中村修道士さんを偲べば、15、6歳頃のわたしの貧困を思い出す。母と2人暮らしだった。朝鮮から帰ってきて、長年、わたしの結核の病いの看護・付き添いをしながら、やっと病気から立ち直ったとき、どのように生活するか、母と子は貧しさに苦しんでいた。母は、収入のため、わたしの付き添いの経験を生かして、その頃は、大学病院で患者さんの付き添い婦として、病院に泊り込んで働く職業があった。
★一方、わたしは大学病院の裏門の近くに、1人で部屋を借りて、寝泊りだけをしていた。食事は戦争中でもあり、配給だったので、米は1人分決まっており、3度の食事は病院の患者の横で母の手料理を食べていた。お米の配給は玄米で、母は、玄米を一升瓶に入れて、棒で突くのである。すると、ヌカが外れて、白米になった。母を思うとき、その棒で、しきりに突いている姿を思い出す。忘れない。
★裏門の家は、環境がよくなく、聖母の騎士のポーランド人ミロハナ神父さんに相談すると、家を探してあげなさいと、フランシスコ中村修道士さんに任せたのだった。中村修道士さんが探してくれた家が、浦上天主堂のすく近くにあったカトリック信者の仕立て屋さんだった。その頃から、聖母の騎士とのつながりが出来てくる。
★だから人生とは、クサリのように、こうなって、ああなって、つながって、今がある、そう思えてならない。今があるのは、偶然ではない。
2015年11月11日水曜日
フランシスコ中村安五郎修道士の貴重な遺品を
東京のシスターが訪ねてきた。五島の久賀島(ひさがじま)の先祖について調べている。「久賀島出身のフランシスコ中村安五郎修道士さんの、何か、遺物はないですか?」の問いだった。
★中村安五郎修道士は、今年の2月15日、このホーム聖フランシスコ園で、93歳の生涯をとじた。コルベ神父が長崎に滞在中に、長崎の聖母の騎士に入った修道士だった。そのとき、わたしはホームに居たので、中村安五郎修道士の遺品を3点自室に飾っている。
★シスターは突然に現われて、安五郎修道士の遺品を欲しいという。久賀島に、資料館を作りたいので、そこに展示したい、との願いである。シスターが訪ねてきたのに負けて、大事な遺品「ロザリオ」を差し上げた。喜んでいるシスターです。
★シスターを案内して、連れて来たのは、愛野カトリック教会のポーランド人のブリ神父さんだった。ブリ神父さんの心も伝わってくる。大事な、大事な、フランシスコ中村安五郎修道士の遺品だが、有効に展示されることを願いつつ、シスターに手渡した。
★この日、朝の食事もしないで、早々と、長崎のクリニックへ診察に出かけた。昼前に帰ってきたが、シスターとブリ神父さんが待っておられた。あと、2点、持っている。それは、簡単には渡せなかった。久賀島に、どんな資料館が出来るのか。楽しみにして、期待している。
★中村安五郎修道士は、今年の2月15日、このホーム聖フランシスコ園で、93歳の生涯をとじた。コルベ神父が長崎に滞在中に、長崎の聖母の騎士に入った修道士だった。そのとき、わたしはホームに居たので、中村安五郎修道士の遺品を3点自室に飾っている。
★シスターは突然に現われて、安五郎修道士の遺品を欲しいという。久賀島に、資料館を作りたいので、そこに展示したい、との願いである。シスターが訪ねてきたのに負けて、大事な遺品「ロザリオ」を差し上げた。喜んでいるシスターです。
★シスターを案内して、連れて来たのは、愛野カトリック教会のポーランド人のブリ神父さんだった。ブリ神父さんの心も伝わってくる。大事な、大事な、フランシスコ中村安五郎修道士の遺品だが、有効に展示されることを願いつつ、シスターに手渡した。
★この日、朝の食事もしないで、早々と、長崎のクリニックへ診察に出かけた。昼前に帰ってきたが、シスターとブリ神父さんが待っておられた。あと、2点、持っている。それは、簡単には渡せなかった。久賀島に、どんな資料館が出来るのか。楽しみにして、期待している。
登録:
投稿 (Atom)
